七、少女の腕輪
私は少女の腕輪を見つめながら、唇の下に指を添えて深く考え込む。ハルはそんな私を見て目をぱちくりさせた。
「内側からは無理って、クロエさまでも?」
「ええ、まず無理ね。そういう仕組みになっているのよ。でも外側からならなんとかなるかも……」
数多の呪いの術式が知恵の輪のように複雑に絡み合っている。解除する順番を間違えたり無理矢理壊そうとしたりすると、呪いが一瞬にして少女の生命を奪う仕組みになっている。
本当に卑劣極まりない呪具だ。この腕輪を作った者の性格の悪さが窺い知れる。
「クロエさまは、外せるんですかぁ?」
「やってみなければ分からない。放置しても今すぐに生命を削るものではないから、時間をかけて一つずつ解除していくしかないわね」
「なるほどぉ。さ~っすがクロエさまですねぇ」
「この子が目を覚ましたら温かいスープでも飲ませてあげましょう」
「それじゃぁ、アタシが作りますよぉ」
今度は私が思わず目をぱちくりさせてしまった。幻獣って……
「……料理、できるの?」
「お任せぇ。クロエさまとの意思伝達のお陰で、クロエさま程度にはできますよぉ。それじゃあ早速さっきのフォレストウルフを捌いてぇ……」
「任せるわっ」
私はハルの言葉を遮って苦笑した。食べられるのは知っている。知っているけれど聞きたくはない。
けれどこの森で暮らすのならば四の五の言ってはいられない。美味しければそれでいい。それにしても肉食動物の肉って美味しいのだろうか。甚だ疑問だ。
早速ハルは鼻歌交じりに表のフォレストウルフを解体しに寝室から出ていった。
私はというと、少女を横たえたベッドの脇に置いた椅子に座って呪いの腕輪の分析を始めた。
「はぁ……。百以上の術式が複雑に絡み合ってる。半数以上が囮ね。けれど、どれを巻き込んでもこの子の死の引き金になってしまう。なかなか陰湿なやり口ね……。間違えたらアウトだわ」
「う、うーん……」
少女が苦しそうに呻きながらもがいた。額からは汗が滲んでいる。けれど弱々しかった呼吸が徐々に整ってきた。
私はそれを見てほっと胸を撫で下ろす。じきに少女の意識は回復するだろう。私は少女の額の汗をハンカチで押さえるように拭ったあと、腕輪の分析を続ける。
この呪いそのものは生命を奪う呪いではない。何かを抑制する呪いだ。けれど解除しなければこの子は一生本来の力を取り戻すことはできない。
解除しようとするのは生命の危険を伴うけれど、私なら時間さえかければできる。最初の糸口になる術式はどれなのか……。
「全く。私を試そうなんて、やってくれるわね。こうなったら完璧に解除してやろうじゃない」
私は挑戦的なまでに高度な呪術式の塊を目の前にして、思わず口角を上げた。
しばらく腕輪を睨んで解読を続けていたら、複雑に絡み合う術式の中から、他の術式に影響しない一つを見つけ出した。
「これね。……グリモワール」
私は見つけ出した最初に解除すべき術式を、黒の書を行使して慎重に破壊した。
破壊された術式に絡んでいた別の術式は稼働しない……。どうやら正解だったようだ。
この作業を術式の数だけ繰り返さなければならない。一気に破壊してしまいたい衝動を抑えながら、神経を集中させる。
「う……」
私が十個の術式を解除したところで、少女がゆっくりと瞼を開いた。もう午後三時を回っている。解除に没頭するあまり気付かなかったけれど、私は少女以上に汗ばんでいるようだ。
「ここは……」
少女はぼんやりと天井を眺めながらそう呟いた。初めて目にした少女の瞳は人間のものではなかった。金色の虹彩の中央にある黒の瞳孔が、光を受けて丸から徐々に縦長に変化していく。
「気が付いてよかったわ。ここは黄泉の森にある私の家よ」
「そういえば……お主たちが助けてくれたんじゃな」
「……ええ」
人外の種族のお姫さまだろうか。少女の口調に一瞬驚いてしまった。少女はまだ体に力が入らないのだろう。声が弱々しく少し掠れている。
そしてこの腕輪を嵌めたのは本人ではないだろう。事情を尋ねたら答えてくれるだろうか。それとも、もう少し落ち着いてからのほうがいいだろうか。
「礼を言うぞ。儂の名前はアンジェリクじゃ。お主たちは命の恩人じゃからの。特別にアンと呼ぶがいい」
「ではお言葉に甘えまして。アン、私はクロエよ。よろしくね」
「うむ、よろしく頼むぞ。クロエ」
ちょうどそのときハルが寝室に入ってきた。あっけらかんとした明るい笑顔だ。皿を載せたトレーを両手に持っている。
「話し声が聞こえたんでスープを持ってきましたよぉ。目が覚めてよかったですねぇ」
「お主も助けてくれたのう。礼を言うぞ、ハルピュイア……。儂はアンジェリクじゃ。アンと呼んでくれ」
「アタシはハル。クロエさまの従者をやってまぁっす」
ハルはどこの国で覚えたのか分からないが、胸に拳を当てて敬礼の真似事をしてみせた。
それにしても人化しているハルをハルピュイアだと見破るなんて、アンはやっぱり只者ではないようだ。
「ハルか。よろしくな」
「よろしくでっす。ところでアンさまは何者なんですかぁ」
ハルに先を越されてしまった。私も知りたい。アンが何者なのか。
「儂は……。その前に、それはなんじゃ?」
アンがベッドからゆっくりと上半身を起こして尋ねた。アンの視線はハルの持っているトレーに固定されている。
「あ、これですかぁ? これはフォレストウルフのスープですよぉ。肉を丁寧に削りとって焼いた奴らの骨からスープを……取ろうと思ったんですけどぉ、時間がなかったので奴らの肉と野菜のスープですぅ」
ハルなりの拘りの逸品らしい。そうか、フォレストウルフの……。聞かずに食べたほうが美味しく感じたかもしれない。
「ふむ、美味そうじゃな。貰うぞ」
「ど~ぞど~ぞ。獲物だったアンさまが逆に奴らを食っちゃうなんて面白~い」
「あんな奴ら、いつもの儂なら……くそっ」
アンは悔しそうに顔を顰めたあと、すぐに目の前のスープに魅了された。今にも涎を垂らさんばかりに凝視している。よほどお腹が空いていたらしい。
今起きたばかりなのに食欲があるなんて、なかなかの生命力だ。それに顔色もよくなってきたようだ。
「フォン・ド・
「お料理ありがとう。……私は夜にいただくわね」
「かしこまりぃ」
ハルは私に向かってさっきと同じ敬礼をしながらニカッと笑って答えた。そしてアンはスープを口にして驚いたように目を瞠る。
「美味い、美味いぞ! ハルは料理が上手じゃのう」
「ニヒヒ。分かりますぅ? 凝り性なんですよぉ、アタシ。雑味が入らないように丁寧にアクを掬ってですねぇ……」
アンがスープをガツガツと美味しそうに食べる横で、ハルが気をよくして嬉しそうに笑う。こうして二人が会話している様子を見ていると、人間同士の触れ合いにしか見えない。
ようやく食べ終わったのを見て、私はアンに尋ねてみる。
「それで、貴女は一体何者なの? アン」
「うむ。儂は竜じゃ」
「竜……」
「ほぇ~……」
予想外なアンの答えに、私もハルも驚きを隠せなかった。
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