磐城平城の戦い

キロール

序章・後のターニングポイント

 慶応四年六月二十四日 (現在で言えば八月十二日にあたるが、ここより先は全て旧暦で記す)新政府軍の参謀である板垣退助いたがきたいすけ率いる八百の兵が白河口の戦いをサポートするべく棚倉たなくら城へ迫った。これは関東を平定した新政府軍が関東以北の征伐に積極的に乗り出した結果である。


 白河口の戦いに援軍として派兵された板垣だったが、彼を棚倉城攻略に導いたのは、新政府軍がもう一軍を編成し、白河口から東の磐城いわき地方の南、現在の北茨木市にある港町、平潟ひらかたに敵前上陸する作戦を立案、実行した為だ。


 この平潟上陸作戦には幾つもの利点が考えられた。平潟は奥羽越列藩同盟勢力内であり、この一帯を制圧するまでは、補給は海路に頼る不確実なものでしかなかった。だが、平潟周辺を制圧してしまえば、海路と陸路から補給を得る事が出来るばかりか、陸前浜街道 (現国道6号線)を抑える事になり、白河口の後方を遮る事になる。そして、奥羽越列藩同盟に参加している磐城平いわきたいら藩や相馬中村藩に対する威圧が期待できるのだ。それは、列藩同盟盟主の仙台藩にも影響を及ぼせると言う事だった。


 この上陸作戦が成功したと板垣の耳に入った事で、彼は棚倉城急襲を決した。思いの外、容易に平潟の上陸作戦が進んだとの報告を聞き、板垣の脳裏に何が過ったのかは定かではない。名を上げる為か、上陸作戦を碌に妨害できない列藩同盟のあり様に好機を見出したのか。ともかく彼は、白河の支城となっている棚倉城へと向かった。後の板垣の功績を考えると、筆者は後者であると思うのだ。


 板垣は率いる七百、ないしは八百の兵を白河の地で二手に分けて棚倉城へと進軍する。途中、棚倉藩兵や相馬中村藩兵、それに仙台藩兵や会津藩兵たちがあらかじめ敵の襲来に備えて砲塁ほうるいを築いていた郷戸村にて戦端を開いた。列藩同盟に地の利あり、と思われたが朝六時に外累を守っていた会津藩士・木村兵庫の一隊に三方より攻勢を開始した板垣隊の攻勢はすさまじい。その勢いに押されながらも木村隊も果敢に防戦する。


 列藩同盟側はこれに棚倉藩兵や木村と同じく会津藩士にして新練隊隊長・土屋鉄之助なども木村隊を助けるべく抗戦するも、戦局は板垣隊の優位に進み、列藩同盟側は押されて行く。他の隊が退く中、木村隊のみは反転攻勢をかけ、他の隊が退く事を助けるが、結果多くの死傷者を出す。守備側の他の隊も駆けつけて、板垣隊を押し返そうとするも叶わず、遂には金山の塁にこもった。


 何とか防戦しようとする列藩同盟側であったが、板垣の別働隊が金山付近の森林経路を進んで、累の背後から攻勢に出れば、総崩れとなった。突如として思いもよらなかった背後から敵が現れたのだ。余程の戦巧者でも戦線を支えるのは難しい。それが、後退を重ねていた軍であれば尚更だ。この金山の戦いで木村隊、棚倉・相馬兵の多くが死傷し、大勢は決した。


 籠城せんと生き残った列藩同盟の兵が棚倉城に戻れば、棚倉藩兵は多くの戦地に散っており、城には三十余名しか残っていなかった。後は老幼婦女のみが残っている有り様。それでも、迫る新政府軍相手に暫しは奮戦した列藩同盟の兵達であったが、多勢に無勢は承知と見えて、最終的には棚倉の城に火をつけて、各々の陣営へと逃れた。こうして板垣は一日で棚倉城を落としたのである。


 この棚倉城陥落で動き出す戦場があった。無論、白河口の戦いが新政府軍有利に傾いたのは当然であるが、平潟に上陸した部隊と白河口の部隊との連携が容易になった事で、平潟上陸部隊も動き出したのである。


 平潟上陸部隊が目指すのは、磐城平藩や相馬中村藩、そして仙台藩である。6月25日には板垣の棚倉城攻略の報を受けた平潟上陸部隊は、28日に遂に北上を始めた。


 これにより磐城平の戦いが本格化するのである。

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