騎銃士隊、植田へ
慶応四年六月、
また平潟か、そんな思いがもしかしたら治左衛門にはあったかもしれない。それと言うのも、五月の十八日にも平潟には来訪者が在ったからだ。
その時の来訪者は驚くべきことに
その宮様がこの戦において行動を起こしていた。三月には東征大総督の置かれた駿府城に赴き、徳川慶喜の助命と東征中止の嘆願を行っていた。が、新政府より慶喜の助命は条件付きで受け入れられたが東征は一蹴されたため、寛永寺に戻った。寛永寺に彰義隊が籠って以降は、父の帰京の勧めも、東征大総督の
実の所、治左衛門が騎銃士隊と共に猪苗代城に向かっていたのは、輪王寺宮の警護の為であった。戻ってきて早々に、宮様を追う様に今度は新政府軍と言う訳である。またか、と思う気持ちも分らなくはない。しかし、平潟近くの
その道すがらに思いこされるのは、仙台藩や諸藩との連携の荒が目立っている事だった。磐城平藩には列藩同盟に対して聊か後ろめたい事がある。義理の父、
「だが、小藩である我らに、選択の余地などない……」
近年、五万石から三万石に厳封された磐城平藩に動向の自由等はない。そう苦々しく呟きながら治左衛門が思い出すのは、四月の初旬の事。義理の父、
「親父殿。九日の日付にて我が騎銃士隊も会津征伐の為白河への出陣と相成りました」
「聞いておる。しかし、我らは小勢。無理に戦端を開くでないぞ」
「……小勢は承知の出陣。或いは、それは殿と老公様のご意向の違いを懸念しての事で?」
「治左衛門、滅多な事を言うでない」
治左衛門は額に皴を寄せて、窘める茂平の顔を見やる。
老公様こと
一方の殿こと
白髪が目立つ茂平の額に刻まれた皴は苦悩の現われ。茂平は齢六十になる家禄三百石の物頭。心は信正の元にある事は察せられるが、だからと言って信勇を
一方の治左衛門も、家禄は同じ三百石だが齢三十二。家督を継いでから十一年とは言え、茂平ほど長期にわたり忠勤していた訳では無く、そのうち一年は信民の、五年は信勇を主君と仰いでの奉公である。実質的な権力は信正公にある事は理解しているが、藩の方向性が二つに分かれる事に杞憂を感じても居た。が、義父の顔の刻まれた苦悩の皴を見るに、その事を吐露する頃は憚られた。結局、治左衛門は茂平とそれ以上、此度の戦についての言葉を交わすことなく、日常的な話題でお茶を濁してその場を立ち去った。
あれから二か月。東北勢は
戦うと決まれば徹底的にやってやると腹は括れる。だが、連携覚束ない、士気に高低差のある諸藩と共に戦えぬけるのか、治左衛門は表に出す事の出来ない不安を抱えて、植田の地へと急いだ。
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