赤の終息

成宮 拍撫

赤の終息

1『幻影』


私は何時からここにいたのか。私は何処に向かえばいいのか。


瞼を開けると瞳に映るのは、赤色。真っ赤な夕焼け空。


スニーカー越しに伝わるアスファルトの冷たさが、誰もいない街をより一層寂しくさせる。


唯一聞こえるのは頬を撫でる風の音。冷たい風の音。生き物の音なんて聞こえなかった。


一歩踏み出すと、不確かだった感覚が馴染んでくる。


一歩踏み出すと、これは確かに自分の身体なんだと実感する。


暫くの間、また瞼を閉じて音を聞く。やっぱり虫の鳴き声も鳥の鳴き声も聞こえなくて、小さく溜息を吐く。


見える景色は街中で、夕焼けで、人が居なくなるにはまだ早い時間で、そもそも車一台も走ってないのが不自然だし、風の音しかしないのだって絶対におかしくて。だからやっぱり私は不安になる。


それでも、ここに居続けるのはもっと不安だったから。目的地もなく、私は歩き始めた。






手のひらを見つめて、何かを掴むようにぎゅっと握る。記憶にない夕焼けの街を当てもなく歩く。


何かを発見するのは存外早かった。そもそもこんなにも不思議な状況で何もないほうがおかしいのかもしれない。普通ではない状況で、普通ではないことを探すのは容易なことだった。


駐車場の車、立ち並ぶ建物の壁にはめ込まれた窓ガラス。映っていたのは自分ではなくて、日常だった。色々な人の、日常だった。下校途中なのか制服姿の男女。犬を連れた人や缶コーヒーを飲んでいる人。車も走っている。そこには現実が映っていた。


自分が知らないだけで、ここは本当に存在する街なんだ。私は、この街を本当に知らないのかな。なんて思いながら、上着のポケットからそっと携帯電話を取り出す。もちろん電話もメールも試したけれど使えない。その使えないと思い込んでいた携帯電話を……近くの地面に置いてみる。ガラスには、映らなかった。取り敢えず、こっちから向こうに干渉することはないと仮定できる。それから、カメラ機能を起動。恐る恐る画面を眼前にかざす。映ったのは向こう側の世界だった。


「え……?」


画面の向こうの映像から何かが消えて、ふわりと暖かい空気を感じる。何が消えたのかと目を凝らしても分からなくて、その代わりに強烈な気配を感じて視線を画面の外に流した。


自分以外に誰もいなかった赤色の街に、微かに聞こえる……少し乱れた吐息の音。


黒いランドセルを背負った少年は、すっと微笑んで、唇に人差し指をあてる。「秘密だよ?」と「約束だよ?」と言うように柔らかく微笑む。


私はその動作に見覚えがあった。記憶を辿っている僅かな時間に、少年は数歩ゆっくり後ろに下がって溶けるように消えてしまった。私が「待って!」とも言えないうちに、消えてしまった。


突然に、寂しくて悲しい気持ちが私の胸を衝く。それと同時に、私はどうしてこんなに落ち着いているのだろうと今更疑問に思う。パニックになっていて、感情が抑えられていたのかもしれない。唐突に訪れた強い感情に、頭の中が変になる。


「私は、君を知っている……」


さっきまで少年が立っていた場所に、紙の束が落ちていた。それは今にも風に飛ばされそうで、儚く見えた。








2『空白』


拾い上げたそれは、白い紙数枚をセロハンテープで綴じたもので、砂がついて黒っぽく汚れていた。すべての紙が白紙で、それがいったい何なのか見当もつかないものだった。


けれど、とても大切な物のような気がして、砂を丁寧に払って抱えて歩いている。


やっぱりこの街の風景に見覚えはない。さっきから一人が不安で仕方がなかった。あの少年を見てからだ。それまでは落ち着いていたのに。


相も変わらず真っ赤な空を見上げて、カメラ機能をつけっぱなしにしている携帯電話で時刻を確認する。不思議なことに殆ど時間が経っていなかった。


彼は一体誰なのか、ここは何処なのか、きょろきょろと辺りを見渡しても何もなくて、無意識にまた走っていた。暫くして、転んだ。水溜まりを避けようとして、躓いて転んだ。泣きそうになって。それから、私は遅れて気づく。白紙だと思っていた、実際に白紙だった、それなのに見える。水溜まり越しに見えるその絵には見覚えがあって、それでも頭の中が濁ったようにぼんやり……思い出せない。今度は携帯電話の画面越しに、一枚一枚順にみていく。


最後の一枚以外は全部同じ人物の似顔絵のようだった。女の子の似顔絵。きっとこれは小さい頃の私だ。最後の一枚は画面越しでも白紙だった。何も描かれていなかった。


この絵はあの少年が描いたのだろうか。最後の一枚は、本当に白紙なのか。






公園のベンチに腰掛けて、深呼吸を……いち、に、さん。


そういえば、この公園はあの場所に似ている。…………あの場所。どこだろう。


そう、家の近くの。二人でよく遊んだ公園。ここによく似た公園。あの時もこんな夕焼け空だった。


「最後のページは、いつかまたもう一度会えた時に」「いつあえるかな」「きっとすぐあえるよ、その時は約束守ってね」「うん。私が…………」


唐突に思い出された記憶は、断片的に、けれど確実に私の頭に雪崩れてきた。


そうだ。最後の一枚はまだ白紙なんだ。まだ空白のままなんだ。


君は、何処にいるんだろうか。


時計の針が進む。優しかった赤の世界は一瞬のうちに黒に飲まれる。








3『街灯』


小さい頃、家に帰らなかったことがある。君がいなくなっちゃった日のこと。


私はあの日、寂しくて、待っていたら君が「どうしたの」って微笑んでくれる気がして、ずっと一人でいつもの公園にいた。いつの間にか夕焼け空はなくなっちゃってて、空は真っ黒になっていたんだ。私は、怖くなってずっと泣いてた。一人で泣いてた。






ゆっくり立ち上がって、もう一度だけ深呼吸をして。駆け出した。私はもう怖くない。大丈夫。私がこの場所にいる理由もなんとなくわかった気がして、寂しかった。君がいる場所もなんとなくわかっちゃって、悲しかった。


暗闇に、ぽつん、ぽつん、温かい光が灯る。それを目印に私は進む。もうずっと前から気付けていたのかもしれない。無意識のうちにわかっていたのかもしれない。そう思うほどに、目的の場所は近かった。


呼吸が乱れて、足がもつれる。もう時間がないかもしれない。


ここにきてから走ってばかりいる気がする。何となく、そんな気がしてしまう。


目的の場所に着いた時、そこにはあの少年がいた。私の知っている君がいた。


「こっちだよ」と、記憶にあるままの姿の君が、私の手を引いてくれる。体温は感じなかったけれど、少し暖かくなった。そのまま君に手を引いてもらって、部屋の前までやってきた。


君の名前が書かれたプレートを確認して、静かにドアを開けた。








4『月』


暗い部屋。暗闇に慣れ始めていた瞳に、窓越しの月光に照らされて、ベッドに横たわる懐かしい姿が映っていた。


私と同じ歳の君は、痩せていた。肌は白く、身体にはいくつもの管がつながっていた。


君は昔から身体が弱かったよね。あの時も、都会の病院で診てもらうために引っ越したんだよね。君は私に隠していたみたいだけれど、何回も入退院を繰り返していたんだから、頭の悪い私にだってわかっちゃうよ。


「頑張ったんだね……」


「うん、また会おうって約束……守りたかった」


私は、君のすぐ傍に座って。頭を撫でた。最後のページをめくって、君を描く。


最後のページは空白だった。私が君を描くための空白だった。次に会える時までに、きっと練習して上手くなってみせるから。その時には私が君を描いてあげる。そんな子供の約束のページだった。


成長した君は、微笑んでいるように見えた。身体は大きくなっていても、顔はあんまり変わらないね。


まだ実感がわかない。悲しいけれど、どことなく他人事のような感じがする。


けれど、君はもうすぐ行っちゃうんだよね。


これは全部私の夢なんだと思う。ただ、君がいなくなるのは本当な気がした。


君は最後に会いに来てくれたのかもしれなかった。


私にとっての赤は、優しい色だったんだ。優しい君の色だったんだ。


「会いに来てくれるならもっとわかりやすく直接来てくれればよかったのに。これじゃあ私が会いに来たみたいだよ」


「ごめん……」


描き終わった絵と、目を覚まさない君を見比べる。あんまり上手くなってないなって自分一人で苦笑する。


君の頬に手を当てて、「ありがとう」って笑って、「大好きです」って笑って、「またね」って泣いた。今更実感がわいてきたみたいで、悲しくなってきて、いっぱい寂しくなってきた。


そのまま、君の隣で泣き崩れる。私は、この夢を……きっと忘れてしまうだろう。






「僕の方こそ、ありがとう」


「僕だって……大好きだったんだよ。今でも、好きです。大好きです」


「うん。いつかまた会える時までずっと見守ってるね」


精一杯の笑顔を涙でぐしゃぐしゃに濡らしながら、僕は……              




                               ―END―

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