第三章 病魔の潜む町

三十八、奪う女

 女は慣れた足取りで夜の森を駆け抜けていく。女の名はサロメという。サロメは焦げ茶色の髪と瞳の美人といわれる顔立ちだ。胸が大きく腰がくびれ、所謂男好みのする容姿といえる。

 サロメの手にはぎゅうぎゅうに何かがつまった大きな黒鞄が握られている。かなりの重量であろうにもかかわらず、足取りは軽い。


「キャハハッ。あのスケベ男、ちょっと優しい言葉をかけてやったらすぐに家にあげやがった。今ごろ使用人どもは驚いてるだろうねぇ。自分たちの主人が口から泡吹いて冷たい躯になってるんだからさぁ」


 サロメはほくそ笑んだ。これで当分遊んで暮らせると。サロメの鞄に入っているのは殺された男の部屋にあった、ありとあらゆる宝飾品と現金だ。

 サロメにとって己の容姿は重要な武器だ。この容姿で標的の男を篭絡し、捕まえ、殺して奪う。サロメの姿を見た男は必ず始末する。


「今度の町では何人殺そうかな……。ああ、あの命の炎が小さくなって消えていくのを見ていると堪らない……!」


 殺す理由は姿を見られたからというだけではない。サロメにとって毒で人を殺めるのは何よりの快感なのだ。もう何人殺したか分からない。男に取り入ってその心と体と財産と命、持てるもの全てを奪う。サロメが最高に興奮する瞬間だ。

 間もなく森を抜けるというところで、上機嫌で走るサロメの耳に涼やかな男の声が届く。


「なんと美しい……」


 サロメは突然聞こえてきた声に驚き、立ち止まって辺りを警戒して見渡す。こんな夜中の森に人がいるわけがない。追われていたのかと一瞬危惧したが、気のせいかと再び足を踏み出そうとした。すると……


「フッ。そんなに急ぐな……」

「誰だっ!」


 声は明らかにサロメに向けられたものだ。その甘やかな声を聞いていると、脳が痺れるような心地よさが齎される。


「なんと美しい魂の色だ……」


 サロメの目の前に真上からスッと男が降りてきた。全身に黒いローブを纏った男が蠱惑的な笑みを浮かべてサロメを見つめる。

 肩の下ほどまでの眩い金髪に銀の瞳、恐ろしく整った顔立ち――未だかつて見たことがないほどに美しい男だが、瞳の虹彩は縦に細く伸びている。サロメは男を獣人だと思った。魔物にしては美しすぎると思ったからだ。


「……ほお、もう人間を三十人以上も殺しているのか。どす黒く澱んだ赤い魂。クククッ、私好みだ」

「あんた……」


 サロメの全てを見透かしているかのように呟く男を不気味だと感じたが、相手が男である以上やることは一つだ。

 サロメは黒鞄を地面に落とし、品を作りながら美しい美貌の男にゆっくりと歩み寄る。


「ねえ、あんた。私を見逃してくれるならこの鞄の中の分け前をあげるわ。それにあんたのことも満足させてあげる」

「ほお。私を満足させてくれると? それは楽しみだ」


 サロメは妖艶な笑みを浮かべながら男の体にしなだれかかり、男の顎をツゥッと人差し指でなぞる。そしてゆっくりと男の首に手を回し顔を近づけて、男の首の後ろに長い針を立てる。


 ――ズズッ


 男の延髄に針を深く深く突き刺していく。サロメ自慢の猛毒の針だ。これを刺されれば三十秒ももたない。油断をするから悪いのだ。男などやはり他愛もない。サロメは勝利を確信しゆっくりと口角を上げた。


「なるほど、これは気持ちがいいな」

「っ……!」


 サロメの目が大きく見開かれる。男はさも嬉しそうに笑みを浮かべサロメを見つめる。それを見て針から手を離し咄嗟に後ろに飛びのこうとするが、気付けば男の腕ががっしりと背中に回されて身動きが取れない。男の細身の体からは想像もできないほどの力だ。

 おかしい。針は確かに深く刺さっている。死なないはずがないのに。――焦燥感と恐怖心が募っていく。


「あっ、なっ、どうして……!」

「ふぅん、私が怖いのか? ……ほお、命を奪うのは好きだが、己の命を奪われるのは嫌なのか。フフッ。なんとまあ……。ますます気に入った」


 男は首の後ろにサロメの針を突き立てたまま、蠱惑的な笑みを浮かべて嬉しそうに告げた。

 この男は人間じゃない。全身に冷たい汗が滲む。サロメの本能が警鐘を鳴らす。この男からすぐに離れなければいけないと。


「嫌っ、放してっ」

「うん? 私を満足させてくれるのだろう? なあに、殺しはしないし食いもしないさ」

「殺さない……?」

「ああ。私の名はベルゼビュート。お前のような澱みきった魂をこよなく愛する悪魔だ」


 サロメはベルゼビュートから目が離せなかった。その目に魅入られて動けなくなったのだ。


「悪、魔……」

「そうだ、我が口づけを受けよ」


 ベルゼビュートの赤い唇がサロメの白い首筋にゆっくりと近付き口づけを落とす。


 ――プスリ


 ベルゼビュートは動かなくなったサロメの首筋からゆっくりと唇を離す。サロメの首筋には赤い血の玉がぷくりと浮いている。ベルゼビュートの唇からは僅かに針のようなものが覗いている。サロメの瞳は元の焦げ茶色からベルゼビュートと同じ銀色となっていた。

 ベルゼビュートは舌なめずりをしたあと、絶対的な威厳をもってサロメに告げる。


「さあ、我が眷属よ。お前の好きなように動くがいい。そして……分かっているな」

「はい、ベルゼビュートさま」


 ベルゼビュートはサロメを見て嬉しそうに口角を上げた。


 ベルゼビュートに送り出され、サロメは逃げてきたブランの町へと再び戻った。

 サロメの瞳は暗く翳り、かつてのような欲の一切が消え失せている。贅を欲する気持ちも湧かない。サロメの願いはそのままベルゼビュートの願いへと変わった。

 街に到着してまず目についた教会へ入ることにした。扉を開け、礼拝堂の通路を真っ直ぐに進んだ。そして大きな神の像のすぐ前で跪く。そのまま両手を組んで祈りを捧げていると、優しげな顔をした壮年の神父が近付いてきた。

 神父はサロメを見て微笑み、サロメの側に近付いた。


「神よ。この忠実なる貴方の僕に、深き信仰心に、どうか祝福を与えたまえ」


 神父がサロメの隣で神の像に向かって両手を組み祈り始めた。サロメはゆっくりと立ち上がり、神父に向かってニコリと微笑む。


「神父さま。それは間違いですわ。私の主はただ一人。ベルゼビュートさまだけです」

「え……」


 サロメは驚いて目を瞠る神父にゆっくりと近付いた。

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