大川啓

 その日は出発時刻の三十分前には駅に着いていた。初雪の降った日であった。


 酷く身体が重く感じるのは、度重なる不眠か、それともこの背にのしかかる巨大な不安の所為であろうか。

 早朝のプラットホームは閑散かんさんとしていて、いつもより広く感じた。

 遠くのベンチに座る若い男女の話し声がこちらまで聞こえて来る。その詳しい内容までは聞き取れない。私はベンチに浅く腰を掛けて、寒さでかじかむ手のひらをぼんやりと眺めながら汽車を待っていた。靴の中が不快な汗で蒸しているのが時折気になった。

   

 「ゆき――。雪が降ってきましたよ」

  

 彼女の声を聞いて、私はゆっくりと重くなった頭を上げた。

 確かに雪が降っていた。モッタリと灰を蓄えた雲がすぐそこまで降りてきている。

 「本当だ。今年は少し早いんじゃないか」

 適当な相槌を打つようにそんなことを言ったが、その年の初雪は例年より三週間も遅かったそうだ。

「そうでしょうか。綺麗な細雪です。――まるで私の出発を祝福しているようね」

 とっさに私は目を逸らした。視線の先では一匹の鳩がポロッポロッと喉を鳴らしながら気ままにホームを彷徨さまよっている。

 彼女は私の顔を伺うと、即座にずるそうな表情を作り上げ冗談ですよと言って笑った。

 私は黙したままでいる。

「そんなに難しい顔をしないでくださる」

 彼女の声音は尚も軽快な余裕をたたえている。

「いや、そんなことは――」

 私の顔は難しくなっていただろうか。

 私は今日、彼女に余計な不安を与えない為にも、できる限り平然な態度で送り出してやるつもりであった。しかし、そう目論見もくろみ通りにはいかなかったらしい。――彼女は療病のため、高名な医師がいるという都会の病院へ行くのだ。彼女は名前すらも聞いた事のない重い病を患っていた。私と出会う以前から、彼女はその病を患っていた。そして今日のような日が来ることは、ずっと前から分かっていたことだった。

 ――それからいくらか言葉を交わしたはずであったが、何を話したのか、後になって思い出すことができなかった。

  

 汽車が来た。

 彼女は客車に乗り込むや否や、跳ねるように私の方へと振り返ると気情を含んだような笑みを作り言った。

 「お見送り、どうもありがとう。風邪をひいたら大変ですので、私が行ってしまったらさっさとお家へ帰ってくださいませ」

 おどけた調子で私の心配をする彼女が可笑しくて、自然と頬の硬直がけていくのを感じた。そしてこれまでの自分が難しい顔をしていたことを知った。

 私の表情の変化を見逃さなかった彼女は「まあ!人が心配をしているというのになんですかその間の抜けた顔は!」とまた同じ調子で追い討ちを掛けた。

 観念した私は「はいはい、大丈夫ですよ」と少し呆れた口調で返してみると、彼女は明るく笑った。それはよく見慣れた笑顔だった。この時ばかりは、彼女の努力が一切の不安を忘れて笑うことを私たちに許した。


 少しの沈黙があった。彼女は無垢な笑みを浮かべながら私を見つめている。

 この時私は、彼女にどんな言葉をかければよいか分からなかった。伝えたい言葉は無数にある筈だったが、どんな正直な言葉も、どんな優しい言葉さえも、喉に出かかるばかりで何も口にすることができなかった。正直さは彼女の不安を煽り、特に優しさこそは退くことの出来ない別れの養分になると疑えてならなかった。彼女の病のことを思うと、私はいつも弱気になった。そういう時、適切な言葉は常に私が想像する場所とは全く離れた所にあるように思われて苦しかった。

 「どうか――。いえ。葉書を出します。休暇を取って、会いにも行きます」

 やっとの思いで絞り出した言葉は言っても言わなくても変わりのないものだったが、彼女はまたよく見慣れた笑顔で「はい」と言った。実に爽やかな声だった。…………………………

  

 ――発車を告げる笛が遠くで鳴った。ドアが音も無く閉まる。列車はゆっくりと動き出し、少しずつその速度を上げてゆく。

 本当にこれで良かったのだろうか。この瞬間に限った話ではない。――彼女と食事をしている時、彼女と散歩をしている時、彼女とぼんやり空を眺めていたあの時間、それらよりももっと些細ささいな瞬間に送った言葉達。私がこれまで彼女に向けて選んできた言葉は、確固たる必然性を携えて彼女の元へと届いていたのだろうか。

 大きな不安を抱えているはずの彼女に、気の利いた言葉をかけることも出来ない自分への不信感は急速に肥大化して行き、やがて乱暴に胸を掻きむしってしまいたい衝動に変わった。

 私は自分が二本の足で立っていることも忘れ、夢の中にでもいるかのような心地で通り過ぎてゆく列車が点となり、視界の奥へ消えていく様を静かに見ていた。汽車が見えなくなった後も、暫くの間、私は地平へと続く線路の先を見つめ続けた。この時、身体はわずかに揺れているような気がした。


 ――私はどれほどの時間をそうして過ごしていたのだろうか。我に帰ると同時に、身体は重力の存在を思い出したかのようにズシりとその質量を現した。

 私はベンチに浅く腰をかけて、ゆっくりと空を見上げる。

 雪はいつの間にか冷たい雨に変わっていたようだった。

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大川啓 @k_okawa09

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