第64話 2598日目

 あのとき、少しでも考える時間や猶予をくれていたら良かったんだろうか。

 多くよりもメルスを選ぶべきだったのか。

 国のため、衆生よりも自分の幸せを優先すべきなのか。

 わからない。

 わからないまま、俺は意識なき幼き王女の口の中の歯の裏へと固定され、王女サーリナンダとして目覚めた。

 ダリルさんは大体を把握しているようで、方々へ手配済みであった。

 まわりのかしずくものたちが滞りなくなんでもこなしてしまうので、バレるということはなかった。

 もともと奥の院から差配を振るうスタイルだったので、たまにあるお披露目にさえ顔を出せば万事事は回っていった。

 これは王宮のものを安心させるための配慮だったのではないだろうか。

 一杯担がれたかなと過ごしていたら、月一回の民への拝謁で俺の姿を見た年老いた御婦人が、俺が2、3言喋っただけで卒倒するぐらいえらく感涙していてこれはこれで意味があるのかとひとりごちた。

 10歳ぐらいだった身体も6年の歳月を過ぎ、女性らしい身体つきになってきて、また女か……とぼやくことあったがさほど文句も言わず黙々と日々の政をこなしていった。

 もともとの地頭は悪くなかったので、短期間のうちに大体のことを覚えてしまっていた。

 話っぷりも所作もそれらしいものへと変わっていった。

 それでも完全には女性化せず、精神は俺のままだった。

 これは意地だ。

 もしかしたらメルスに会えるかもしれない。

 その時に、心ぐらいは変わっていない俺で会いたかった。

 しかしメルスとの再会は絶望的であった。

 メルスは試験をパスできない。

 残るは拝謁であったが、メルスはここの市民権を得ていない、旅の者だ。

 この国の市民権の取得もまた難しい。

 それに日々の政に忙しく、とてもメルスまで手が届かない。

 先へ先へと伸ばしているうちに、こんなにも時間が過ぎてしまった。

 果てのない夜、こっそり中庭に出て外気に触れ、空に瞬く星をいつまでも眺めながら考え込んだ。

 ――俺はここに成ったのか。

 王女はすでに俺が動かしているようなものだし国王と王妃もすでにいない。

 侍女のマルテはよくしてくれるけど、それでこの胸に空いた大きな穴を埋める事はできなかった。

 それでも、生きよとしているのか。

 いつの間にかマルテが俺の背中からショールをかけてくれる。

「ここは寒うございます」

「ねえ、マルテ」

「なんでございましょう」

「わたし、うまくやれているのかしら?」

「世界はサーナリンダ様を見ておられます」

「世界、か……」

 世界と意識の関係。

 意識は身体に宿る。

 ソム、からだ、だいじ!

 そうだな……。

 人間は果ての果てまでを見通す事はできない。

 それは意識という光のスポットに限界があるからだ。

 逆に限界があることで「俺」が規定されているともいえる。

 意識の謎は、人間が知り得る範囲で迫ることができた。

 物理的に分かり得たとしてもまだ残ることがあるだろうが、それは世界と同じなのだ。

「私」が「私」である以上は。

 原理的に不可能であるかもしれない。

 しかしこういうことは、分かち合うものがいなければひどく寂しいものだ。

 たとえ差があろうとも、共有している事実が大事なのだ。

 決して消し去れない大事な名を思い浮かべる。

 足取りは掴めなかった。

 あの日からぱったりと姿を消してしまったのだ。

 もうこの街にはいないのか。

 この国を出ていってしまったのか。

 うっすらとダリルさんが裏で手を回しているのではと勘づいてもいた。

 嗚咽とともに、涙が滲む。

 腰を屈めて、吐き気を堪えた。

 歳月は関係なかった。

 疲れ果てていたのだ。

 何もかも放り出したかった。

 こんなにも精神的に参っているとは思っていなかった。

 あの短い旅路が俺を何もかも変えてしまっていた。

 マルテが介抱しながら中へ入りましょう、と促す。

 それでも、頑張らなければ。

 背負っているものと、眩しかったもの。

 達せられたことと、求められなかったこと。

 今日も頑張ったぞ。

 それらを胸にしまいこみ、寝室へとマルテの手を借りて戻ったのだった。

 星がひとつ、大きく瞬いたように見えた。


 相変わらず忙しい日々を送っている。

 今日も大量の書類を少しずつ裁可して処理していく。

 裏切り者の宰相はすでにいない。

 代わりに学院で異才と名高かった若いメガネ女子を補佐官に任命していた。

 彼女のおかげで激務の苦労がだいぶ減ってくれた。

 それでも大事な決定は自分がすることにしている。

「今年も優秀な偉材が揃っていますよ」

 ポツリとディアンヌは手を止めず私に声をかけてきた。

 俺も手を止めずながら聞きする。

「一番に推したいのはこの者。今度新しく側女見習いとなるモレセという方ですね。一発合格でした。学院か貴族院かと思っていたんですが、どうやら違うようです。身元がよくわからないんですよ。なぜ受験が許可されたかというと、一緒に登用を求めてきた馬があまりにも優秀でして特例として認められました。まるで人語を理解しているかのような立ち振る舞いっぷりなんですよ。それに」

 手を止めず続きを待った。

「感情知能試験で満点を取ったんです。有望とは思いませんか」

「いつ、来るの?」

「今日の午後の入れ替えの交替の際に一度女王殿下に簡略化した御目通りをします。容姿は申し分なく……」


 何かいいしれぬ湧き上がりがこの身を予感させていた。

 なんなんだろう。

 今日はきっと良いことがあるのかもしれない。

 窓のそばの花瓶に生けられていたリリーが風に揺られて頷いたような気がした。

 おれ私は


 おわり

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