三十七、行きつけの店で
目の前のアネットと呼ばれた少女の視線は真っ直ぐに私のみに向けられ、その薄茶色のくりっとした大きな目は私をキッと睨みつけている。
少女とは初対面で間違いないと思う。いきなりこんな目で睨まれる理由が思い当たらない。目の前の少女の意図がよく分からず戸惑っていると、エルネストが少女に窘めるように注意する。
「アネット、いい加減にしないか。初対面の人に対する態度じゃないだろう」
「っ……、兄さまっ」
「……仕方がない。店の中に入ろう。クロエ、すまない」
「いえ、構いません」
私たちは店の中へと入ることにした。店の中は昼時というのもあってそこそこ人で埋まっている。その中でかろうじて空いていた窓際の四人掛けのテーブル席に座ることになった。
私と少女が向かい合わせに座ると、エルネストは私の隣に座った。それを見た少女が再び私を睨む。エルネストは私の護衛だから仕方がないんだけれど。
エルネストがそんな少女を困ったような顔で見て溜息を吐いたあと、私に向かって口を開く。
「クロエ、失礼な態度を取らせてしまってすまない。この娘は俺の義妹のアネットだ。マルスから聞いたと思うが、ラビヨン伯爵家の娘だ」
「……アネットよ。よろしくしなくていいわ」
「アネット!」
エルネストの紹介に応じて、アネットさんはツンと顔を背けたまま名乗った。不躾な態度を見かねてか、エルネストが戒めるように声を荒げた。
「クロエ、すまない。あとで十分に叱っておくから」
申しわけなさそうに私にそう言ったあと、エルネストはアネットさんのほうへ向き直って不機嫌さを隠しもせずに告げる。
「アネット、こちらはクロエ殿だ。マルスラン皇太子殿下が
「クロエです。よろしくお願いします」
「……よろしく」
エルネストの一言にびくりと肩を震わせたアネットさんに私が軽く一礼した。するとアネットさんがこちらを向いて戸惑うような眼差しで私とエルネストを交互に見る。
「この方って兄さまの気になる」
「あー、アネットもクロエも腹が減っているだろう。先に料理の注文をしようか」
エルネストが何やら慌てたようにアネットさんの言葉を遮った。アネットさんは何を言おうとしたのだろうか。気になる。
「クロエさん、ごめんなさい。つい感情的になってしまって」
「いえ、いいんです。何か行き違いがあったのでしょう。気になさらないで」
アネットさんは先ほどのエルネストの言葉がよほど堪えてしまったのだろうか。しゅんと肩を落として、先ほどまでの傲慢な態度から、借りてきた猫のような殊勝な態度へと変わった。兄の言葉に逆らえないのだろう。なんだか可愛らしい。
それにしても兄妹仲のいい二人が羨ましい。私が妹とこんなふうに過ごすことはこれまでなかったし、これからも絶対にないだろう。本当の家族じゃなかったとしても、エルネストたちは血の繋がった私の家族よりもよほど本物の家族らしい。
「それで兄さま、昨日兄さまが言ってた気に」
「アネット、この店はこの間から期間限定のメニューを始めたんだ。お前、甘いのが好きだろう? 好きなだけ頼んでいいぞ」
「えっ、いいの? わぁ、どれにしようかしら」
「さあ、クロエも」
「え、ええ、ありがとう」
エルネストは期間限定メニューが随分お気に入りらしい。折角だからレモンケーキというのを頼んでみよう。
エルネストはホールの従業員に食事と期間限定メニューの注文を伝えて、大きな溜息を吐いた。落ち着きのない様子がいつものエルネストらしくない。動揺しているようにも見える。
料理を待つ間、アネットさんがちらちらと私とエルネストを交互に見る。何だろう、この居心地の悪い空気は。
私はこの気まずい空気を打破すべくアネットさんに話しかけみる。
「アネットさんはおいくつなんですか?」
「私は十八才よ。クロエさんは?」
「私は十六です」
「十六……! 兄とは七つも離れているのね」
「……お前、ひと言多い」
エルネストはソファーに背中を凭せ掛けて、両腕を組んで不機嫌そうな顔をしている。一方アネットさんは気分が乗ってきたのか、お喋りをしたくて堪らないといった様子だ。
「クロエさんは好きな方はいらっしゃるの?」
「お前なぁ、そんな質問、会って間もない人に不躾だろう」
「いいじゃない。兄さまも親しくしてらっしゃるようだし、兄さまのご友人なら私も仲よくしたいもの」
アネットさんの言葉に、エルネストが小さく舌打ちをしたように聞こえた。気のせいだろうか。
「それで、どうなの?」
「私は婚約者に婚約を破棄されたばかりなので、しばらくは誰かを好きになることはないと思います」
「えっ、そうなの? 貴女みたいな綺麗な人との婚約を破棄するなんて信じられない……」
アネットさんは本気で驚いているようだ。お世辞には見えない。
婚約破棄されたときはあえて地味に装っていたから、外見のことを言われると後ろめたいのだけれど。
「私がどう見えるかは分かりませんが、好みは人それぞれですから……」
「そうかもね。それで、兄のことはどう思っているのかしら?」
「ブッ!」
アネットさんの言葉を聞いてエルネストが盛大に吹き出した。なんだか今日のエルネストは本当におかしい。
アネットさんの質問と同時にテーブルに料理が運ばれてきた。ローストビーフのビネガーソース添えと、ポテトサラダ、それにレモンケーキだ。
早速カトラリーを手にして、これでお腹を鳴らさずに済むと安堵しながら、アネットさんの質問に答える。
「いい方だと思います。優しいし、表情豊かだし、面白いし……」
「表情豊か……」
アネットさんが私の言葉を聞いて目を丸くする。するとエルネストが険しい顔で窘めるように注意する。
「アネット、俺の話をするな」
「嫌よ。クロエさんとは初対面なんだから、共通の話題なんて兄さまのことくらいしかないでしょう? それにしても兄は随分クロエさんに気を許してらっしゃるのね」
「お前、何を……」
「クロエさん、兄はこう見えて過去におつきあいした女性にはほとんど無表情だったんですの」
「過去におつきあい……」
「アネット、頼むから……」
何やら懇願するような呟きがエルネストのほうから聞こえてきた。
エルネストの過去の話を聞いて俄然興味が湧く。過去におつきあいした人が複数いたらしい。健全な男子なのだから全くおかしくない。話の続きが聞きたくて、アネットさんのほうへ身を乗り出した。
「ええ、兄はこの帝都では『氷狼』と呼ばれて一目置かれているのよ。騎士団随一の実力を持つ氷魔法を使いこなす魔法剣士として、これまでいろんな戦いで戦果を挙げてるの」
「まあ、凄いんですね。エルネストって」
「そうでしょう?」
「やめてくれ……」
何やら羞恥に悶えているらしいエルネストが可愛い。アネットさんの兄自慢が恥ずかしいのだろう。
「兄はこの帝都では有名人だから、夜会に出ようものならそれこそ蟻が群がるように令嬢が寄ってくるのよ」
「まあ!」
「けれど兄はいろいろと
「アネット、お前いい加減にしろよ」
「ふーんだ。でも兄は街の女性にはいっぱい知り合いがいるのよ。この間までは鍛冶屋の娘だったかしら。その前は……」
「アネット!」
「まあ、エルネストはとてもモテるのね」
「クロエ……」
エルネストが困ったように眉尻を下げる。別にいいんじゃないだろうか。健全な若い男性なんだし、女性とのおつきあいの一つや二つや三つあっても不思議ではない。全く、全然。私はエルネストに称賛の言葉を告げる。
「凄いじゃない。強くて格好よくてモテるなんて、彼女にとっては自慢の恋人ね」
「そうかしら? 私ならモテる彼氏なんて心配で堪らないわ」
アネットさんが肩を竦めた。
「確かにそうですねぇ。私も、もしおつきあいするなら真面目で誠実であまり目立たない人がいいかもしれません」
「そうよねぇ。フフン」
アネットさんが勝ち誇ったような笑顔をエルネストに向ける一方で、エルネストは愕然としているようだ。さらにアネットさんが話を続ける。
「クロエさんは聞いたかもしれないけれど、兄と私は血が繋がっていないの」
「ええ、マルスラン殿下からお聞きしていますわ」
「私は兄を愛しているの。結婚したいと思っているわ。兄と本当の家族になりたいのよ」
「アネット、その話は……」
「そ、そうなんですか」
いきなりアネットの本心を打ち明けられて驚いてしまった。エルネストとアネットさんの結婚。――名実ともに本当の家族になるのはいいことなのかもしれない。けれど、心なしか胸がチクンと痛む。
「兄はまだ頷いてはくれないけれど、クロエさんは応援してくれるわよね?」
「応援……」
「アネット、もうその話はやめろ」
「何よ、いいじゃない。兄さまはクロエさんのタイプじゃないみたいだし」
なんだろう。頷いてもいいはずなのにモヤモヤする。よく分からないけれど、他人の恋愛に口を出すのはごめんだ。
「私は人さまの恋愛には関わらないようにしているんです。だから応援とかそういうのは……ごめんなさい」
「そう。まあいいわ」
「クロエ、すまない。こいつの言うことは一切気にしないでくれ」
「本当に仲がいいのね。羨ましいわ」
仲のいい二人の姿が微笑ましくて思わず呟いた。
「ああ、大切な『
「
エルネストとアネットさんの間に火花が散っているように見えるのは気のせいだろうか。
なんとなく微妙な空気になってしまったけれど、エルネストお勧めのローストビーフとクロワッサンと、期間限定のレモンケーキはとても美味しかった。
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