五十一、病魔の蔓

 街を出てしばらくしたあとに、サロメの背中を見つけることができた。サロメは人間の力を遥かに超える速度で走っている。私が追っていることに気付いてしまうだろうか。

 けれどたとえ気付かれても別に構わない。ベルゼビュートにしてみれば、標的のほうから近づいてくれるのだから本望だろう。

 サロメが森の中へと入った。ベルゼビュートは今も森の中に潜んでいるのだろう。


(この森でハルは傷付けられたのね……。ハル、ごめんね)


 ハルのことを思い出して胸がぎゅっと締め付けられる。

 サロメを追って森の奥へ進む。黄泉の森ほどではないけれど、奥へ進むほどに樹木の密度が高くなり、昼だというのに鬱蒼と生い茂った樹木のせいで薄暗くなってくる。

 しばらく走ってサロメが辿り着いた森の奥には、黒いローブを羽織った長い金髪の男が銀の瞳を細めて立っていた。サロメはうっとりと男を見つめながら足元に跪く。男は蠱惑的な笑みを浮かべてサロメを迎え入れて、サロメの頭の上に手を置いて優しく撫でた。


(この男がベルゼビュートね)


 やはり予想通り、ベルゼビュートと思しき男は、サロメを追ってきた私の存在に気付いていたようだ。艶めかしい笑みを私へと向けて口を開く。


「ようこそ、クロエ。私がベルゼビュートだ。来てくれて嬉しいぞ」


 ベルゼビュートの言葉を聞いて、はっと驚いたように跪いていたサロメがこちらを見て目を瞠る。そして憎悪の滲む眼差しで私を睨みながら悔しそうに歯噛みする。


「あんた、いつのまに……! 私を追ってきたのね……! 申しわけございません、ベルゼビュートさま……」


 申しわけなさそうに項垂れるサロメに、ベルゼビュートが不気味なほど穏かに答える。


「いや、よくやった、サロメ。お陰で会いたくて堪らなかった愛しい人が向こうから来てくれた」

「ベルゼビュートさま……」


 ベルゼビュートの言葉に、サロメが嬉しそうに頬を染める。私はベルゼビュートに向かって尋ねる。


「なぜ貴方は私のことを知っているのかしら。それに貴方の狙いは私なのよね? 私は悪魔に恨まれるような覚えはないのだけれど」

「フッ。お前も私のことを知っているではないか。ああ、黒の書に書いてあるのかな?」


 どうやら悪魔は黒の書のことも把握済みらしい。この世界とは次元の違う奈落からきた悪魔――ベルゼビュートはなぜこの世界に現れることができたのだろうか。

 私が幻獣を幻界から召喚するように、誰かが悪魔を奈落から呼び出したのか。わざわざ私を殺すために? 悪魔の目的が私を殺すことなら、召喚主の目的もそうなのだろう。


「人間に呼び出されたのでしょう? 悪魔も人間に使役されるのね」


 私の言葉にベルゼビュートが表情を消す。どうやら癇に障ったらしい。


「……使役されているわけではない。それなりの対価を貰った上での取引きだ。人間ごときが知ったふうな口をきくな」


 穏かな口調ではあるものの、吐き出された言葉からは自尊心の高さが窺える。やはりベルゼビュートは私を殺したい何者かによって召喚されたのだ。でも一体誰が何のために?


「召喚したのは私の知ってる人かしら?」

「フッ。いくら愛しいクロエの質問でもそれには答えられないな。だがその身を私に預けるというならばお前の問いに答えてやってもいいぞ」


 ベルゼビュートは困ったように眉尻を下げて、柔らかな微笑みを浮かべた。一方サロメは般若のごとき形相で私を睨んでいる。ベルゼビュートが私に向ける言葉が業腹なのだろうけれど、悪魔は私に命を渡せと言っているのだ。


「召喚主との取り引きを破棄して大人しく奈落へ帰るのね。そうすれば痛い思いをしなくて済むわよ」

「愛しい女に与えられる苦痛なら喜んで受け入れよう」


 口の減らない悪魔だ。自尊心の高い悪魔のことだ。召喚主の名前は決して明かさないつもりだろう。取り引きの対価と召喚された方法だけでも分かるといいのだけれど。悪魔は幻獣と違って対価なしで動くことはない。

 以前母から聞いたことがある。悪魔は快楽主義で、己の欲を満たすためならどんなに冷酷で残忍な手段でも用いると。もし召喚した者の契約内容に興が乗らなければ、機嫌を損ねて命だけを奪って帰っていくのだそうだ。

 言い換えれば、取引きが悪魔にとって美味しい内容ならば、大した対価がなくとも嬉々として乗ってくるということなのではないだろうか。

 今目の前で蠱惑的な笑みを浮かべる悪魔が、私を殺す気満々なのは間違いない。召喚主が私の力を知らないのか、悪魔に伝えていないのか。


「お前を私にくれないか、クロエ」


 ベルゼビュートが、体から数十本ほどの病魔の蔓を突然放射状に放ってきた。それとともにベルゼビュートの纏っていたローブが引き千切られて舞い散った。欲しいのは「私」じゃなくて「私の命」でしょうに、持って回った言い方をする悪魔に舌打ちをしたい気分になる。

 上半身は美しい男性の裸体だけれど、下半身は爪先まで獣のように真っ黒の硬そうな毛に覆われている。背中からは黒っぽい羽虫の羽のようなものが生えている。昆虫が苦手な私は、ベルゼビュートの姿を見た途端に背筋に冷たいものが走った。


(私、虫って苦手なのよね……)


 私はグリモワールの黒い衣を纏って、ベルゼビュートの放った蔓を見切って躱す。動きやすいように、結界を卵の殻状のものから体に薄く纏うものに変えた。まとが大きいと捕まりやすくなるからだ。

 この程度の速度なら躱すのは容易だ。そして躱しながら後ろに飛びのこうとした瞬間、はっと気づいて横に避けた。私の足元から無数の病魔の蔓が伸びてきたからだ。


(これは……躱し続けるのはちょっときついかも……)


 ベルゼビュートから放たれる前からの蔓と、地面から無数に伸びてくる下からの蔓。ただでさえ障害物の多い樹木の間で、両方向からの攻撃を躱し続けるのはかなりの集中力を要する。

 結界に覆われているとはいえ、結界ごと拘束されれば自由を奪われる。行動を制限されるのは厄介だ。絶対に捕まるわけにはいかない。


「いつまで私から逃げるつもりかな? いい加減捕まったほうが楽になれるよ」

「貴方の思い通りにはならないわ」

「いいね。精一杯抵抗して、私のために可愛らしいダンスを踊っておくれ」


 ベルゼビュートは絶え間なく蔓を放ちながら、私が躱すために動き回る様を楽しそうに眺めている。私は蔓を躱しながら反撃の隙を探るために懸命に頭を働かせた。

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