44話 枇杷の花
「
安藤
「これ、冬にかけて花が咲くんだ。来年の五月か六月に美味い実がつく」
申之介は、大人の背をはるかに越えたその木を撫でた。
「よく登って食べたなあ」
一緒に見上げる倫太郎の足元で、落ち葉ががさがさと音を立てる。
「枇杷は、『
宝満寺の僧
「それは嘘だ」
語調の強さに、倫太郎は驚いた。先程と打って変わり、申之介は枇杷の木を睨みつけていた。
「申之介」
「あっちも掃いてくる」
追おうとした倫太郎を、慧安は引き留めた。
「倫太郎様は、どうぞこちらへ。お引き合わせしたい方がいます」
慧安と本堂に戻ると子供が座っていた。まだ五つか六つぐらいの幼い子供たちだ。そろいの着物を着てちんまりと座った様は、一対の白菊人形のようだった。
どこか紀州犬を思わせる
「倫太郎様、こちらは
「音哉と申します」「里哉と申します」
ぴょこぴょこと頭を下げる姿はそっくりで、小鳥が餌を
「二木倫太郎です。お会いできて嬉しいです」
もじもじと、ふたりは互いに顔を見合わせ落ち着かなげだ。里哉は音哉の後ろに隠れ、着物を掴んでいる。
「あ、父上!」
奥の戸の向こうに、変わった姿の若い男が立っていた。旅装束とも違う。袖や裾回りを絞った、身軽そうな出たちだ。二子は、鞠が転がるように駆け寄りると、隠れるように背に回った。男は黙礼を返し、帰っていくようだ。
「あれは、どなたですか」
一瞬だったが、おのれを睨め付けたような気がした。
「篠井様と申され、元亀天正の頃は浅野さまのご一門であったとか。今は、山深い里にお住まいだそうです」
「そう」
角を曲がる前に、二子のどちらかが手を振った。
「──申之介」
探し回って、ようやく鐘楼の下にいる友の姿を見つけた。
「この間の蛸のばけもの。あの続きが聞きたい」
申之介は、手の中でいじくり回していた熊手を置いた。
「夜、厠へ行けなくなるぞ」
「大丈夫」
申之介のすぐ隣に腰を下ろして、話し始めるのを待った。
「おれが見た蛸の化物は、長いぬるぬるの足を海から突き出して、
申之介は語り上手だ。その光景が目の前に甦るようだった。
高野山からの道中、山中では猪と取っ組み合った。海では蛸の化物の足を斬り落とした。荒寺で女の幽霊と一晩語り明かしたり、身をひそめて夜盗の財宝の話をもれきいたりもした──らしい。
申之介が語り終わると、倫太郎は問うた。
「どうしたの」
申之介は肩をすくめた。
「坊主になれと言ったのは、父上だ。母上の菩提を弔うのに一番よいだろう、って」
申之介の母は、病で亡くなったと聞いた。
倫太郎が黙っていると、申之介は小さなため息をついた。
「母上と住んでいた家に、枇杷の木があったんだ。慧安どのと一緒で、母上もよい薬になるといつも言っていたけれど、母上の病には効かなかった。──少しも」
それだけだと言った。
「申之介」
倫太郎は言葉を探した。
「春に、……五月になったら」
「ああ」
「一緒に食べよう」
「食べるって、枇杷の実をか」
「うん。美味いのだろう?」
「まあな。でも高いぞ。登れるか」
「登る」
申之介はようやく笑った。
「そんなことをさせたら、長田様に殺される」
と、倫太郎を覗き込むように顔を寄せる。
「おれが取ってやる。母上にもいつも取ってさしあげた。美味しいって、それだけは食べてくれたから」
「うん。ありがとう」
申之介の母上は、どのような人だったのだろう──倫太郎は思った。
春がきて五月になったら、申之介と話してみたい。美味いという枇杷の実をふたりで食べながら、互いの母のことを。
そうして、日々は飛ぶように過ぎていく。明けて正月。秋津屋敷ではささやかな新年を祝う宴が催された。
ふたりは年玉として、それぞれ一振りの短刀を授かった。
大叔父左門は、鞘を払って倫太郎へ抜身を持たせ、こう言った。
「これは、抜いてはならぬ」
次に申之介へ鞘ごと下しおかれ、こう言った。
「これは、おのれ自身のために抜いてはならぬ」
では、いつ抜くのだろう──倫太郎は手の中の短刀、青く散る刃紋を見つめながら呟いた。
(続く)
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