黒のグリモワールと呪われた魔女 ~婚約破棄された公爵令嬢は森に引き籠ります~(Web版)

春野こもも

序章

一、婚約破棄されました(前)

 王宮の夜会に招かれたのは本当に久しぶりだ。十四才のデビュタントで来て以来だから、約二年ぶりになるだろうか。私は今夜たった一人で王宮の広間へと来ることになった。

 王太子のレオナール殿下と私は八年前に婚約を結んだ。けれど殿下が今夜エスコートしたのは婚約者の私ではなく、妹のミレーヌだ。

 今目の前では、殿下がミレーヌの腰をぐっと抱き寄せている。一方ミレーヌは殿下の傍らにぴったりと寄り添っている。

 多くの貴族が見守る中で、殿下とミレーヌ、そして王太子の側近たちが険しい表情を浮かべて私の前に立っている。そんな物々しい雰囲気の中、殿下が声をあげる。


「クロエ・ルブラン。我がブリュノワ王家の名において、私、レオナール・ブリュノワはお前との婚約を破棄する」


 私は殿下の言葉を聞いても、それほど驚くことはなかった。いつかはこんな日が来るだろうと予想していたからだ。

 目の前の見目麗しい婚約者……もとい、婚約者は氷のごとく冷たいアイスブルーの瞳を躊躇なく私に向けている。

 後ろで纏めたプラチナブロンドの長い髪は眩いばかりに美しく、端正な顔立ちは学園の令嬢たちを魅了してやまない。


 殿下の陰に隠れているために他の者には見えないようだけれど、ミレーヌは断罪されている私を見て得意げな笑みを浮かべている。

 背中まで伸ばしたストロベリーブロンドの髪はふわりとして柔らかく、顔立ちは華やかで美しい。大きな潤んだ瞳で見つめられた男性は、さぞ庇護欲をそそられることだろう。

 目の前で尊大に見下ろしてくる我が元婚約者殿に、私は説明を求める。


「恐れ入りますが、殿下。婚約を破棄すると仰る理由をお伺いしてもよろしいでしょうか」

「それはお前が正当なグリモワール継承者であるミレーヌを不当に虐待したからに他ならない」

「ミレーヌが正当な継承者……」


 一体いつからそんな話になっているのだろう。誰がそんなことを言ったのだろう。


「グリモワールの正当な継承者は王家の庇護下にある。それを害するは我が王家を害するも同義。本来ならば極刑に値するものと思え」

「虐待、ですか……」


 殿下が言っていることは事実無根の言いがかりだ。出所は大体想像がつく。

 そして魔導書グリモワール……それは我がルブラン家の血筋に備わる特別な力だ。あるときは国を癒し、あるときは国を害する敵を排除し、そしてあるときは国を守る。

 ルブランの血を受け継ぐ女性は全て、赤の書、青の書、白の書といったグリモワールのいずれかを体内に宿してこの世に生を受けるのだ。


 今回、ブリュノワ王家はグリモワールの正統な継承者を妃として迎えることにした。グリモワールの血筋を王家に入れたいのだろう。

 そこでルブランの長子である私に白羽の矢が立ったのだけれど……


「婚約者がお前のような地味な女であることがずっと屈辱的だったのだ」

「……申しわけございません」

「フン。これでようやくお前との縁が切れる。私はこの婚約破棄をもって新たにミレーヌ・ルブランとの婚約を結ぶこととする」

「嬉しいですわ、レオさま……」


 うっとりと殿下を見上げながら、ミレーヌがその腕に豊満な胸を寄せてしなだれかかった。そして平然と殿下の愛称を口にしたのを聞いて、今さらだけれど呆れてしまった。婚約者の私でも今まで殿下を名前で呼んだことはない。ミレーヌは、愛称呼びを許されるほどに殿下との仲が親密なのだろう。


(確かに私は地味だものね……)


 殿下の言う通り、私は誰が見ても間違いなく地味な令嬢だ。黒の太いフレームの眼鏡のレンズから覗くのは小さくて茶色の平凡な瞳。青白い頬はそばかすだらけ。そして腰まで真っ直ぐ伸びた銀色の髪を後ろで三つ編みに纏めている。

 時間があるときは、いつも図書室で本を読んでいる。他の令嬢との交流がなく友人がいない。殿下には無口で無表情でつまらない地味女だと会うたびに罵られていた。


 殿下の陰で薄笑いを浮かべていたミレーヌが、一瞬でその紫紺の瞳を悲しみの涙で潤ませる。見事な変わり身だ。


「お姉さま、私はいくら妬まれても、お姉さまが呪われた魔女でも、決してお姉さまを恨んだりはしませんわ。だってたった一人の大切なお姉さまですもの……」

「そう、ありがとう。……けれどミレーヌ、貴女は自分こそが正統な継承者だと名乗りを上げたのよね?」

「そんな! 私は何度もお姉さまこそが正統な継承者だと申し上げたのですけれど……」


 ミレーヌは扇子で口元を覆いながら悲しげに睫毛を臥せた。涙がポロリと頬に零れる。

 悲しげに涙ぐむミレーヌを見て、王太子の側近で宰相の息子でもあるリオネル・ブルジェが、クイッと銀縁眼鏡のフレームを指で上げて冷然と話し始める。


「クロエ。お前の持つ黒の書は、聞けば何の役にも立たぬゴミだというではないですか。よくも今までたばかってくれたものですね。このミレーヌ嬢の持つ白の書こそが国を癒し守る正真正銘のグリモワール。これを守ることが王家の使命です。それなのにお前は心優しいミレーヌ嬢を害してその命をもおびやかしたのです」


 私はリオネルの言葉を聞いて大きな溜息を吐いた。ミレーヌの証言だけで何の裏付けもないというのにここまで断言するとは。本当に何て愚かしい男だろう。

 幼いころからミレーヌは二人だけのときに感情的に挑発してくる。挑発に乗るのも馬鹿々々しいので、全く関わらなかった。

 そしてお父さまは無表情で可愛げがないと言って、私を愛してくれることはなかった。だから私とお父さまとの関係も希薄なものだ。


 唯一私を愛してくれたお母さまは、幼いころに何者かによって毒殺されてしまった。ルブランの正統な継承者であるお母さまを疎ましく思っていた者の犯行だろう。けれど未だに首謀者が判明していない。

 棺桶の中に横たわって冷たくなってしまったお母さまの亡骸を前にして震えた。私の体を震えさせたのは悲しみではなく怒りだった。国による捜査が打ち切られてからは、たった一人で首謀者の割り出しに腐心した。


「お言葉ですが殿下、私がミレーヌを虐待したという証拠が一体どこにあるのでしょうか」

「証拠か。証拠ならお前の父、ルブラン公爵と公爵家の使用人たち、そしてミレーヌの証言で十分だろう」

「……そうですか」


 私は殿下の言葉を聞いて少なからず落胆した。お父さままでもが私を陥れようとしていることが分かったからだ。

 愛されていないとは思っていたけれど、まさか憎まれているとは思わなかった。家族としての関係はもうとっくに破綻していたのだろう。やはり私には味方が一人もいないのだ。


「婚約破棄の件、承知いたしました。どうぞ陛下には了承の旨をお伝えください。私はこれで失礼します」

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