二、婚約破棄されました(後)
八才で婚約してから、私なりにレオナール殿下といい関係を築こうとしてきた。けれど殿下はいつも私に対して冷たかった。私は夜会にエスコートしてもらったこともなければ、花の一本すらも貰ったことがない。
それでも構わなかった。愛のある結婚を夢見たこともあったけれど、政略結婚はお互いを尊重し合っていけばそれでいいと割り切っていた。
けれどミレーヌが学園に入学した三年前から、殿下とミレーヌが仲睦まじく寄り添う姿を度々目にするようになった。
隠れて逢引するのならばまだいいけれど、婚約者のいる身で白昼堂々と学園の中庭で睦み合っているのだ。
(最初に目にしたときは、それなりにショックを受けたわね……)
最初のうちは胸が痛んだ。けれど地味で凡庸な私の容姿にも原因があったのだろう。
そのうち外聞の悪い様子を平気で公に晒す殿下を見て、これが一国の王太子の姿なのかと呆れてしまう気持ちのほうが強くなった。それからというもの、殿下から距離を置いて二人の状況を静観するようになった。
広間から出ようと踵を返した私に、背後から突然声がかけられる。
「待て。このまま帰れると思うな」
私は振り返って声の主を確かめた。声をかけてきたのは王太子の側近で天才魔道士と評判の高い、子爵令息のアラン・マルシェだ。
アランもまた殿下同様、貴族令嬢の間で人気が高い。紅顔の美少年だとかなんとか言われているらしい。実は童顔なだけで殿下と同じ十八才だったりするのだけれど。
アランはニヤリと笑った。そして突然私に向かい両手をかざして、風の刃を放ってきた。
私は咄嗟に両腕を交差させて顔を庇うように覆う。けれど私の全身は風の刃に巻きつかれて、夜会のドレスが無残に切り刻まれていく。
「くっ!」
容赦ない魔法の攻撃になす術もなく私は片膝をついた。するとようやく攻撃を止めたアランが私を睥睨して鼻で笑った。
かろうじて下着にまでは達しなかったけれど、私のドレスはビリビリに破れてしまった。そして体のあちこちが風の刃による裂傷で出血している。
(まったく。淑女のドレスを切り刻むなんて下劣な趣味ね)
アランは蔑むような眼差しを私に向けて、吐き捨てるように言葉を放つ。
「お前は我らがミレーヌ嬢を傷つけたのだ。このくらいで済んでありがたいと思うんだな!」
「……」
これ以上は何を言っても無駄だろう。この男は完全にミレーヌを妄信しているのだ。
私はずれ落ちそうになっていた眼鏡を直しながら、膝の埃を払って立ち上がろうとした。すると今度は突然腕を背後から掴まれて後ろ手に拘束される。
「痛っ……!」
凄い力で掴まれて両腕に激痛が走った。私は両膝を床についたまま、這いつくばるような姿勢を余儀なくされる。
なんとか後ろを振り返ってみると、騎士団団長の息子であり騎士でもある、トリスタン・ロカールが鬼のような形相で私を睨みつけている。
トリスタンは美貌の若手騎士として貴族令嬢に人気だ。けれど私には騎士とは名ばかりのドS男としか思えない。自分よりも力の弱い女性にこのような無体を平然と働くのだから。
「この毒婦が! 我が国の至宝を脅かさんとする悪女め。この細い骨を何本かへし折ってやろうか」
私の両腕を後ろ手に拘束したまま、トリスタンが低く唸るように吐き捨てた。とても騎士の言葉とは思えない。まるで拷問官だ。
すると殿下がせせら笑いながらトリスタンに声をかける。
「まあ、待て。こんな性根の腐った
「なるほど。公爵家を追い出されれば、貴族令嬢など丸裸で放り出されたも同然ですね。この悪女が底辺を這いずるさまを見るのもまた一興か」
ニヤリと笑う騎士トリスタンの悪辣な言葉が聞くに堪えない。本当に何という悪趣味な男たちだろう。
すると先ほど私を風の刃で攻撃してきた魔道士アランが口を開く。
「僕はまだ気が済まないんですけどねぇ。こいつの醜い顔をいっそぐちゃぐちゃにしてやりたい」
「フン。いい考えだとは思いますが、そんなことをすればこの美しい広間が血で汚れてしまうのでやめてくださいね」
アランの言葉に宰相の息子リオネルが口惜しそうに吐き捨てた。もはや何も言うことはない。この淀みきった空間から、そろそろお暇させてもらうことにしよう。
俯いていた私は眼鏡を直してゆっくりと立ち上がり、ビリビリに破れたドレスの裾に付いた埃を手で払った。
そして殿下のほうを向いて、非の打ち所のない完璧なカーテシーをしてみせながら暇を告げる。
「それでは皆さま、大変お世話になりました。どうか末永く幸せにお暮らしくださいませ。ではご機嫌よう」
平然と言葉を紡ぐ私に、殿下をはじめ、ミレーヌや側近、そして高みの見物をしていた貴族たちは、皆一様にあんぐりと口を開けて、唖然としている。
貴族令息たちの悪辣な言動に、私は侮蔑の気持ちを覚えこそすれ怒りが湧くことはない。踵を返して背筋を伸ばし、広間の出口へ向かって悠然と歩みを進める。
出口に近付いて誰の目にも触れないことが分かると、込みあげてくる感情を抑えきれず、不覚にも僅かに口角を上げてしまった。
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