二十八、守護者として(エルネスト視点)

 初めてクロエに会ったときには驚いた。片ときも忘れたことなどない、俺を殺そうとした女――黒き魔女にそっくりだったからだ。

 顔を見る前から、あの魔女が扉の先にいるかもしれないと思うと、積年の恨みが胸の奥から溢れ出してくるのを抑えられなかった。


 けれど扉を開けて初めてクロエの顔を見た瞬間、胸に湧いたのは予想外の感情だった。

 クロエは本当に美しかった。俺の記憶の中にあった魔女の残像は艶やかで美しくも醜く歪んでいて、まるで爪痕のように胸に刻みつけられていたというのに。

 目の前に現れたのは邪悪さの欠片もない、ただ驚いたように何の悪意もなく俺を見つめてくる可愛らしい顔だった。

 昔と変わらない若いままの姿に驚いてしまう。魔女の特徴なのだろうか。


 腰ほどまでに真っ直ぐに伸ばされた銀髪は触れると溶けてしまうのではないかと思うほどに柔らかそうで、長い銀の睫毛が影を落とす緋色の瞳は吸い込まれそうに美しい。猫のように少しだけ吊り上がった大きな目が、キッと俺を睨みつけている。

 一点の曇りもない雪のような白い肌に、少し力を入れて抱き締めただけで壊れてしまいそうな華奢な体つきだ。けれど全体的に女性らしい柔らかな曲線を描いていて、少女なのに仄かな色気を感じさせる。


(本当にこの少女が俺を殺そうとした女なのか……?)


 言葉を交わすたびに、胸の中に湧いた疑問が大きくなっていく。

 クロエは自分が邪悪な魔女ではないと主張した。すぐには信じられなかったが、クロエの言うことが真実だと分かるまでに時間はかからなかった。

 クロエのかんばせはあまりに美しく俺の心を捉えてやまない。恨んでいる魔女と同じ顔だから気になるのか、クロエという少女自身が気になるのか、自分でもよく分からなくなってきていた。


(なぜこんなにクロエの顔が浮かぶんだ……。おかしいだろ)


 無邪気に笑い、心の中にぐいぐいと入り込んでくる。やめてほしいと思った。だけど、もうそのときにはクロエに対する疑心は完全に消えていた。

 それにクロエに近付くと甘い香りが漂ってきて、頭がぼうっとしてくる。そのまま首元に顔を埋めたくなる衝動に駆られてしまう。これはかなり危険だと思う。……クロエが。

 本当は最初から俺を殺そうとした魔女ではないと心のどこかで確信していたのだろう。だが俺を殺そうとした女と同じ顔を持つクロエに心を奪われるなどあり得ない。

 しばらくすると俺はクロエを愛おしいと思うようになった。クロエは強力なグリモワールの使い手なのだろうが、時折見せる儚げな表情を見ると、支えてあげなければと思う。つらい過去を思い出しているであろうときの悲しげな表情を見ると、守ってやりたいと思う。


(俺が彼女を守ってやりたいと思う気持ちに下心などない)


 異性として見ているわけではない。妹を思う気持ちと同じものだ。兄のように慕ってくれているらしいクロエを可愛いと思う。

 最初にクロエに憎悪の感情を向けてしまった罪滅ぼしの気持ちもあったと思う。だがたった一人で国を離れ、虐げられながらも前を向いて凛と立つクロエを見て、心が大きく動かされた。

 これからは俺がこの子を悪意から守ってやりたいと、そう思ったのだ。妹として、保護者として。ずっとクロエの守護者でありたいと思っていた。


 それがどうだ。

 友好関係を結ぶにあたって、マルスラン皇太子殿下――マルスがクロエの手に口づけたのを見た瞬間、俺の心にどす黒い炎が燃え上がった。今までに経験したことのない焼けつくような胸の痛みだ。


(何だ、この気持ちは。俺はマルスに嫉妬しているのか? 兄として? 守護者として? マルスがクロエの守護者になり代わろうとしているから?)


 分からない。なぜこんな気持ちになっているのか。

 俺はどうしても手を繋ぐクロエとマルスを見たくなくて、その場に居続けることができなかった。そして逃げるように立ち去った。


(それにしてもあのときのクロエは目が覚めるほどに美しかったな……)


 自分自身の気持ちに釈然としないまま、その夜俺はラビヨン伯爵邸へと帰宅した。

 ラビヨン伯爵は俺の恩人だ。十三のときにブリュノワ王国で殺されかけたあと、ほうほうの体でダルトワ帝国へ逃げてきた。

 伯爵は死にかけていた俺を拾って手厚く保護し、あまつさえ貴族の教育まで受けさせてくれた。すでにブリュノワで高等課程までの教育を終えてはいたが、伯爵の期待を裏切りたくはなかった。


「ただいま戻りました」

「殿下の命令とはいえ、ご苦労だったね。今夜はゆっくり休みなさい」

「はい、お言葉に甘えてこれで……」


 伯爵に辞去の言葉を告げようとしたところで、突然伯爵の居室の扉がバンッと開かれた。驚きはしなかった。誰が入って来たかは分かっていたから。


「こら、アネット。はしたないぞ!」

「兄さま! 帰ったことが分かっていたらお城まで迎えに参りましたのに!」


 伯爵の苦言を余所に、俺の背後で捲し立てる甲高い声の持ち主は、伯爵の娘アネットだ。アネットは即座に俺の背中に抱きついて腕を回し、ぎゅっと力を籠める。


「ああ、ごめんごめん。いろいろと話が立て込んでいてね。今からはゆっくりできるから許してくれ」


 アネットのほうへ向き直って頭をぽんぽんと撫でてやると、俺を見上げて嬉しそうに破顔する。髪と同じ薄茶色のくりっとした目がきらきらと輝いている。

 くるくると変わる表情と小柄な体が、まるで小動物のように見えて庇護欲をそそられる。本当に可愛い奴だ。

 俺にとってアネットは十三のときから一緒に暮らした五つ下の妹同然の存在だ。兄妹のいなかったアネットにとって、俺は理想の兄たり得たらしい。会うたびに「大好き」と連呼されて、嬉しいし可愛いと思う。


「お父さま、兄さまにあの話、してくださいました?」

「いや、今日は疲れているだろうから明日話そうかと思っていたんだが」

「ええー? 私はずっと待っていたのですのよ?」


 アネットがぷうっと頬を膨らませて不満げな表情を浮かべる。伯爵は困ったように苦笑している。俺は状況が飲み込めず説明を求める。


「えーと、何の話?」

「私と兄さまの婚約の話です」

「……は?」


 伯爵がしまったといったふうに、顔の上半分を片手で覆って天井を仰ぐ。アネットは、それはもう嬉しそうに俺の反応を待っている。俺はというと青天の霹靂で口が半分開いたままだ。


「一体なぜそんな話に?」

「エルネスト、すまない。こんなに急に話をするつもりはなかったんだが……」


 伯爵が困ったように眉尻を下げる一方で、アネットは嬉々として俺に説明を始める。


「私はもう十八です。そろそろ相手を見繕わないといけないとお父さまが仰るから、兄さま以外の方との結婚は考えられないと申し上げたのです」

「はぁ?」

「そうしたらお父さまは、兄さまが了承してくれるならば婚約を許してくれると仰ってくださいました」

「……まあ、そういうことだ。あとは二人で話して決めなさい」


 伯爵は俺とアネットに退出を促した。投げたな、と思った。俺に全部任せるということだろうが、それにしてもアネットは俺と結婚したいということか? そんな気持ちには全く気付かなかったが。

 伯爵の居室を出てからアネットと一緒に応接室へと足を運び、テーブルに向かい合わせに座って話し合うことにした。

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