三十五、真実を求めて(リオネル視点)

 三日ほど皇宮に滞在させてもらうことになった。旅の疲れを癒すようにというマルスラン皇太子殿下の心遣いによるものだ。ダルトワ帝国は何もかもが我が国と違っていて戸惑ってしまう。

 他国の使者に対する対応もそうだが、何より陛下と皇太子殿下の人柄によるものだろうか、皇宮の使用人たちの勤務態度や心構えが全く違うのが伝わってくる。使用人とはいえ貴族も混ざっているだろうに、一切の驕りを見せない。


「これがダルトワ帝国なのか……」


 他人の意思を尊重するという姿勢――ブリュノワ王国はどうだろうか。宰相である我が父はどうだろうか。貴族たちはどうだろうか。思い返せば何もかもが違う気がしてくる。考えれば考えるほど、頭の中はさらに混乱を極めていく。

 皇宮に滞在して体の疲れを癒す間に、私は与えられた客間で国に持ってかえる報告書を書くことにした。

 途中まで書き進めて、ふとペンを握る手が止まる。頭の中にクロエ嬢の存在を臥せておいてほしいというマルスラン殿下の言葉が蘇る。

 そのような言葉を聞く義理はない。自分の職務を忠実に遂行すべきだ。自分で見聞きしたことをそのまま報告書に書くべきだ。だが……


『今日私が言ったことに、少しでも思うところがあるならば黙っていてくれると嬉しい』


 再びマルスラン殿下の言葉が頭をよぎる。思うところ――そんなもの大いにある。国に対して忠実であるべきか、人とはこうあるべきという自分の理想に忠実であるべきか。これが重なればいいが、今回ばかりはどうにも食い違い煩悶する。

 ミレーヌ嬢と出会ってからの三年間は流されていたのかもしれないという自覚がある。だがこんな私でも理想とする人間像というものがある。そしてその理想にもとる行為をしてしまった自覚もある。

 やってしまったことが帳消しになるとは思わないが、これから先は間違えたくない。

 まず虐待の事実の有無を知りたい。ミレーヌ嬢の言葉が真実だったのかどうかを知りたい。愛しいミレーヌ嬢の言葉を疑いたくはないという思いはある。だがどうしてもマルスラン殿下の忠告が棘のように胸に刺さるのだ。

 報告書の上で止まってしまったペンを一度置いて、頭を冷やすために皇宮内にある図書室へ行ってみることにした。


 図書室へ入ってみると、窓際の席に、本に向かって一心に視線を走らせる美しい女性が座っているのに気付いた。クロエ嬢だ。

 チャンスだと思った。厭われているだろうとは思うが、三年の間、クロエ嬢に聞きたかったことをどうしても聞いてみたい。嫌悪の目を向けられるのを覚悟で、目の前の美しい女性に声をかけてみる。


「クロエ嬢、今お時間をよろしいですか?」

「まあ、ブルジェさま。構いませんよ。ここは図書室ですから声を落としてお話になるなら問題ないでしょう」


 こうして話してみて気付いた。これまでほとんどと言っていいほどクロエ嬢と会話を交わしたことがなかったという事実に。

 実際に話してみるといろいろと違和感を感じる。クロエ嬢の落ち着いた穏やかな声や言葉選び。場を弁えた細やかな配慮。この三年間全く想像もしなかった姿だ。

 これまで私の中で作り上げたクロエ嬢の姿や態度とは一切重ならない。ミレーヌ嬢の言葉だけで培われたクロエ嬢の人物像にピシリと皹が入る。これが自分の目と耳と頭で判断しろという意味か。


「貴女はミレーヌ嬢に虐待をしていないと断言しましたよね。だがミレーヌ嬢は貴女に虐げられていると言っていました。私はどちらが真実なのか分からなくなってきたのです。そこで貴女の言葉も聞かせてもらいたいと思って声をかけさせていただいたのです」

「ブルジェさま、まず先にお聞かせください。具体的にミレーヌは私に何をされたと言っていたのでしょうか?」

「初めて聞いたのは、レオナール殿下や私たち側近と仲よくするならば食事を与えないということでした。そして責めるように貴女に抓まれたという、ミレーヌ嬢の上腕部についた赤い痕を見ました」


 私がそう言うと、クロエ嬢はフッとなにやら可笑しそうに笑みを溢した。


「まあまあ。ミレーヌはそのようなことをしていたのですね。ブルジェさま、夜会のときには聞かれなかったので申し上げませんでしたけれど、私に食事の与奪の権利はありませんわ」

「……どういうことでしょうか?」

「私は母が亡くなった八才のときから、公爵家邸内で一切食事を与えられておりませんから」

「…………は?」

「ですから、私は八才のときから父である公爵からも使用人からも空気のように扱われておりました。一切の世話もされず、食事も与えられませんでした」

「そんな馬鹿な!」


 信じられない事実を聞かされて思わず大きな声を上げてしまった。それが本当ならミレーヌ嬢は……。

 そんな私を、クロエ嬢は人差し指を可憐な唇に乗せて窘める。


「しぃっ。……声を落としてくださいませ」

「すみません。しかしそのようなことがあり得るはずが……」

「いえ、実際そうだったのです。公爵家の中では私の存在はないものとして扱われていました。ですから私は、食事は自分で勝手に作り、自分の身の回りのことは自分で済ませてきましたの」

「そんな馬鹿な……」


 私の呟きにクロエ嬢は苦笑しながら首を左右に振った。


「父の愛情はなくなり、ミレーヌは私の顔を見るたびに感情的に挑発してきました。ですから私はなるべく家族とも使用人とも関わらないように、この年まで暮らしてきたのですよ」

「なんということだ……」


 驚愕の事実だ。そこで私は再び考える。クロエ嬢の言葉が真実かどうか。

 ミレーヌ嬢の言葉、クロエ嬢の言葉、両方を思い出し、学園で見かけたときのクロエ嬢の姿と重ね合わせる。一人寂しく本を読んで他人を寄せ付けない様子。そしてクロエ嬢を問いただそうとするのを止めるミレーヌ嬢。どちらに違和感を感じるか。

 クロエ嬢の言葉を偽りと判断するには、あまりに荒唐無稽な内容だ。クロエ嬢の言うことが真実ならば、虐待されていたのはクロエ嬢ということになる。これは公爵家の使用人を一人捕まえて真実を聞き出せば、すぐに分かることではないか。

 クロエ嬢が愕然とする私に穏やかに尋ねる。


「ミレーヌは他にどんなことをされたと言っていました? ブルジェさまは夜会で、私がミレーヌの命を脅かしたと仰っていましたよね?」

「確かに言いました。ミレーヌ嬢は、『死ねばいいのに』と呟きながら貴女に首を絞められたと言っていました」

「首には絞められた痕が残っていましたか?」

「いえ、それは確認していません」

「そうですか。ブルジェさまは私がそれほど短慮で感情的な人間に見えますか?」

「……正直なところ見えません」

「そうでしょうね。無感情で無表情だと言われて父に厭われていたくらいですから」


 確かにそうだ。感情的で短慮と言えばむしろミレーヌ嬢に当てはまる印象かもしれない。かつて学園で目にしてきたクロエ嬢が感情を剥き出しにした様子を見たことは一度たりともない。


「これ以上ブルジェさまにお話しできることはございません。あとはブルジェさま自身がミレーヌと話したり、他の方と話したりして判断なさってはどうでしょう?」

「信じてくれ、とは言わないのですね」

「ええ、そのような言葉は無意味ですから。ブルジェさまには私を信じなければならない義務はないでしょう?」

「それはそうですが……」


 あくまで事実のみを自分の頭で判断しろということか。

 同情は要らない。あくまで感情に訴えることはない。これがクロエ嬢……。

 『私を信じて』――そう言って我々皆に縋るような目を向けていたミレーヌ嬢の姿を思い出す。


「ミレーヌを虐めていたと言われている令嬢の方にもお尋ねになったほうがいいと思いますよ。証拠が証言だけしかないならば、無関係の方も含めてなるべくたくさんの証言を得るべきです。目撃証言なども」

「目撃証言……」

「ええ。ちなみに公爵家の証言は全部私を陥れるために作られたものだと、私自身は認識しております。けれど、全員に個別に具体的な状況を聞き込みなされば、自ずと矛盾が生じてくると思いますわ。時間、場所、状況……」

「なるほど。帰国したら早速調べてみましょう」


 思慮深いクロエ嬢の発言には舌を巻く思いだ。私の中のクロエ嬢の人物像がガラガラと音を立てて崩れていくのを感じる。今思えば、我々のほうがよほど短慮ではないか。


「あまり表立って調査されると、王太子殿下に厭われるでしょうからお気を付けなさいませ。それに私はもう真実が明るみに出なくてもいいと思っていますから」

「もし冤罪であったなら、貴女は悔しくないのですか? 無実なのに罪を着せられて公爵家を追い出されたということでしょう?」

「……それは、いいのです」


 クロエ嬢は穏かな微笑みを湛えたまま、静かに瞼を臥せる。何かを諦めているようにも見える。


「いい、とは? 婚約破棄もそれが原因でしょうに、貴女はそれでも構わないと仰るのですか?」

「婚約破棄に関しては、殿下にとって罪の有無は関係ないと思いますので」

「は?」

「殿下はミレーヌを好ましく思って、ミレーヌと一緒になりたかっただけだと思います。私の罪は婚約を破棄する口実でしかないでしょう」

「それは……」


 確かにそうかもしれない。レオナール殿下とミレーヌ嬢が親密になったことに、クロエ嬢の存在は関係がないだろう。


「それに人の感情に正義も何もありませんわ。走り出した感情は止まらないもの。他人が律せるものじゃないでしょう?」

「まあ、それは……」

「二人の恋路を邪魔するつもりは毛頭ありませんでしたけれど、きちんと婚約解消の手順を踏んでからにしていただきたいとは思いましたわね」

「そう、ですか」


 フフフと穏やかに微笑むクロエ嬢を見て、この三年間に築き上げたクロエ嬢の虚像がすでに完全に消えてなくなっていることに気付いた。と同時にミレーヌ嬢に対する不信感が生じる。

 クロエ嬢がもう必要がないと言ったとしても、帰国したら早速虐待についての真偽を調査してみようと心に決めた。

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