四十、ハルの帰還
食堂を出たあと、アネットさんとは店の前で別れた。次に向かうのは街の図書館だ。けれど図書館へ向かう途中でエルネストが何か言いたげにチラチラとこちらを見ている。言いたいことがあるなら言えばいいのに。思わず首を傾げてしまう。
「クロエ、アネットが言っていたことは……」
「クロエ!」
エルネストが何かを言いかけたところで突然背後から誰かに声をかけられた。振り返ってみるとそこにいたのはアンだった。
なぜここが分かったのだろう――と、一瞬不思議に思ったけれど、竜族であるアンはグリモワールの力を感知することができる。その力で私の居場所が分かったのだろう。
合流して一緒に図書館へ行くつもりなのかと思ったけれど、どうやら違うようだ。アンの表情がいつになく険しい。
「アン、どうしたの?」
「すぐに皇宮へ戻るのじゃ。ハルが……」
切羽詰まったようなアンの表情と言葉で、すぐに嫌な予感に支配される。エルネストも只事ではない事態を察知したようで厳しい表情を浮かべた。場の空気がピンと張り詰める。
「……ハルがどうしたの?」
「死に掛けておる。すぐに戻って治癒を頼む!」
「なんだと!」
「……分かった。今すぐ戻るわ」
私たちは馬車に乗って大急ぎで皇宮の医務室へと向かった。
医務室に到着して奥のベッドを見ると、人化すらしていない幻獣の姿のままのハルが横たわっていた。意識がないようだけれど、息はある。
部屋には医師とエヴラールさんがいた。医師にはハルが幻獣であることは連絡済みなのだろう。幻獣の姿のハルを見て、特に怯えている様子はない。乱れた呼吸を繰り返すハルに向かってすぐさま黒の書を掌に呼び出す。
「グリモワール」
黒の書を行使して治癒魔法を施しハルの傷を癒す。だがハルを診て気付いた。どうやら外傷によるダメージだけでなく魔力が枯渇しているようだ。私はアンに向かって事情を尋ねる。
「一体何があったの?」
「儂は休んでおって気付かなんだが、お主の留守中に、エヴラールとハルがここより南にあるというブランという町のさらに南に、尋常ならざる魔力を感知したのじゃ。ハルはクロエに危険が及ぶと危惧して、エヴラールが止めるのも聞かずに皇宮から飛び出していったのじゃ」
「止めたって、敵はそれほどまでに……?」
ハルは私が召喚した強力な幻獣だ。並大抵の魔物なら蹴散らしてしまうほどの実力の持ち主だ。そのハルをエヴラールさんが止めたということは、察知したのがよほど強大な魔力だったのか。私が疑問を口にすると、ハルの側に付き添ってくれていたらしいエヴラールさんが答える。
「並みの魔物の魔力ではありませんでした。敵は魔力を抑えることができるようですから、もしかすると魔物ではないかもしれないと思いました。いずれにしろハルさま一人では危険すぎると判断してお止めしたのですが、クロエさまに危険が及ぶといけないから先に正体を探ってくると仰って城を飛び出してしまわれたのです」
「ハル……」
ハルが私のためにそんな危険を冒すなんて……。ハルは決して無謀な性格ではない。どちらかというと狡猾に動く用心深い性格だ。そのハルを出し抜いてこれほどのダメージを負わせるなんて、確かに魔物ではないのかもしれない。
そもそも幻獣は契約主の傍にいる限り死の危険はほぼない。なぜなら死の危険に晒される前に契約主が幻界へ帰還させるからだ。だが離れて目が届かない所へ行かれると戻すことは叶わなくなる。召喚された幻獣は自らの意志で幻界へ帰ることはできないのだ。思索を深める私に、アンが険しい表情で説明を始める。
「エヴラールに知らされたあと、ハルの帰還をこの皇宮でエヴラールとともに待っておった。じゃが戻ってきたハルは満身創痍。魔力がほぼ枯渇した状態で、体中傷だらけじゃった。恐らく魔力だけでなく体力も奪われていたのじゃろう」
「なんてこと……」
「そして意識を失う直前にハルが齎した情報によると、敵の名はベルゼビュートという悪魔じゃ。お主の黒の書に記載があるじゃろう」
「ベルゼビュート……。血液中の病魔によって眷属を増やし、使役する悪魔」
「うむ。ハルによると体の中に入り込んだ奴の病魔によって魔力と体力を奪われたらしい。じゃが、ハルは幻獣じゃ。病魔はハルの体を宿主とすることが叶わず、本来の宿主であるベルゼビュートからある程度距離が離れたところで体内に潜り込んでいた病魔が消え去ったそうじゃ」
「酷い……」
私は傷ついて弱ってしまったハルの近くに寄って頭を撫でる。呼吸は落ち着いてきたみたいだ。治癒は済ませたけれど、枯渇した魔力と体力は休息によって回復させるしかない。今はゆっくり休ませてあげなければ。
「ごめんね、ハル……。私がここを離れなければ……」
「クロエ、気持ちは分かるが今は一刻も早くベルゼビュートの対策を講じるべきじゃ。ベルゼビュートは力任せに攻撃をしてくる悪魔ではない。本来は己の眷属を作り、眷属を使役して攻撃を仕掛けてくる。ハルの話じゃ、奴は一人だったそうじゃ。眷属を侍らせることもなく一所でじっと待っていたところをみると……」
「すでに眷属を作ったあとという可能性が高いわね」
「うむ。奴の病魔は宿主の体に巣食ってしまえばベルゼビュートからどれだけ離れようが消えることはない。眷属はさらに眷属を増やす。もし奴がすでに眷属を作っているなら最寄りの町であるブランに向かった可能性が高いじゃろう」
「ブラン……。このまま放置をすれば眷属は増え続ける。いずれはこの帝都にもやってくるかもしれないわね」
「そうじゃな。すぐに対処すべきじゃろう」
放置すれば増え続ける悪魔の眷属。そしてベルゼビュートが眷属とするのは人間だろう。眷属となった者の命を奪うことなく救うことができるだろうか。とにかく手が付けられなくなる前にブランの町へ向かって、ベルゼビュート直轄の眷属を見つけなくては。
「それともう一つ」
アンが人差し指を立てて話を続ける。
「ベルゼビュートはクロエ、お主のことを知っておるようじゃとハルが言っておった」
「私のことを?」
「うむ。ハルのことを『例の女』が呼び出した幻獣――そう言っておったそうじゃ。もしかすると奴の狙いはお主かもしれん……」
「私が狙い……」
俯いて思考を始めたところで、突然エルネストが申し出る。
「俺もブランへ行こう」
「エルネスト、貴方が行くのは危険だわ」
ハルだからこそベルゼビュートの眷属にはならなかった。けれど人間のエルネストでは罹患する可能性が高い。そんな危険は冒せない。
「大丈夫だ。人間の眷属に後れを取ることはない。触れられる前に拘束するさ」
「でも……」
エルネストの同行を許可すべきかどうか考えあぐねているところに突然声をかけられる。
「私も同行させてください」
声のしたほうへ振り返ってみると、見知らぬ青年が医務室の扉の入口に立っていた。亜麻色の髪に翡翠の瞳を持つ顔立ちの整った長身の美丈夫だ。穏やかな眼差しや雰囲気がエヴラールさんと似ている。
「貴方は?」
「私はフェリクス・リュフィエと申します。この帝国魔道士団の団長をさせていただいております。現在マルスラン殿下が皇帝陛下とベルゼビュート対策について話し合っていらっしゃるところです。もしクロエさまがすぐにでも町へ向かわれるなら、同行してお守りするようにと命じられました」
「クロエ、フェリクスは魔道士団の中でも随一の実力者だ。同行してもらえばより安全に君を守れる」
「そうですか。よろしくお願いします」
エルネストが太鼓判を押す魔道士か。自分の身を自分で守れるならば同行してもらってもいいかもしれない。眷属が何人いるか分からない。拘束できる手段は多いほうがいい。リュフィエさまの言葉を受けてエヴラールさんが説明をする。
「ハルさまが戻ってきたときには、私とアンジェリクさまがハルさまから直接話を窺いました。そしてハルさまが意識を失ってしまわれたあと、私とアンジェリクさまでマルスラン殿下に状況をご報告させていただいたのです」
「そうだったのですか」
この場にはいないけれど、今の話を聞いた限りではマルスラン殿下はすでに状況を把握しているようだ。ベルゼビュートの性質上、下手に兵を動かされるとかえって状況が悪化する可能性がある。できれば国が動く前にこちらで対処したい。
ブランの町で眷属に対処するために注意してもらわなければならない点を、リュフィエさまに向かって確認する。
「ではリュフィエさま。ベルゼビュートによって眷属とされるのは恐らく人間です。ですから攻撃されても相手の命を奪わないでほしいのです。拘束してもらえれば回復できるかどうかを私が判断します。けれど接触すれば眷属から罹患する可能性があります。ですから接触を避けて拘束する必要があります。その点は大丈夫ですか?」
「私なら大丈夫です。結界が張れますから自分の身は自分で守れます。状況はアンジェリクさまに伺って把握しております。それとクロエ嬢、私のことはフェリクスと呼び捨ててもらって結構です」
「では、フェリクス、私のこともクロエと」
「分かりました、クロエ」
フェリクスが頷いてニコリと笑った。
「そろそろ行くぞ。儂が町まで乗せていく」
「ありがとう、アン。皆様、どうかくれぐれも慎重に行動してください」
私とアンは大丈夫としても、エルネストとフェリクスは罹患の危険性がある。若干の不安はあるけれど、二人とも実力者だ。ここは信頼して手伝ってもらったほうがいいだろう。そう考えて、私、アン、エルネスト、フェリクスの四人でブランの町へと向かうことにした。
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