三十四、信じていたもの(リオネル視点)

 私がミレーヌ嬢に出会ったのは今から三年前の十四才のときだった。ハーフアップにされたストロベリーブロンドの髪は背中まで柔らかなウェーブを描き、くりっとした大きな紫紺の瞳はつぶらで可愛らしい。

 表情がくるくると変わるさまがまるで小動物のようで、他の貴族令嬢のように取り繕わない態度がかえって好ましく思えた。


「貴方がリオネルね。私はミレーヌというの。よろしくね」

「よろしくお願いします。ミレーヌ嬢」

「ウフフッ。呼び捨てでもいいのに。ねえ、リオって呼んでもいい?」

「ええ、構いませんよ」


 最初は馴れ馴れしい女性だと思っていたが、肩肘を張らずに話せる数少ない女性として次第に惹かれるようになった。

 だがある日、ミレーヌ嬢が学園の中庭でしくしくと泣いているところを見かけた。なぜ泣いているのだろう。すぐに慰めなければと思った。


「実は屋敷ではいつも姉に虐められているの……。今日は言うことを聞かないと食事を食べさせないと脅されて……。ほら、ここの所をぎゅっと抓られてとても痛かったの……」


 ミレーヌ嬢が指を差したのは上腕部だった。なるほどかなり赤くなっている。なんて酷いことをするのだろう。姉妹喧嘩で体罰とは度が過ぎる。


「……なんて酷いことを。一体何を強要されたんですか?」

「貴方たちと仲よくしちゃいけないって……。私、そんなの嫌っ。皆大切なお友だちだもの!」


 ミレーヌ嬢はそう言ってまたしくしく泣き始めた。ミレーヌ嬢が言う「貴方たち」というのは、レオナール王太子殿下を始め、私やアランやトリスタンといった王太子殿下の側近である我々のことだ。

 学園に入ったばかりのミレーヌ嬢は何かと他の女子生徒たちに目を付けられることが多く、レオナール殿下や我々側近が騎士のごとく悪意からミレーヌ嬢を守っていたのだ。

 まだ十二才のいたいけな少女に対して、年上の令嬢たちが意地の悪い言葉を向けてくるそうだ。だからこそ我々が守ってあげないといけないというのに……


「何と傲慢な! 貴女の姉上はクロエ嬢でしたね。私が問い詰めてきます!」

「待って! いいの。そんなことをしたら、ますます屋敷で虐められるわ。私はリオが傍にいてくれればそれでいいの」

「ミレーヌ嬢……」

「こんな私でも守ってくれる?」

「勿論です!」


 袖を握られたうえに、縋るような眼差しを向けられて頬が緩む。

 クロエ嬢には腸が煮えくり返る思いだったが、優しいミレーヌ嬢は事を荒立てないでほしいと言う。私はなんとか怒りを飲み込んでミレーヌ嬢の守護に徹することにした。

 だが狡猾なクロエ嬢は学園では何も仕掛けてこない。仕掛けられないのだろう。クロエ嬢は地味で凡庸で、学園には友人らしきものもおらず、常に一人でいるような女子生徒だ。だから学園でミレーヌ嬢に攻撃するようであれば、こちらのほうが優勢となることが分かっているのだろう。卑怯者め。


 そうして三年の間にレオナール殿下とミレーヌ嬢は親密な関係となったようだった。ミレーヌ嬢を密かに慕い続けていた私としては複雑な心境だ。

 だがミレーヌ嬢が幸せならばそれでいい。私とアランとトリスタンの中には、レオナール殿下とミレーヌ嬢の交際を温かく見守ろうという暗黙の了解があった。

 そしてあの夜会で、とうとうレオナール殿下が長年の婚約者であったクロエ嬢に婚約破棄を言い渡した。いい気味だと思った。だが存外取り乱さないクロエ嬢に内心苛立ちを感じてしまう。

 長年虐め続けた妹のミレーヌ嬢に婚約者を取られるのだ。自尊心を傷つけられて、取り乱し、泣き崩れ、打ちひしがれるだろうと思っていた。なのに……


「恐れ入りますが、殿下。婚約を破棄すると仰る理由をお伺いしてもよろしいでしょうか」


 平然と説明を求めるクロエ嬢に苛立ちが募る。何を言われてもめげる様子がない。何なんだ、この女は。どこまで図太いのだ。

 私はクロエ嬢の罪を断じるべく、はっきりと言葉にして知らしめようと口を開く。


「クロエ。お前の持つ黒の書は、聞けば何の役にも立たぬゴミだというではないですか。よくも今までたばかってくれたものですね。このミレーヌ嬢の持つ白の書こそが国を癒し守る正真正銘のグリモワール。これを守ることが王家の使命です。それなのにお前は心優しいミレーヌ嬢を害してその命をもおびやかしたのです」


 これだけはっきりと言えば自分がどれほどの罪を犯したのか身に染みて分かるだろうと思ったのに、クロエ嬢は淡々と返してくる。


「私がミレーヌを虐待したという証拠が一体どこにあるのでしょうか」


 証拠だと? 笑わせてくれる。ミレーヌ嬢だけでなく、ルブラン公爵や侯爵家の使用人たちの証言もあるというのに。まだ白を切るつもりなのか。なんと浅はかな。

 そのあと私たちはクロエ嬢を言葉で、そして武力で追い詰めて、ようやく貴族令嬢としての生命を絶つことができた。長年ミレーヌ嬢を虐待してきたのだ。こんなものではまだ足りない。アランもトリスタンも同じ気持ちだと思う。

 クロエ嬢は静かに夜会会場を出ていった。もはやこの国で貴族令嬢として生きていくことは叶わないだろう。どこぞで這いつくばって野垂れ死にでもすればいい。

 そう思っていたのに……


「ブルジェさま、お久しぶりでございます。クロエです。その節はお世話になりました」


 なぜクロエ嬢がこんな所ダルトワ帝国にいるのかと混乱した。

 使者としてダルトワ帝国に参じ、マルスラン皇太子殿下との会合で同席した女性の美しさに目を奪われた。我がミレーヌ嬢ほど美しい女性はいないと思っていたのに、ミレーヌ嬢よりも美しいと感じた女性に出会ったのは初めてだった。

 私は皇太子殿下に、その美しい令嬢の紹介を求めた。そしてまさかその令嬢がクロエ嬢だとは思いもしなかった。自己紹介をされ、驚愕した。私の中では、記憶の片隅から消え去ってしまうくらいの存在だったからだ。

 それなのに目の前にいる美しい令嬢は、記憶に残るクロエ嬢とは全く違う。あまりの美しさに、目を逸らすことができずに固まってしまった。


(なんて美しいのだろう……)


 以前のように無造作に後ろで固く三つ編みにされていることもなく、腰ほどまでに真っ直ぐに下ろされている銀の髪は流れるように美しい。眼鏡の奥にあった小さな茶色の瞳は、大きく神秘的な緋色の瞳に置き換わっていてとても魅惑的だ。

 どう考えても意図的に隠していたのではないかと思われるその美貌に、クロエ嬢の真意を測りかねる。一体何のために隠す必要があったのだろう。隠さねばレオナール殿下とて心変わりなどしなかったかもしれないのに。

 そのあと夜会でのクロエ嬢への対処について、マルスラン皇太子殿下に苦言を呈されることとなった。クロエ嬢は長年にわたりミレーヌ嬢を虐待していたのだ。我々のやったことは当然の対処だ。


「ブリュノワ王国では証言だけで証拠になるのか。それだったら示し合わせれば、いくらでも罪人を捏造できちゃうね。凄いね、ブリュノワ」


 皇太子殿下のこの言葉に思わずカッとなってしまった。ブリュノワ王国への侮辱とも取れる言葉だ。

 だがそのあとにクロエ嬢がミレーヌ嬢を虐待する理由について問いかけられるも、ろくな返答が浮かばない。


「フフッ。ミレーヌ嬢に会ったことはないけど、今君の目の前にいるクロエ嬢よりもの令嬢が美しいと言えるの?」

「それはっ……」


 私は何も言えなかった。すでに目の前のクロエ嬢がミレーヌ嬢よりも美しいと無意識に認めていたからだ。

 クロエ嬢のグリモワールの能力が劣っていたとしても、確かに事を荒立ててまで確約された立場を脅かすような真似をするとは思えなかった。


「何が正しくて何が正しくないか、自分の目と耳と頭で判断するんだ。第三者の言葉ほど当てにならないものはない。君も将来施政者の補佐という立場に従事するなら、他人の言葉を鵜呑みにせず、無責任で自分を正当化する歪んだ内容ではないかを常に疑ってかかったほうがいい」


 マルスラン殿下の言葉に愕然とした。目から鱗が落ちる思いだった。

 私が信じたミレーヌ嬢の言葉は真実だっただろうか。過去三年間、クロエ嬢に話を聞こうとすれば必ずミレーヌ嬢に止められて、クロエ嬢本人から事情を聞くことは一度もできていなかったことに気付いた。

 私は虐待の事実の真偽が分からなくなった。自分の目で見たのは初めて虐待の事実を聞いたときの、ミレーヌ嬢の上腕部に残された赤い痕だけだ。そして自分の耳で聞いたのはミレーヌ嬢の言葉のみ。


(もし、ミレーヌ嬢の言葉が真実でなければ? クロエ嬢がミレーヌ嬢を虐待していなければ?)


 もしそうなら、我々があの夜クロエ嬢にした仕打ちは、無実の罪を着せられたか弱き女性に寄ってたかって容赦なく行った私刑リンチだ。

 だがそもそもきちんとした手順も踏まずにクロエ嬢に加えた行為は私刑であると護衛騎士のイベール殿に指摘された。罪人かどうかは関係ないと。

 確かにそうだ。私は背中に冷たい汗が滲んでくるのを感じた。罪人であれ公式な刑を待たずに傷つける行為をするのは私刑でしかない。

 あのときの心境を思い出してみる。あの夜会の夜、ミレーヌ嬢のために何もできずに歯痒い思いをしてきた三年間の苛立ちが爆発した。だとすればクロエ嬢に対して行った行為は個人的な感情をぶつけて満足しただけの極めて利己的な行為だ。


(何が正しくて何が正しくないのか、か……)


 会合が終わってからも、私は混乱の極みにいた。会合の中でクロエ嬢に謝罪をして、私刑については許すと言ってもらえた。だが、証言のみで何の検証もせずに、罪を断定したことについては許容できないと言われた。

 確かに、証言だけでも証拠になるなら、集団が無実の人間を罪人という立場に陥れることが容易になるだろう。それがまかり通ればマルスラン殿下の言う通り、罪人の捏造がいくらでも可能になる。それを国のトップである王侯貴族が率先して行ってしまったわけだ。果たして我が国はこのままでいいのだろうか。

 私はもう一度クロエ嬢と話したいと思った。クロエ嬢にとっては二度と見たくない顔だろうが。

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