二十九、婚約について(エルネスト視点)

 俺たちは応接室へと足を運び、テーブルに向かい合わせに座りながら話すことにした。


「兄さまは心に決めた方がいらっしゃるのですか?」


 アネットにそう言われて、なぜか頭にクロエの顔が浮かんだ。クロエに抱いている感情はアネットに対するものと同じはずだ。頭に浮かんだ幻を打ち消す。


「そういう女性はいないけど、アネットのことは妹としてしか見ていないよ?」

「それでもいいのです。どうせ政略結婚などお互いを尊重できればいいものなのでしょう? 私は兄さまを愛しています。だから兄さまが私を嫌いでなかったら受け入れてほしいのです」


 愛している、か……。アネットの必死な表情を見ていると段々申しわけなくなってくる。アネットのことは妹としか思えないから同じ気持ちは返せないし、まだ結婚したいとも思わない。

 確かに政略結婚とはアネットの言葉通りのものだろう。お互いの恋愛感情など必要ない。結婚してからお互いを尊重し合えればいいのだ。

 そう考えれば、アネットと結婚をするのは自然な流れなのだろう。お互いの性格もよく知っているし、すでに一緒に生活もしている。このまま結婚しても何も不思議はない。何よりラビヨン伯爵は俺の恩人だ。伯爵の意向に沿えるなら何の異論もない。ないはずだ。

 はずなんだが……。胸に大きな何かがつっかえているようだ。頷いてはいけないと本能が告げる。

 再びクロエの顔が頭に浮かぶ。なぜこんなにも思い出すのだ。今はクロエは関係ないはずだ。俺とアネットの問題なのだから。


(くそっ。一体何なんだ……!)


 俺はクロエの守護者でありたいだけだ。アネットを守ってやりたいと思う気持ちと同じはずだ。

 もしマルスがアネットの手に口づけたらどう感じるだろうか。きっと舌打ちの一つくらいはしたくはなるだろう。だが、あんなにも胸が焦がれるような苦しい思いをするだろうか。胸を焼き尽くさんばかりのどす黒い炎が燃え上がるだろうか。

 思わず顔の下半分を片手で覆って考え込む。アネットはそんな俺を不思議に思ったのか、首を傾げて尋ねてくる。


「……兄さま、どうしたの?」

「……」


 守護者でありたいなら別にマルスが守護者と名乗り出ても構わないはずだ。二人で守ればいいのだから。むしろクロエにとっては守護者が増えていいはずだ。仮にマルスが恋人として名乗りを上げたって祝福すべきことじゃないのか。

 では独占欲? アネットには湧かないのに? なぜクロエにだけ?


(俺はクロエが欲しいのか……?)


 いや、そんなことがあるわけがない。俺は善良なクロエを守りたいだけだ。独占欲や執着など、クロエのためにならない利己的な感情だ。こんな感情は封じ込めるしかない。


(俺は耐えられるだろうか。封じ込められるだろうか。もしかしてマルスはクロエを……)


 いつかクロエが誰かと寄り添うのを、指を咥えて見ているしかないのだ。そして祝福するしかないのだ。


(ああっ、駄目だ! くそっ、考えるのはやめだ!)


 俺が煩悶していたのを不安げに見守っていたアネットが口を開く。


「兄さま……?」

「あ、ああ、すまん」


 こんな気持ちで婚約をするのは、アネットの気持ちを蔑ろにするようなものだ。俺のことを何とも思っていない相手ならまだしも、アネットは俺を愛していると言っている。クロエに対する気持ちがよく分からないまま、俺を愛していると言う妹と結婚などできるはずがない。

 伯爵にもアネットにも誠実でありたいからこそ、婚約を了承するわけにはいかない。これは俺なりのけじめだ。


「アネット、悪いが俺はお前とは結婚できない」

「えっ、どうして!?」


 想像もしていなかったという反応だ。端から俺の気持ちは関係ないと言っているのだから当然か。


「アネットは俺を愛していると言ってくれた。だからだ」

「意味が……分からないわ」


 俺は苦笑した。アネットがそう思うのも当然だと思ったからだ。


「さっきは心に決めた女性はいないと言った。だがどうしても気になる女性がいる。彼女のことを愛しているのかは分からない。けれど、そんな気持ちのままアネットと結婚をしようとするのは不誠実だと思うんだ」

「そんなっ……! 私は兄さまを愛しているから構わないっ!」

「俺を愛しているというならなおさらだ。伯爵には恩があるし、アネットのことを妹として大切に思っている。だから婚約はできないんだ。分かってほしい……」


 そう言うと、アネットが俯いてフルフルと震えている。最初は泣いているのかと思ったが、どうやら怒りに震えているようだ。俺のことを怒りたいならいくらでも怒ればいい。嫌われる覚悟で決めたことだ。


「誰なの……それ」

「お前の知らない女性だ。それに彼女に対する気持ちはよく分からないし、結婚するつもりもない。だからお前には関係ない」


 そう言った途端、アネットがガバッと顔を上げて身を乗り出して訴えてくる。今にも泣きだしそうに目を潤ませながら。熱の籠った声で。


「それならっ……! 私でもいいじゃないっ! 私、兄さまに好きな人がいても構わないわ! その女性と一緒にならないなら、いつか振り向いてくれるかもしれないもの! だからっ、ねえ……!」


 ――お願いだから……。そう懇願する声に俺は胸が締め付けられそうになる。だが大切にしたいからこそ流されるわけにはいかない。

 そもそもアネットを妹としてしか見られないのだから、恋愛感情を抱く可能性は見知らぬ女性よりも低いかもしれない。流されて婚約などしてしまえば、きっとアネットを悲しませることになる。


「一生妹としか思えないかもしれないんだぞ? そんなの不幸だろう?」


 そう諭してもアネットは食い下がる。どうあっても諦めないといった感じだ。


「それでも構わない! お願い、兄さま……!」


 どこから来るのだろう、この熱意は。死ぬまで愛されなくてもいいというのか。

 ずっと兄として慕われていると思っていたが、本当に俺のことを男として愛しているのだろうか。ただ誰にも取られたくないという独占欲、あるいは執着なのではないだろうか。


「駄目だ。自分の幸せを見つけるんだ。俺の気持ちは変わらないから」

「兄さま……。私、絶対に諦めないから!」


 そう言って、アネットは興奮したまま泣きそうな顔で自室へと戻っていった。

 アネットは俺を愛していると言ったけれど本当のところは分からない。兄に対する愛情を異性に対する愛情と勘違いしているだけなんじゃないかと思う。アネットのことは時間が解決してくれるのを祈るしかないだろう。

 これから俺は、クロエがマルスが仲良くなっていくさまを間近で見続けなくてはならなくなるのかもしれない。


「はぁ、耐えられるかなぁ……」


 願わくば、どんな形であれクロエには幸せになってもらいたい。クロエがもし俺を選んでくれたら、俺は……


「フッ。馬鹿か、俺は」


 あり得ない妄想を自嘲して、俺は自室へと戻った。

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