五十四、凱旋

 私はエルネストに抱き締められて戸惑ってしまった。心配してくれたのは嬉しいけれど、こんなふうに男の人に抱き締められるなんて初めてだったから。


「エルネスト、あの……!」

「クロエ……」


 エルネストの切なげな低音が耳元に響いてくる。エルネストに抱き締められて嫌な気持ちにはならなかった。心のどこかで喜んでいる自分に驚いてしまう。嬉しいのに、温かくて心地いいのに、心臓がドキドキして落ち着かない。頬が熱くなってくる。

 エルネストはそんな私に構わず、私の背中に回している腕にさらに力を籠めた。ちょっと、苦しい。


「エルネスト、苦しいわ……」

「す、すまない! 君の無事な姿が見られたのが嬉しくて、つい……」


 エルネストが慌てて私の両肩に手を置いて体を離した。なんだかエルネストの顔が赤くなっている。私の頬もきっと赤くなっていることだろう。だって顔がとても熱いもの。

 元婚約者のレオナール殿下に抱き締められたらきっと嫌だっただろうけれど、エルネストだと嫌な気持ちにはならなかった。エルネストは親しい友人だからかもしれない。女の子同士で抱き合うのと一緒だろう。恥ずかしくてドキドキしたのはきっと異性だからだ。

 そんな私たちをアンがニヤニヤと笑いながら見ている。フェリクスは穏かに微笑んでいる。恥ずかしい……。そしてアンが感心したように口を開く。


「それにしても流石はクロエじゃのう。悪魔を倒すとは……」

「倒したとはいっても命を奪ったわけじゃないの。ただこれから数百年か数千年かの間は悪魔としての力を取り戻すことはできないと思うわ」

「そうか……。これでハルの件も溜飲が下がる。悪魔を消し去ることができないことは分かっておる。クロエはよく頑張った。全部お主に任せてしもうてすまんかったのう」


 アンが申し訳なさそうに眉尻を下げる。一人でやると言ったのは私だ。アンが気に病むことじゃない。


「いいの。……アン、あのね、ちょっと気になることがあったの」

「む、なんじゃ?」

「ベルゼビュートと取り引きをした人物が何者かは分からなかったのだけれど、悪魔はアビスホールという奈落と繋がる穴から出てきていたの」

「アビスホールか……。聞いたことがあるぞ。自然に開いたものじゃなかろう。人為的なものか」


 アンはやっぱりアビスホールのことを知っていた。私の黒の書には記載がなかったけれど、これでまた黒の書の補完が進んだのでよしとしよう。


「ええ、正解よ。穴は術式で抉じ開けられていたわ。それでその術式のパターンがアンの腕輪の癖とよく似ていたの。私は同じ人物の仕業じゃないかと思ってる」

「なに……?」


 アンの表情が途端に険しくなった。私と同じようにその人物の動機が全く想像できないのだろう。


「今のところ、手掛かりが少なすぎて首謀者の動機に全く想像が付かないわ。腕輪の術式の複雑さからみて、首謀者は相当頭のきれる人物だと思って間違いない」

「そうか……」

「そんな人物が一度失敗したからといって簡単に目的を諦めるとは思えないわ。きっとまた何か仕掛けてくるはずよ。もしかしたらもうすでに次の手を打っているかもしれない」


 私の言葉にアンが眉根を寄せて深く考え込むように項垂れる。


「ふむ、そうかもしれんのう。しかし厄介な奴に目を付けられたのう。儂とお主には接点なぞなかったはずじゃが」

「そうなのよね。けれど今考えても仕方がないわ。とても癪だけど相手の出方を待つしかない。それじゃ町の人の治癒も終えたし、そろそろ帝都へ戻りましょう。少し疲れてしまったの……」

「うむ。クロエ、ご苦労じゃった。町を出たら儂の背中に乗せて帰ろう」

「ありがとう、アン」


 私たちは徒歩でブランの町を出たあと、竜化したアンの背中に乗って帝都フォルバックへと向かった。


  §


 皇宮へ戻ったあとフェリクスが先にマルスラン殿下に報告しに向かった。私はエルネストとアンと一緒にハルの様子を見に医務室へと向かった。

 医務室へ入るとハルの意識が回復していた。そしてハルは私を見て嬉しそうに微笑んだ。人化していたハルを見て、人化できるほどには魔力が回復しているのが分かって安心した。


「ハル、目が覚めたのね。本当によかった……」

「クロエさま、ベルゼビュートは……」

「倒したわ。瀕死にして奈落に送り返してやったわよ」

「そうですか。兎に角クロエさまが無事でよかったです……」

「ハル……」


 まだ体がきついだろうに、私の心配をするなんて。私を思ってくれるハルの健気さに涙が出そうになった。


「貴女はまだゆっくり休んでいて。……そうだ! 何か食べたいものはない?」

「あー……。なんとなく甘いものが食べたいですねぇ」

「フフ。じゃあ、マルスラン殿下にたっぷりの果物とお菓子をお願いしてみるわ。ハルがいち早く情報を得てくれたお陰で帝都も救われたようなものだもの」

「そんな大したことはできませんでしたよ。返り討ちに遭っちゃいましたしぃ」

「そんなことないわ。ハルの情報がなかったら敵の正体も分からないまま悪魔の元へ兵士たちが向かって、被害が広がっていたかもしれない。そしてこの帝都にもきっと眷属が侵入していたわ。だから殿下にはいっぱいご馳走してもらいましょう」

「ハハ。ありがとうございます」


 未だ力なく笑うハルを見て、切なくなってくる。私のせいでハルが死にかけたのだ。ハルのやったことは間違いではなかったけれど、できることならもう危険な目に遭わせたくはない。けれどハルの意識が戻ったらこれだけは言いたかった。


「ハル、本当にありがとう……」

「クロエさま……。クロエさまのためなら、アタシはなんだってやりますよ」


 ハルが嬉しそうに笑って答えた。早く元気になってほしい。そう強く願いながらアンを残して医務室をあとにした。そしてエルネストと一緒にマルスラン殿下の元へ報告に向かった。


「クロエ、ブランの町を救ってくれてありがとう。詳細はフェリクスに聞いたよ。悪魔を倒した上に、ブランの町全体を包むほどの治癒魔法を施したとか……。よくやってくれたね」


 マルスラン殿下が労いの言葉をかけてくれた。だけど今回のことで私のグリモワールの力が強力だということを把握されてしまったらしい。


「私の力だけじゃありません。それに、ブランの町が襲われたのは私のせいだと思います」

「……ああ、君が狙われていたのだろう? だが君に非があるわけじゃない。君を帝国へ招待したのは私だし、何より一番悪いのは悪魔を使って君を狙った奴だろう?」

「そうですが……」

「心配しなくていい。それよりも君たちに全てを任せてしまったことを不甲斐なく思う。悪かったね」


 私のせいでブランの町が危機に瀕したというのに、穏かに笑って許してくれるのか。帝国の皇太子としてというよりは友人としての労わりの感情がマルスラン殿下の言葉からは感じられる。身勝手だとは思うけれど、その言葉に救われて安心した。


「いえ。兵士が人間である以上、無策のままベルゼビュートに近付けば被害が拡大したかもしれません。私たちにお任せくださったのはご英断だったと思います」

「そう言ってもらえると救われるよ。一応陛下とも対策について話したのだが、なかなかいい方法が見つからなくてね」

「そうでしょうね。魔物と違って狡猾な悪魔がこの世界に現れることなんて、普通ではあり得ませんから……」


 今回のようなことは帝国にとっても初めてのケースだっただろう。対策に困窮しても仕方がないことだ。ただ本能のままに食い荒らす魔物とは根本的に違うのだから。

 マルスラン殿下は私の言葉に大きく頷いた。


「ああ。最終的には町全体を封鎖するしかないという結論に至った。ただ封鎖するだけだと兵を向かわせなくてはいけないが、兵が眷属になってしまっては目も当てられなくなる。結局、町全体を魔道士団の総力を挙げて結界で封じ込めるしかないかと考えていたところだった。……それにしても」


 マルスラン殿下は顎を指で弄りながら私のことをじっと見つめる。


「君のグリモワールの力が強いだろうということは、ある程度予想していた。エルネストは多分知っていたんだろうが、そういったことは何も言っていなかったからね。クロエがここまで強力なグリモワール使いだとは思わなかったよ」

「私は……」


 マルスラン殿下の言葉を聞いて思い返す。占術士のエヴラールさんが私を見つけてマルスラン殿下に伝えた際に、力の大きさについては伏せておいてくれた。

 けれど今回の事件で私の力のことが帝国に知られてしまった。先ほどのマルスラン殿下の友人としての温かい言葉を信じたいと思う。けれど一方で、帝国の皇太子の立場としては、この先私を利用しようとするかもしれない。そう考えるとどうしても身構えてしまう。

 そんな私の不安が表情に出ていたのだろうか。マルスラン殿下がふわりと微笑んで話を続ける。


「ああ、クロエ。君が懸念しているようなことはないと約束するよ。今回の経緯については、陛下と私と信頼のおける一部の者しか知らない。そして陛下と私とで君の自由を奪うようなことはしないと話が付いている。何も心配することはないよ。今まで通り私のことはただの友人だと考えてくれて構わない」

「マルスラン殿下……」


 マルスラン殿下の言葉にほっと溜息を吐いた。私は少しずつではあるけれど、マルスラン殿下のことを信用できる人物だと思い始めている。その考えが間違いではなかったことが分かって心から安堵したのだ。


「帝国としては、君が敵対しないでくれるだけでいいんだ。元より我々の力だけでこの帝国は成り立ってきた。これから先も君の力に頼るつもりはないよ。結果的に今回の件は君に頼ってしまった形になったから、説得力がないかもしれないけど」

「悪魔のことは私のせいですから……」


 私がそう言うと、マルスラン殿下が苦笑した。


「そんな言い方をしないで。今回みたいにどうしても我々の力だけでどうにもならないときに、相談くらいはさせてもらうかもしれないけどね」


 強制ではなく協力ならば力を惜しむことはない。私の意志を優先してくれるのであれば、困っている友人を助けることは吝かではない。


「ええ、構いません。お心遣い、感謝します」

「しかし悪魔か……。今後も現れる可能性はあると思う?」


 私はマルスラン殿下の懸念に頷くしかなかった。


「可能性はかなり高いです。首謀者は人間で間違いありませんが、かなり頭のきれる者だと予測できます。術式からも粘着質な人柄が感じ取れるので、これから起こるかもしれないことを想像するだけでうんざりします」

「そうか、そうだよね……。相手が何者か予測できない以上、事が起こってから対処するしかないね。こちらでも何か分かったらすぐに知らせるよ」

「ありがとうございます」

「それと、君を追っていったブルジェ殿はブランの町から戻ってきてすぐにブリュノワに発たれたよ。随分肩を落としていたみたいだけど」

「そうですか……。それは悪いことをしました」


 私を助けられなかったという自責の念でもあったのだろう。わざわざ私を心配して来てくれた気持ちがありがたいと素直に思った。だからそう伝えたのに。

 リオネルがブリュノワに帰った。私のことについては一切報告しないでくれるとありがたいのだけれど。それに以前と比べると随分私に肩入れしてくれているように感じた。

 リオネルは案外感情が顔に出やすそうだから、きっと隠し通すことはできないだろう。あのレオナール王太子殿下がリオネルの変化をどう捉えるだろうか。リオネルのことが心配だ。

 リオネルは根は悪い人じゃなかった。根が悪い人などそうそういないのかもしれない。あの魔道士も騎士ももしかしたら……。――そこまで考えたあと、なんだかイラッとしてきたので考えるのをやめた。

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