帰り花

美木 いち佳

第1話 帰り花

 何色とも分からない海を割る朱。渡っていけば、私にも約束の地が与えられるのだろうか。それとも、ただ溺れ死ぬだけだろうか。黒い雲に押し潰されるように、日が落ちていく。

 ガードレールを握り締めた両手はじっとりして、潮の滑りを黒くなすり付ける。セーラー服の襟を束ねるように結ばれた、スカーフのくたびれた白が、弱々しい風にすら煽られて顎をすうっと撫ぜた。このずっと下の、ともすればすぐ足元に敷き詰められた砂利のようにも見える、じいっと波に削がれて丸くなった岩たちからのラブコール。

 それ以外は、なにも感じない、なにも聞こえない。土曜日のこの道には、車も走らない。

 今日は絶好の、自殺日和だ。




 田舎の、名ばかりの進学校。伝統だか何だか知らないが、未だに男子は学ラン、女子はセーラー服。本当はブレザーが着たかったが、叶わないことは分かっていた。

 両親も別に学があるわけでもないくせに、娘の私には小さい頃から勉強しろ勉強しろと煩かった。テストの点が芳しくなければネチネチと父の部屋でお説教。そんな時間が、頭が痛い程無駄なので、私は疑問を投げ掛けることもせず、仕方なくここまでやってきた。

 成績は良かった。それでも一番にはなれなかった。両親も別に一番には拘らなかったが、五位を下回るとあからさまに嫌な顔をした。その溜め息を聞くと肺が抉られる気持ちになる。だから、私はまた部屋に篭って勉強をする。


 お陰で友人と余暇を過ごしたことなど、高校三年生にもなって、これまで一度たりとも無い。そもそも、友人がいない。確かに人付き合いは上手いほうではないが、それでも入学したての頃は話をするクラスメイトくらいはいた。

 初めての定期試験の結果が出たとき、雑然とする教室内を横切って、彼女は結果表を手に私の席へやって来た。

「順位どうやった?」

「四位やったよ」

「え?」

 私は正直に答えただけだった。仲良くしたいから、嘘や誤魔化しは無しにしたかった。だが、そのときの彼女の顔は、私たちの間に分厚い壁を作る、残酷にもそれを宣告するものだった。それからは、何をやっても、どう話しかけても、「だって、頭良いんやろ」と、その一言で一線を引かれた。私の肺は、抉られて、抉られて、もうこれ以上は息ができなくなると思った。だから、諦めた。


「深山さんってすごい頭良いんやって」

「そうなん?じゃあ話合うわけないやんね」

「この間の模試のやつも、数学、名前載ってたわ」

「げー、やっぱ五位以内のやつって別格って感じ?三組の小久保も休み時間ずっと本読んでるって」

「うわ、東大にでも行くん?」

「んなことよりさあ、誰かマロンのやつ持ってない?今CMしてるやつ」

「はあ?何それ」

「うっそ、知らんの?」

「心優が持ってるって」

「え、一個ちょうだい」

「うまっ、てかマジ痩せんわー」

 新作のお菓子の話だとか、何組の何君が格好良いだとか、そんなクラスの女子の会話からは、私は外れていた。自分の席が教室の真ん中になったときも、重心があらぬところへずれたみたいに、私は隅にいた。あの人は頭が良いから。そうやって区別される存在だから。


 私だって、好きでやっているわけじゃない。本当は、可愛いブレザーを着て、楽しい友人たちと日々を過ごして、あわよくば穏やかな彼氏を作って、放課後にアイスを食べたり、カラオケに行ったり。学校を楽しみにしたかった。そんな青春は、私には無かった。




「あんた、大丈夫かね?」

 朱い輝きを抱いた黒い波打ち際に、吸い込まれる直前。気配がまったく感じられなかった。短く息を呑み、振り返った。肩まで伸びた髪がしなって頬を打つ。

 驚いた顔の老人が、道の真ん中に立っていた。私がどんな表情をしていたかは知らないが、柔和な笑みに変えると中央線を跨いで歩み寄ってくる。

「ああ、今日も綺麗な夕焼けやね」

 知らない人に話しかけられるなどそうそう経験がないため、どう反応したら良いか分からなかった。きっと警戒心が全身から漏れ出ていたはずだが、おかまいなしにその人は、すぐ傍らに停めてある私の自転車のハンドルを掌でぽんぽんとしながら、

「うちに寄っていかんかね」

 そう言って目元の皺を、一層深くした。私は眉間に皺を寄せた。それが答えのつもりだったのだが、

「すぐすぐ。この階段、上ったとこやから」

 自転車を勝手に押しながら、狭い道路をまた横切っていく。所々に枯れ色の草が吹き出た石の壁に、沿わせるように停め直すと、ぽかんとしたままの私を置いてさっさと上って行ってしまう。そのまま背中を見送って、自転車ごと立ち去れば良いだけなのに、私はどうかしていたのだ。追いかけなければと、咄嗟に感じた。




 野面積みの城壁を段々にしただけのような大雑把な階段に、何度もバランスを崩しかけた。水平すら保たれていない段などざらにあった。体が浮くような感覚を味わいながら見上げると、さっきよりもその背中は遠い。見かけによらず、いやに飄々としているなと思った。

 冬服の内側が、じとっと気持ち悪い。なんて相応しくない陽気なのだろう。鼠色のカーディガンを脱いでも尚、不快感は残り、腹の裾をぱたぱたとさせながら、残りの一歩一歩を慎重に進む。足元ばかりに気を取られて、前髪を掠めるそれに気付けなかった。

「わっ」

 横にぐんと伸びた枝。その先、夕日をいっぱいに受けた淡色の小花が、途端に目を引いた。枝のむき出しになったもの、老いた深緑をぶら下げているもの、その中にあって、異色だった。

「桜だよ」

「そんな、季節外れな」

 つい口をきいてしまった。失態を打ち消したくて、さっと下を向き枝をくぐる。足を踏み入れたのは、陽当たりの良い少し開けた場所だった。山の斜面にいきなり作られた平面のようで、何の芽も出ていない畑らしき一角と、この桜があるだけだ。枝の向こうに、老人の姿がやっと見えた。

「最近、あったかい日が続いたけえね」

 私の姿をみとめると、奥の陰になっている方へ向かってまた歩き出す。

「周りは春に咲くのに、うちの子だけね、よう時期を間違うんよ」

 鬱蒼とする木々が天然のトンネルを形成していた。その陰に入ると、まるで違う感じがする。汗が冷える。急に晩秋らしい肌寒さがまとわりついてきた。

「それでも、一度咲いたらこうやって毎日綺麗に咲いとる、こいつは強い、頑張っとる」

 初めて並んだ。仏頂面の目線だけを横に投げた。混じり気の無い清澄を湛えたその横顔に、泥を落としたくなった。

「でも、やっぱり春に咲くべきよ」

 どんな顔をしただろう。見てやりたかったが、どこかで気が咎めたのかもしれない。脇に蔓延る雑草に、視線を落とす。

「なんで、そう思う?」

 しかし、その声には小さな波すら起きていない。依然として静かな物言いに、かっと恥ずかしさを覚える。

「だって…」

 その先を、言えるはずがなかった。あまりの腹の痛さと息苦しさに、模擬試験を途中で投げ出して、教室から逃げ飛んで、今こんな所にいるような私が、どうして言えようか。

「秋に咲く桜は、気味が悪いかね?」

 ギクリとした。気味が悪い。周りと歩幅を合わせられない、私のような存在に、いつしか誰かが放った言葉。春に一斉に咲き誇る皆と同じくすることはなく、自分だけ秋にぽつんと花を付けてしまう、狂い咲きの、あの桜のような。でも、本当は。

「春に…皆と一緒に…咲くほうがいい」

「大丈夫、咲くさ、春にも」

「咲かんかった!」

 目の周りが熱を持つ。澄みきった気休めを、横一文字に斬るように睨み付けた。きっと酷い顔をしている。しかし私の双眸を見据える、その顔はやはり穏やかな笑顔を絶やしてはいない。

「…わたしの娘もね、昔、あんたと同じその制服で、あそこから夕日を眺めとったよ」

 ゆっくりと前に向き直る。一瞬、遠い日に絡め取られたように、その表情が埋もれた。私ははっとした。今にも割れそうな薄氷を、その中に垣間見た気がしたからだ。

「やはり、あんたと同じことを考えとったんやないかね」

「…」

 連なる木々を抜けると、朱を照り返す古い家屋が見えた。茶褐色の壁はあちこち薄汚れていて、古い潮がへばりついた窓から覗く、黄ばんだレースのカーテンは、もう何年も閉められたままだと一目で分かる。生きた息遣いを感じない。

「こっちをご覧」

 声のした方を向くと、丁度日陰との境目で、小ぶりの木が両手を広げていた。これも、桜の木のようだ。

「この子は、下のんとは違ってまだ蕾だ」

 老人は、鼻先に、決してたわわとは言えない若緑の膨らみを乗せるようにして、慈しむ。

「お日様の力をめいっぱい受けられん子は、その分自力で力を蓄えよる」

 朱を背負うその姿が、今にも消えそうに私の瞳に映る。思わず数歩、駆け寄った。

「しかるべき時に花開かせるまで、それぞれの場所で、それぞれの努力をするんやね」

 華奢な枝をそうっと撫でるその手は白く、優しさに満ちていた。

「そうして咲かせたもんが、綺麗やないはずがない」

 まっすぐ、ゆっくりと。正面から私を包むしわしわの笑顔に、泣きたくなる。それでも私はまだ、岩になった心の扉に爪を立てたまま、開けずにいる。

「…でも、春に咲かんと、仲間外れよ」

 音も無く指差された向こう、先ほど上りきった階段の横の、桜がよく見える。他を凌駕するその存在感。今日最後の陽を受けて浮き出るぼんぼり花の、淡い橙の綺麗なこと。悔しいほど、美しい。

「いつ咲いたって、綺麗なもんは綺麗。春だとか秋だとか、日向だとか陰だとかに左右されん。この桜たちが、それを証明しとる」

 海を貫く一筋の輝きが、まるで咲き誇る桜を照らすスポットライト。今はもうオレンジ一色のこの世界でなら、私の頬を落ち行く涙もあたたかい色をしているだろうか。

「仲間外れだなんて言いなさんな」

 いつから隣に佇んでいたのか、私の呼吸が喧しいせいで分からなかった。穏やかな時間に縫い留められるように、ただ立ち尽くして、私も世界の一部になった。

「桜は歩けんが、あんたは歩ける。こんな季節にじっと耐えるように、綺麗に咲く花に、あんたは出会える」

 たまらず嗚咽が漏れた。

「だから、寂しがらんでええ」

 涙が止まらなかった。

「人と同じに、咲かんでもええ」

 滲んだ景色の中で、何かが弾けた。この何年か、小さく震えて縮こまっていたものが、拡がりを取り戻す。私は久しぶりに、胸いっぱいに清々しい空気を吸い込んだ。

 私は今、息を、している。

 



 それから毎日、蕾の様子を欠かさず見に行った。今日こそはと期待を膨らませて。

 ある日小さな花がぽつんと咲いた。明くる日にはもっと咲いた。冷たい風に揺らされながらも、凛と強く、綺麗だと思った。私もこうありたい。残された僅かな高校生活、もう終わるつもりでいた私を、励ましてくれる皺の深い笑顔と、この細い桜に恥じないよう、私もしっかり、育てよう。




 大学合格が決まり、来週の頭にこの土地を離れることになった。春らしい陽気に包まれて、通い慣れた土手のへりにも、見慣れた山にも点々と、薄桃色が訪れ始めた。

 どうしても、報告と、お礼を言いたかった。一段飛ばしで、無造作な階段を駆け上がる。いつか言われた通り、あの二本の桜は堂々と鈴なりに花を付けていた。春一番に飛ばされまいと花べんを必死に繋ぎ止めている。明日あたり、満開だろうか。

 生きているのかどうかわからないチャイムを押しても、念のため扉を叩いても、辺りはしんとしていた。不在なのだろうか。指に引っ掛けた紙袋の中身に視線を落とす。そろそろ日も傾く頃だし、じき戻るだろう。そう思って、手土産の羊羮を、積まれた鉢植えの陰になるように、置いておいた。


 あれから何度も家を訪ねたが、老人が姿を見せることはなかった。羊羮も、手をつけられた様子はなく、そのままだった。


 近所、と言ってもこの海沿いの緩やかなカーブを大分下ったところだが、そこの庭で花の世話に勤しむ婦人に尋ねてみた。この上に住む人は、いつ戻りますか、と。上方に続くひび割れたアスファルトに目を遣りながら、怪訝な顔で、これより向こうはもう誰も住んでいないと言う。

 ああ、やっぱり、と、なんだかすんなり合点がいった。




 あの老人は、大切に見守ってきたこの桜たちが、帰り花を咲かせる頃にだけ、ここに帰って来られる存在なのかもしれない。そして、枯れようとしていた私の中の青春の花を、見つけて、声を掛け、水を遣り、生かしてくれた。生き生きと蕾を付けるのを、待っている。私が咲くのを、見ていてくれる。

 私の花は、まだ蕾ですらない。けれど、私が努力を続けていけば、いつかはこんなあたたかな日差しの下で、開き始める。それを、この桜が、あの人が、教えてくれた。

 もう大丈夫。綺麗な花を咲かせてみせるから。


 ――明日よりあとの、どこかできっと。


「花菜ちゃん、教科書もう買った?」

「ううん、まだなんよ、生協で注文せんといけんとか、言ってたよね?」

「恵美ちゃんが、法学部棟の横にあるって言ってたから、行こう」

「うん、皆はもう行ったんかな?」

「ああ、呼んでみよっか?」

 そうして六人の新入生は、慣れない化粧を薄くまとった頬を綻ばせた。賑やかに通り過ぎて行く、青い桃景色。

 

 ――青春日和が、私にも。

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帰り花 美木 いち佳 @mikill

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