38話 はじめての旅
倫太郎にとって「旅」とは、驚きの連続だ。
まず、「道」がどこまでも続いていることに驚いた。
歩めども歩めども続いていく。
しかも曲がりくねり、登ったり下がったり、その度に異なる景色を見せてくれるのだ。
歩むうちに、まめというものができた。それが破れて一歩行く毎に痛みが増す。こらえていると、付き添う
倫太郎は「ご無礼を」の声とともに、源助の大きな肩に乗せられた。
「うわあ」
「怖くはございませんか」
半兵衛が尋ねるのへ、
「平気です。周りがよく見えて楽しいです」
倫太郎は、足の痛さを忘れて目を大きく見開いた。半兵衛の頭の上が見える。遠くの景色までずっと見通せる。道は右に折れて、山々が近くなってきた。晩夏の日差しは強いものの、倫太郎は気にならなった。
まめは痛いが、楽しいものになった。
数日後には熱を出した。江戸を出立して十日あまりが経っていた。
「宿」で三人で寝んでいたら、暑くて喉が乾いて仕方がなかった。朝まで我慢しようとしたものの、離れて障子戸の際に寝ていた源助が気がついた。
医者が呼ばれ、苦い煎じ薬を飲み、倫太郎は団扇であおがれながら三日過ごした。
「我慢なさらぬことを、第一の約束にいたしましょう」
熱も下がり、梅干しで粥をたべていると、半兵衛が言った。食べ始めると、空腹であったとわかる。倫太郎は箸を置いて、きちんと背を伸ばした。
「がまんはよくないですか」
半兵衛は、口元を緩めたようだった。
倫太郎の「旅」の一行は、そのわずか三人であった。
「いいえ。我慢は、悪いことではありませぬ。しかし、知らぬうちに要らぬ我慢になると、痩せ我慢になってしまいます」
「やせ我慢、とは何ですか?」
半兵衛の後ろで、源助が小さく吹き出した。
「痩せ我慢とは──」
半兵衛は、咳払いをして言い直した。
「痛いこと、苦しいことはすぐに申されよ。倫太郎様は、まだお子です。半兵衛と源助は大人です。大人は子を守るもの。守るためには、倫太郎様も手伝っていただかなければなりません」
「わかりました。もう我慢しないことにします。痛いとか、苦しいとかは、すぐ半兵衛に知らせます」
「約束ですぞ」
「はい。約束です」
正直、倫太郎にはよくわからなかった。我慢したつもりはないが、それが我慢というものらしい。
二人がおのれを案じてくれていることは深く理解した。
翌日から、倫太郎は二人を質問攻めにした。
三人が大禍なく紀州の地を踏んだのは、江戸を出立しておおよそひと月のちであった。
東海道から海路にて松坂へ
「あれが紀州徳川家五十五万五千石のお城でござる」
半兵衛が指差す先には、青い空に真っ白な大天守がそびえていた。
「紀州家は」
「東照大権現様の御十男、
「覚えておられましたか」
嗜められるかと思ったが、半兵衛は破顔した。
「はい。
「皆がそう申しておりました。今の御当主は、六代
「半兵衛は、紀州様の御家中なのですか」
「いいえ。手前は加納様の御家中です」
「加納どのは、誰の御家中なのですか」
幾度か尋ねた質問を繰り返すと、半兵衛はいつもの困ったような顔になった。
「加納様は、かつては紀州様の御家中でした」
「それで、わたしはここに来たのですね」
すると、さらに困った顔になる。背後の源助が、苦しそうに時折ひきつった声を出す。
「倫太郎様が向かっておられるのは、ここから十八里ほど南の紀伊田辺藩でございます。その田辺城下より北東、下秋津という地に宝満寺という寺がございます。まずそこへ参ります」
「そうですか」
残念だった。
御三家と称される紀伊徳川家の城下町は、どれほど賑やかなものだろう。もうひとつの御三家、尾張の名古屋は大変な賑わいだった。あそこよりも、もっと人が多いのだろうか。
「では、わたしは寺で坊主となるのですか」
申之介のことを思い出した。と、源助が喉を鳴らす。
「いいえ。倫太郎様は、出家得度なさるわけではありません」
「では」
「さきほどのご質問は、その寺でなさいませ」
それ以上、半兵衛は答えてくれそうになかった。
やはり、和歌山城下は素通りをして、広い田畠にある一軒の百姓家に宿をとった。半兵衛の知る辺のようで、老夫婦からはあたたかなもてなしを受けた。
翌朝は早く発った。
海沿いのだらだら坂を登りきると、いちどきに視界が開けた。遠い海がきらきらと輝いている。
倫太郎は半兵衛に導かれ、木陰でしばし休憩した。夜風は過ごしやすくなってきたが、昼間はまだまだ暑い。それに紀州は江戸より南の地となる。
倫太郎は渡された水筒から一口飲んだ。
「半兵衛、あといかほどでそのしもあきつに着くのでしょうか」
「明日の日暮までには、田辺のご城下へ入りたいと思っております。そこでご身辺を整え、明後日には宝満寺をお訪ねする予定です」
「では」
倫太郎は言いかけて口籠る。
「どうなさいました」
言ってよいものか倫太郎は迷った。幼子のようで恥ずかしいとも思った。
「
しかし、淋しい。
「では、もうすぐ半兵衛とお別れなのですか」
と、あわてて言い足す。
「源助とも」
ぷっと吹き出す音がした。
「源助!」
「も、申し訳ございません」
半兵衛は困った顔をするどころか、優しげに微笑んで倫太郎の前に膝をついた。
「倫太郎様、ご案じなさいますな。これまで申し上げましたように、秋津でお会いするのは倫太郎様の大叔父上様でございます。大層学問に通じている御方とお聞きしますゆえ、勉学が進まれましょう」
「わたしは、……半兵衛にもっと剣術を習いたい。それに源助には、腕相撲で勝つと約束したのだ」
「それには、相当な
半兵衛は、いつものように呵呵と笑う。
「ひと月余りの長旅でしたが、倫太郎様はいつも楽しそうになさっておいででした」
「本当に楽しかったのです。旅は初めてでしたし、はじめて尽くしで楽しくてなりませんでした。このままずっと、二人と旅を続けても、わたしは平気です」
それはできないと、倫太郎にもよくわかっていた。半兵衛はめずらしく倫太郎の手を取って、大きな両の掌で包み込んだ。
「半兵衛も楽しゅうございましたぞ。時折、はらはらいたしましたが、倫太郎様との旅は、大層面白うございました」
「わたしも面白かった!」
本当にもうすぐ終わってしまうのだ。
「そろそろ参りましょうか」
倫太郎は草鞋を締め直してもらい、半兵衛を、そして寡黙に付いてくる源助を振り返った。
「わたしは、この旅でまた好きなものが増えた」
「なんでしょうか。源助が、菓子などをお渡ししていたようですが」
「半兵衛と源助だ」
半兵衛は困ったように首を振り、源助は笑いを堪えてついてくる。
倫太郎は、蒼天をふり仰いだ。
ふと、申之介はどうしているかと思う。友にひどく会いたかった。
(続く)
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