騎銃士隊、植田へ

 慶応四年六月、磐城平いわきたいら藩の騎銃士隊を率いる鍋田治左衛門なべたじざえもんは、猪苗代いなわしろ城より戻り、騎銃士隊をたいら城より西の北好間村にて詰めさせている時に平潟ひらかたに招かれざる客が着た事を知らされた。


 また平潟か、そんな思いがもしかしたら治左衛門にはあったかもしれない。それと言うのも、五月の十八日にも平潟には来訪者が在ったからだ。


 その時の来訪者は驚くべきことに輪王寺宮りんのうじのみやであった。江戸の庶民からは上野宮うえののみや様とも呼ばれた、後の北白川宮能久親王きたしらかわのみや よしひさ しんのうは、明治天皇の義理の叔父にあたる人物。すでに上野の寛永寺にて出家しており、寛永寺貫主・日光輪王寺門跡を継いだため、歴代門主と同じく、輪王寺宮りんのうじのみやと呼ばれていた。


 その宮様がこの戦において行動を起こしていた。三月には東征大総督の置かれた駿府城に赴き、徳川慶喜の助命と東征中止の嘆願を行っていた。が、新政府より慶喜の助命は条件付きで受け入れられたが東征は一蹴されたため、寛永寺に戻った。寛永寺に彰義隊が籠って以降は、父の帰京の勧めも、東征大総督の有栖川宮熾仁親王ありすがわのみや たるひとしんのうの招きも固辞し、寛永寺に籠り続ける。上野戦争が勃発し、彰義隊が破れると寛永寺を出て、幕府海軍を率いていた榎本武揚えのもとたけあきの手引きで、平潟に辿りついたのだと言う。


 実の所、治左衛門が騎銃士隊と共に猪苗代城に向かっていたのは、輪王寺宮の警護の為であった。戻ってきて早々に、宮様を追う様に今度は新政府軍と言う訳である。またか、と思う気持ちも分らなくはない。しかし、平潟近くの勿来関なこそのせきには、仙台二小隊五十名を率いていた大江久左衛門おおえひさえもんが詰めていた筈。新政府軍は気付かれぬ様に上陸したのだろうかと訝しむ気持ちを覚えながら、鍋田治左衛門は騎銃士隊を率い列藩同盟の兵が再集結している植田の地へと急行した。


 その道すがらに思いこされるのは、仙台藩や諸藩との連携の荒が目立っている事だった。磐城平藩には列藩同盟に対して聊か後ろめたい事がある。義理の父、中村茂平なかむらもへいが苦悩の色を濃くしながら動き回っているのもそれが原因だ。後ろめたい事、それはつまり、藩主、安藤信勇あんどうのぶたけが三月の時点で上京し、五月の時点で新政府に恭順を示している事に起因している。老公、安藤信正あんどうのぶまさが新政府軍との戦を支持しており、藩内の意見が二つに分かれている事が、連携にひびを入れている要因である。


「だが、小藩である我らに、選択の余地などない……」


 近年、五万石から三万石に厳封された磐城平藩に動向の自由等はない。そう苦々しく呟きながら治左衛門が思い出すのは、四月の初旬の事。義理の父、中村茂平なかむらもへいと交わした会話とその様子であった。


「親父殿。九日の日付にて我が騎銃士隊も会津征伐の為白河への出陣と相成りました」

「聞いておる。しかし、我らは小勢。無理に戦端を開くでないぞ」

「……小勢は承知の出陣。或いは、それは殿と老公様のご意向の違いを懸念しての事で?」

「治左衛門、滅多な事を言うでない」


 治左衛門は額に皴を寄せて、窘める茂平の顔を見やる。


 老公様こと安藤信正あんどうのぶまさは徳川幕府の老中を務め、公武合体策や諸外国と日本の通貨の金含有量の違いから日本から金が流出する幕末貨幣問題や物価高騰問題の対策を打ちたて、まつりごとの安定に努めた人物である。公武合体策により反幕感情を募らせた水戸浪士に襲撃された坂下門外の変で、背中に傷を受けた事で、武士にあるまじき事と非難が起こり、それに合わせて醜聞も囁かれたために老中を罷免され失脚し、隠居を余儀なくされた。しかし、坂下門外の変の後、包帯姿でイギリスの公使ラザフォード・オールコックと会見し、オールコックに幕府の権力者としての意地を見せ感嘆させているだけの器量のある人物であった。その彼は老公として今でも藩政を取り仕切っているのだ。その信正は佐幕派であり、此度の会津征伐においても、どちらかと言えば会津に同情的であった。


 一方の殿こと安藤信勇あんどうのぶたけは、信正の甥にあたる人物。信正の息子である信民のぶたみが享年五歳でこの世を去った為、急遽信濃の国より養子として迎えられた。しかし、若年である事から叔父の信正が藩の実権を握っている状態であった。その様な状況で五年。二十歳を目前にした若き青年にとって、この状況が果たして望みの状況かと言えば疑問は残る。ましてや、信勇は三月に上京しているのだ。この状況下では信勇が新政府軍に恭順を示すだろうと考える藩士が出てくるのは当然と言えた。


 白髪が目立つ茂平の額に刻まれた皴は苦悩の現われ。茂平は齢六十になる家禄三百石の物頭。心は信正の元にある事は察せられるが、だからと言って信勇をないがしろにできる筈も無く、昨今では苦悩の日々を送っている事が伺えた。


 一方の治左衛門も、家禄は同じ三百石だが齢三十二。家督を継いでから十一年とは言え、茂平ほど長期にわたり忠勤していた訳では無く、そのうち一年は信民の、五年は信勇を主君と仰いでの奉公である。実質的な権力は信正公にある事は理解しているが、藩の方向性が二つに分かれる事に杞憂を感じても居た。が、義父の顔の刻まれた苦悩の皴を見るに、その事を吐露する頃は憚られた。結局、治左衛門は茂平とそれ以上、此度の戦についての言葉を交わすことなく、日常的な話題でお茶を濁してその場を立ち去った。


 あれから二か月。東北勢は奥羽越列藩同盟おううえつれっぱんどうめいで結束し、それを新政府軍が攻めると言う構図に変わっていた。そんな中、予想通り信勇は新政府に恭順を示した。判断自体は大勢を見れば当然と言えたが、磐城平藩としては困るのだ。何故なら、新政府と激しく敵対する仙台藩や会津藩が傍に在り、かつ仙台兵や関東から流れてきた人見勝太郎ら徳川旧幕府出身者が率いる遊撃隊が磐城平藩を含めた諸藩に展開している状況では、新政府側につく事など出来る筈もない。ましてや、老公信正が熱心な佐幕派であれば尚更だ。


 戦うと決まれば徹底的にやってやると腹は括れる。だが、連携覚束ない、士気に高低差のある諸藩と共に戦えぬけるのか、治左衛門は表に出す事の出来ない不安を抱えて、植田の地へと急いだ。

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