37話 伊達の花火

 安藤申之介こうのすけは、だった。

 二人きりになると、倫太郎が想像もつかぬ市井しせいの暮らしを語ってくれた。


「申之介は、どうしてそれほどたみの暮らしに通じているのですか」

「母上が町方の出だ」

「では、お変わりなくお過ごしですか」

 母を思い返して問いかけると、申之介はいつになく黙り込んだ。

「どうかしましたか」

「病で亡くなった」


 倫太郎は、思わず手を伸ばしていた。申之介から深い悲しみと、怒りのようなものを感じたからだ。いつも辛抱づよい。からかいながら、我慢づよく年下の倫太郎に付き合ってくれた。

 その申之介が、抑えきれない怒りを見せている。


「訊いてすまぬ」

倫太郎おまえが謝ることじゃない」

 ぽつりと言うと、申之介は倫太郎の背を軽く叩いた。

「俺は、幼い頃、町方に母と住んでいたんだ」


 そうして賑やかな大川(隅田川)の川開きや、水神まつりについて語ってくれた。


 毎年五月末(七月中旬頃)、水神まつりが始まる。大勢が両国橋や永代橋、新大橋へと繰り出して、たもとの広小路や川端には多くのが並ぶ。

 食べるもの、見るもの、遊ぶもの。申之介の話は半分も理解できなかったが、語る友の目はきらきらと輝いていた。


 なかでも、倫太郎のこころを掴んだのは“花火”だった。


「まず、音だ。どすんというか、ずどんというか、腹に響くでかい音がする。それからひゅるひゅるとむずがゆい音がして、白い火の玉がこうやって夜空に登るんだ」


 申之介は、土に枝で弧を描く。


「高く、高く上がって、まん丸の火の玉になって、ぱっと花のように開く。そして消える」

「消えてしまうのですか」

「ああ。大川にたくさんの花火舟が出て、川から打ち上げるんだ。商人あきんど達がこぞって雇い、打ち上げさせる」

「花火とは、町方のお祭りなのですね」

 申之介は膝を打った。


「大名屋敷だって負けていないぞ。もともと花火は、鉄砲だの大筒だの、戦の道具に近いものだ。なかでも伊達様の蔵屋敷は別格だ」

奥州みちのくの伊達さま」

「そうだ。武家の花火はだと、父上が申されていた。町方と違って、どんと大きな火の玉が打ち上がり、そのまま尾を引いて落ちていく。町方のような華々しさはないが、俺はこちらの方が好きだ」

 と、申之介は仏様ような目を細めた。


「今度、見に行くか?」

「え?」

「花火を見に行くか?」

 ずどんと打ち上がる、丸い白い火の玉。それが、夜の空を飛んでいく。

 倫太郎は、深く考える前に頷いていた。

「申之介、私は行きたい」

「よし、決まりだ」



 

 それからが大仕事だった。

 「行きたい」と言って、行かせてくれるわけがない。そもそも倫太郎は、屋敷の外へ一歩も出たことがないのだ。

 この企みには、慎重にも慎重を期する必要がある。成功するかもわからない。


 だからこそ、二人は謀りごとに夢中になった。

 月に一度、申之介は上屋敷のお長屋へ帰る。五月までにまだ三月みつきはあった。

 申之介は着替えを用意し、道を調べた。倫太郎は屋敷内の侍や、女中やらの動きをしたため、二人で庭を巡り抜け出せそうなを探した。

 日々が流れるように過ぎていく。

 冬から春へ。そして五月がやってきた。

 丁度その頃だ。苑路をめぐった築山の奥。四阿あずまやとの間。緑がかった大きな庭石と、背丈ほどの茂みに隠れた塀の一角。枝で突き崩すと──小さな穴が空いた。




 、倫太郎は早々と床に就いた。屋敷うちが静まり返り、約束の時の鐘が聞こえたころ、次の間で寝む申之介が襖戸を叩いてきた。

 倫太郎は無言で着替え、夜具の中に脱いだ寝間着と坐布団を押し込んだ。足音を殺して庭へ下りる。

 夜風が涼しい。

 星空のもと、ふたりは裸足のまま、縁の下をくぐって庭木の陰へ飛び込んだ。くすくす笑いがもれそうになるのを抑え、を目指した。




 どこをどう走ったのかわからない。どこにいるかもわからなかった。

 頼りは、隣で走る申之介。倫太郎と手を繋ぎ、提灯を下げて一歩先を行く。倫太郎はそのあとを、引っ張られるようについて行くだけだ。


 一生分走って、汗だくのまま一休みすると、遠くから腹に響く地響きのようなものが聞こえてきた。見ると、夜空が薄明るい。

 また音がして、満天の星空に火の玉が上がった。

 倫太郎は、呆気にとられて見上げる。つないだ手に、ぎゅっと力を込めた。

「まだ先だ。万年橋まで行くぞ」


 申之介は、また走り始めた。倫太郎の手を引いて、仄明るい、人の気配で満ちた方へと引っ張っていく。


 これが江戸の町なのだろうか。

 薄暗いなかで目にうつるものは、どれも珍しく、面白くて離れがたかった。

 大勢の町人が、男も女も、子供も年寄りも一緒に歩いている。提灯を持つ者もいれば、供を従えた侍や、夜目にもあざやかな、明るい色をまとった女達。多くは笑顔で話しながら、同じ方向へと向かっていく。母に似たひとが、小さい女児こどもを連れていた。抱き上げ、優しい笑顔で話しかけている。


「申之介、少し待ってください」

「こっちだ。迷子になるぞ」

 人の波を縫うように付いて行くのが精一杯だ。やがて、足元が土から木へ代わった。頬を冷たい風がかすめていく。

「ごめんよ、どいとくれ」

 申之介が倫太郎を押し出したのは、橋の欄干だった。丸く太い柱を抱くように下を覗くと、水面が遠くで波立つのがわかる。


「いいか、あっちが伊達様のお屋敷だ。そこを見ていろ」

 指した方角には、屋根瓦が黒々と続いている。あそこが奥州の雄、陸奥仙台藩伊達家六十二万石の蔵屋敷。

 涼しいはずの橋の上が、ひとの熱気で蒸し返している。倫太郎は身体を低くして、周囲をうかがう。

 反対側が大川らしい。小舟の影が魚のように泳いでいる。川端に灯りが連なっていた。


「来るぞ」

 どん──屋敷内から大きな打ち上げ音がした。弧を一筋に描いて、武家の花火は一瞬で輝き、落ちていく。

 その潔さとあっけなさに、倫太郎は口を開けて見入っていた。


「すごい」

「すごい」


 知らない声に振り返ると、倫太郎の横に、見知らぬ小さな子供がうずくまっていた。膝を抱えて、身を小さくしている。しかし、その大きな目は一心に花火を追っていた。

 申之介が声をかけた。


「おまえ、ひとりか」

「ひとりじゃない」

「じゃ、迷子か」

「迷子じゃない。はぐれただけ」


 夜目にもわかる、大きな目でにらみつけてきた。倫太郎より一つ二つ幼そうだ。


「それを迷子というんだ。誰と一緒に来た」

「……兄様たち」

「たち?」


 と、伊達屋敷から地に響く音が続く。見上げた夜空に、いくつもの大きな流れ星が飛んだ。

「うわあ」

 負けじと、大川から町方の仕掛花火が花を開く。

 倫太郎は、夢を見ているようだった。


「きれいですね」

「きれいだろ」

「きれい」


 いつの間にか、目の大きな子供も欄干から伸び上がり、ともに夜空を見上げていた。


「おまえ、家はどこだ」

「本郷」

「ひとりで帰れるか」

「帰れない」


 申之介は、倫太郎を引っ張った。

「俺たちも帰るぞ。そろそろ行かないとまずい」

 とにかく名残惜しかった。このまま見ていたい。そう口を開きかけると、

「こいつを送って行く。廻り道になる」

 そこで申之介は黙った。いつもこうだった。大事なことは、倫太郎に決めさせる。

「わかりました。行きましょう」




 帰途の足は重い。そう感じる倫太郎の横で、迷子の子供はずっと喋っていた。

 それが怖さを紛らわすためだと気づいたのは、「家」だという門の前に幾つもの灯火が動くのを見た時だ。


「ほら、行けよ。探してるぞ」

 ぐずり始めた迷子を、申之介は前へ押し出す。

「うん。ありがと」

「礼はいいから、名前ぐらい言ってていけ」


「おりん」

「おりん?」


 二人は、同時に聞き返していた。

「おまえ、女か?」

「いけないか、女で」

 おりんは闇の中から睨みつけると、踵を返して飛んでいった。

 道なかばで止まり、小さな黒い影は振り返った。


「ありがとう!」


 倫太郎と申之介駆け出した。屋敷まで、まだしばらく走るらしい。

「あの子、女子おなごだったのですか?」

「らしいな」

 どう見ても、男の子おのこ形姿なりだ。


「変なやつ」

「町方は面白いですね」


 二人は走りながら笑った。笑いながら倫太郎は嬉しかった。「ありがとう」と言われたことが、なぜか嬉しくて仕方がなかったのだ。




 その夜の一件は、露見せずに済んだようだった。

 しかし、それから一月ひとつきも経たぬうち、加納が倫太郎の元を訪れた。


「倫太郎様には、お国許へお発ち頂きます」 

 いきなりそう告げられた。

「国許とは、紀伊の国ですか」

 江戸から遠いはるか南の国だ。無論、行ったことなどない。

「申之介は?」

「あの者は本人の望みもあり、出家得度とくどすることになりました」


 そのようなことは、一言も聞いていない。お長屋から戻ったら、申之介に──。


「もう戻りませぬ」

 加納は支度を急ぐようにとだけ告げ、帰って行った。




 倫太郎が供とともに江戸を発ったのは、それから更にひと月ほど後のことである。

 そして物語の舞台は、しばし紀伊国へと移る。





(続く)

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