十、訪問者
一体こんな隔絶された場所に誰が来たというのだろう。動物や魔物ならば扉をノックしたりはしない。知性のある魔物であればその限りではないけれど。いずれにしろ、どう考えても普通じゃない。
「どうやら来たのは一人みたいですねぇ」
ハルが珍しく緊張を滲ませた表情を浮かべて呟いた。魔物がひしめくこの黄泉の森の奥までたった一人で来るとは。私のように上空から来たのだろうか。
アンとハルが前もって訪問者の高い魔力を感知している。いくら私が膨大な魔力を持っているといっても、人間である私には他者の魔力を感知することができない。けれど竜と幻獣にはそれができるようだ。
二人が感知した魔力がかなり高いこと、そして森の奥深くまで一人で来たことを考えれば、訪問者がただ者でないのは間違いない。
私は二人と顔を見合わせて小さく頷いたあと、警戒しながら入口の扉の前へと近付いた。
「どちらさまですか?」
恐る恐る尋ねてみると、扉の外から低い声が聞こえてくる。
「私の名前はエルネストという。挨拶に来た」
どうやら人間の男性らしい。背後に控えるアンとハルは、何が起こってもすぐに対処できるように臨戦態勢に入っている。
私は警戒を強めたまま入口の扉をゆっくりと開いた。
扉を開けてまず目に入ったのは、逆光のせいでゆらりと揺れる大きな黒い影だ。目が慣れたあとに訪問者の姿を確認してみる。
エルネストと名乗る青年の年齢は二十代半ばくらいだろうか。黒っぽい鎧を身に纏い、腰には長剣を吊り下げている。
そして見上げるほどに背が高い。細身なのに筋肉がしっかりついて引き締まった体つきで、まるで歴戦の戦士といった風格と気高さがある。
(なんて美しい人なのかしら。これほど雰囲気のある人はブリュノワでは見たことがないわ)
耳の下ほどまでの長さの黒髪が乱雑に下ろされ、深い海のようなサファイアブルーの瞳に前髪が少しかかっている。切れ長の怜悧な目は、全てを見透かさんばかりだ。美しい顔立ちと均整の取れた体つきが、匂い立つような色気を放っている。
けれど一方で、ぞくっとするほどの美貌は、どこか人を寄せ付けないような冷たい雰囲気を纏っている。
そして一体どんな過去を背負っているのか知らないが、その表情には底の知れない深い闇が垣間見える。エルネストの身なりから察するに……
(どこかの国の剣士といった感じ……。冒険者かもしれないけれど、平民にしては立ち居振る舞いに品がある気がする。もしかして貴族かしら)
私を見下ろす表情からは何の感情も見えない。そのため、目の前の青年が敵なのか味方なのか全く判断がつかない。
けれどエルネストの纏う空気はどこまでもひんやりと冷たく、睨まれると体が竦みそうになるほどの威圧感がある。
決して弱みを見せてはならない……。本能的にそう感じ取って、できる限り感情を見せないように尋ねる。
「こんな辺鄙な所へ、どういったご用件でしょうか?」
「まずは伺いたい。君は魔女か」
エルネストはいきなり不躾に問いかけてきた。確かに、このような森の奥に人間の女性が住んでいるのは不自然だろう。
そう考えれば、エルネストの問いかけも何ら不思議ではない。けれど初対面の女性にいきなり『君は魔女か』なんて不躾すぎる。
「いいえ、私は魔女ではありません。エルネストさん、他にご用件は?」
「この森に悪しき魔女がいるならば駆逐せねばならない。そのために私はここへ来た。君の名前を聞かせてもらおうか」
エルネストは表情を変えずに淡々と尋ねてきた。この男は魔女狩りか何かだろうか。私はエルネストの凍りつくような眼差しに怯むことなく答える。
「私はクロエといいます」
「クロエ、私は君が魔女でないと、すぐには信じられないのだが」
「なぜ貴方は私が魔女だと思われるのですか?」
「この森に魔女が住んでいるという噂を聞いたからだ」
「噂……ですか」
まるで品定めでもするかのようにエルネストがすぅっと目を細める。どこまでも見通しそうな冷たい眼差しだ。
もしかしてエルネストは妹のミレーヌに呪われた魔女の話でも聞いたのだろうか。
けれどミレーヌは私がこの森に住んでいることを知らないはずだ。どうにもエルネストの話は言葉が足らなすぎて真意が掴めない。
「しばらくの間、私はこの近くに拠点を構えて君のことを監視させてもらう。本当に悪しき魔女でないかどうかを見極めるまでだ」
エルネストの表情からは相変わらず何の感情も見て取れない。無表情で淡々と紡がれるエルネストの言葉が本心なのか分からない。今は様子を見るしかなさそうだ。
「どうぞご自由に。時間の無駄だと存じますけれど」
「フッ。どうだろうな……。私には君が普通の人間には見えないのだがな。クロエ」
初めて感情を示したエルネストの表情を見て驚いてしまった。氷のように冷たく妖艶な笑みだ。深い青の瞳から憎悪にも似た感情を感じ取って僅かに動揺してしまう。
(この男が憎んでいるのは魔女なのか、それとも私なのか……)
確かに普通の人間かと聞かれれば、私は普通ではないだろう。だからこそ誰にも関わらないように人の立ち入らない森の奥深くにまで籠ったというのに、それでも誰かに憎まれなければならないというのか。
怒りとも悲しみともつかない感情が胸の中に湧き上がってくる。
「いい加減にしてください! 見ず知らずの貴方にそこまで言われる覚えはありません」
ずっと抑えていた感情が不意に昂って、図らずも噛みつくように声を荒げてしまった。
すると、突然エルネストが私の抗議など意にも介さず、スッと笑みを消して指で私の顎をぐいっと持ち上げた。そして今にも唇が触れそうな距離で私の顔をじっと見つめる。
「この美しい顔で男を誑かすのか。そしてその命を脅かすのか」
瞬間私は恐怖に身が竦んだ。けれど間近に迫るエルネストのかんばせは震えるほどに美しい。私の瞳を覗き込んで真意を探らんとばかりに細められた深い海の底のような鋭い瞳に射竦められて、背筋がぞくりとした。
私は同じようにエルネストのサファイアブルーの瞳を、その心の深淵を探るべく見つめ返す。エルネストとの間に漂う空気がどこまでも冷たく感じる。けれどそれは気のせいではなかった。薄く開けた私の唇から漏れ出た吐息が本当に白く変わっていたのだ。
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