九、禁忌の魔道具
夕食前までゆっくり休息をとったアンが、居間へとやってきてダイニングテーブルの席に座った。プレースマットの上に置かれたカトラリーを手に持って、金の瞳をきらきらさせながら食事が運ばれるのを待っている。
邪魔だったのか、腰の下ほどまでに延ばされた瑠璃色の髪が頭の上のほうで二つに結ばれている。アンによく似合っていて可愛らしい。
食事を心待ちにしてワクワクしているアンを見てひとまず安心した。お昼は少し無理をさせてしまったから、寝込んでしまうのではないかと心配していたのだ。
(だいぶ元気になったみたい。よかった……)
ハルが焼いたのであろうバターロールが、テーブルの真ん中にバスケットに入れて置いてある。まだ焼き立てなのか、仄かに酵母の香りが漂ってくる。
どうやらハルは料理に相当な拘りを持っているらしい。そしていろいろと人間の真似事をするのが好きなようだ。私はそんなハルが嫌いではない。
「お待たせしましたぁ~! フォン・ド・
「おお、美味そうじゃな!」
「凄いわ、ハル」
「エヘヘ。すこぉしばかりコッテリしてますから、野菜は大きめに切ったんですよぉ。玉ねぎと人参とジャガイモとブロッコリーが入ってますぅ。硬くて臭みのある肉もハーブと一緒にじっくりと煮込んだのでトロットロに柔らかくなってますよぉ。フォン・ド・ルーはじっくり弱めの火で長時間煮込んで、アクを丁寧に取りましたぁ」
フォレストウルフをここまでの料理にするとは脱帽ものだ。ハルは一流レストランのシェフにすらなれるかもしれない。
「……美味しいわ。ハル、降参よ」
「美味い……。お主、儂の城のシェフにならんか?」
「アッハハ! それも悪かないですけどねぇ。アタシは契約してるのでクロエさまのお傍から離れられません。ていうか、アタシが放っとけないんですよねぇ。クロエさまは危なっかしいところがありますからねぇ」
「ハル……」
あっけらかんと笑いながら紡がれたハルの言葉にじんと来てしまった。婚約者にも家族にも裏切られた私なのに、これほど忠誠を尽くしてくれる……。幻獣であるハルのほうが、人間よりも、よほど私のことを考えてくれている。
「ふぅむ、残念じゃのう。ということは、ここにおればずっとハルの料理が食べられるのかの?」
「そういうことになりますかねぇ」
「いずれにせよ、クロエにはしばらく世話になることになるかのう。……クロエよ。改めて頼む。どうかこの腕輪の呪いを解除してはもらえんじゃろうか」
アンがこちらを向いて両膝に手を置いてガバッと頭を下げた。
「アン、顔を上げて。元からそのつもりよ。実は貴女が寝ている間に呪いを構成する術式を十個だけ解除したの」
「そうじゃったのか! それはありがたい。道理で体が軽くなったわけじゃ。改めて礼を言わせてもらうぞ」
ぱぁっと嬉しそうに笑うアンに、私は瞼を臥せてゆっくりと首を左右に振った。アンはそんな私を見て首を傾げた。
「お礼を言うのはまだ早いわ。解除できた術式はまだ全体の一割にも満たないもの。貴女の腕輪の呪いは現時点で百近くの呪いの術式が複雑に絡み合っているの。順番どおりに解除しないと貴女の命に関わるのよ」
「うぬぬ……なんと卑劣な……。人間め!」
アンが悔しそうに顔を歪めた。誇り高き竜王であるアンが矮小な人間によって罠に嵌められ、捕らえられ、呪いまでかけられたのだ。さぞかし腹に据えかねることだろう。
私はそんなアンを宥めるように話を続ける。
「呪いを全て解除するのにはまだ時間がかかるわ。神経を研ぎ澄ませて慎重に解除しなければいけないから、私のほうも一度に十個が精一杯なの。ごめんなさいね」
「何を言う。儂こそ世話をかけてすまん。代わりといってはなんじゃが、儂がクロエのためにできることはないか?」
アンにしてもらいたいこと……。お昼に考えていたことがふと頭をよぎる。
「アンは『
「……知らんな。……いや、待て。遥か昔に耳にした気もするが……すまぬ。今は思い出せぬ」
「そう……」
私は思わず項垂れてしまった。予想してはいたものの、アンの言葉を聞いて酷く落胆してしまった。
何といっても禁忌の魔道具だ。『追刻の糸車』に関する情報は、これまでの歴史の中で他言無用の密事として堅く守られてきたのかもしれない。
「それは一体何に使うものなのじゃ?」
「時を遡って過去に起こった出来事を見ることができるの……」
私の言葉を聞いたアンとハルが驚いたように目を瞠った。
追刻の糸車……それは黒の書に記載されている禁忌の魔道具だ。私はそれを作るために全てを計画したのだ。
アンが腕を組んで訝しそうに問いかけてくる。
「なんのためにそんなものを?」
「それは……私の母を殺した首謀者を探し出すためよ」
「お主の母君とな……」
私を唯一心から愛してくれたお母さま……。毒殺という卑劣な手段でお母さまの命を奪った者を、私は絶対に許さない。
私はアンとハルに自分の過去を打ち明けることにした。これから先、魔道具の完成のために是非とも協力を仰ぎたい。そのためには全ての事情を知ってもらったほうがいいだろう。
そう考えて、これまで私の身に起こった事実だけを簡潔に説明した。
「そうじゃったのか。お主の過去は実に波乱に満ちておるのう」
「本当に人間って奴は面白くて醜く歪んだ生き物ですねぇ」
アンもハルも特に同情の眼差しを私に向けることはなかった。そんな二人の態度にかえって安心する。同情されるのは苦手だ。それに、お母さまが亡くなったこと以外の状況は、私自身が仕向けた面が大きい。
お母さまの命を奪った者を探し出すための魔道具『追刻の糸車』を、私はどうしても作りたい。そのための材料はアラクネーの糸、ノルンの涙、レーテー川の石、ロートスの歯車など、現実に存在するのか怪しいものばかりだ。
けれど黒の書に記載されている以上、入手可能なものだと推察される。せめて素材の情報だけでも得られるといいのだけれど。
「材料として、アラクネーの糸が欲しいのだけれど、アンはアラクネーが生息する場所を知らないかしら?」
「アラクネーか……。それならば聞いたことがあるぞ。この大陸の遥か南に位置するトロワ密林のどこかに棲家を構えとるらしいのう」
トロワ密林……かなり距離が遠い。ペガサスに乗っても数日かかりそうだ。
「トロワ密林か……。この黄泉の森と同じくらい……いえ、それ以上に危険な所ね。教えてくれてありがとう、アン」
「なあに、儂は年相応の知識はあるのじゃ。魔道具のことは失念してしもうて悪かったが。トロワ密林はここからじゃと、いくつも国を跨がなくてはならぬのう。じゃが儂が乗せていけばひとっ飛びじゃ」
「ひとっ飛び……」
アンの話を聞いて思わず想像してしまった。大空を翔る瑠璃色の鱗を纏った美しい大きな竜の姿を……。
「まあ、お主なら空を飛べる幻獣を召喚できるじゃろうが、儂ならあっという間じゃな。それに密林は広大じゃ。儂ならアラクネーの魔力を探れるから奴の棲家も見つけられよう」
「なるほど……。確かにアンがいてくれたほうがスムーズに進めそうね。じゃあ、まずはアンの腕輪の解呪をしなくちゃね」
「急がば回れ、ですねぇ」
話が終わったときにはすでに夜が更けていたので眠ることにした。念のために予め客間にはベッドを三つ備えていたので、アンとハルには客間で休んでもらうことにする。
アンはまだ体調が不完全だ。本調子じゃないアンを一人で寝かせる気にはなれない。私と意思伝達のできるハルと一緒に寝てもらったほうが安心だ。
アンとハルに客間を使わせて、私は寝室で眠りについた。
§
翌朝、三人で朝食を取っているときのことだった。突然アンが眉根を寄せて険しい表情を浮かべる。同時にハルも同じように顔を顰めている。まるで何かを警戒しているかのように。
「ハル……。分かるか」
「ええ、アンさま。こいつぁ、かなり大きいですねぇ」
「こんなに近付かれるまで気付かんとは不覚じゃった」
「一体何のこと……」
そのときだった。突然、不可侵の森に囲まれた陸の孤島ともいえるこの家の扉をノックする音が聞こえた。
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