第9話 きらきら星 1
※
公衆電話の受話器の向こう側、男の泣きわめく声が響いていた。カサカサと聞こえる物音の後ろに、奏子さんの叫び声も聞こえた。
大概の話は聞こえなかった。けれど、知りたくもないことだけは、鼓膜に張り付くように聞こえて、今でも耳に残っている。
『体だけが目当てだったんじゃない。……君が欲しくなったんだ。……』
公衆電話に入れた十円玉が次々と飲み込まれてゆく。その音が聞こえると、僕の中で積み上げられた奏子さんへの想いが、少しずつ崩れて落ちてゆく。
息を吸う度に不安を吸い込んでいるようで、吐き出しても、吐き出しても、また吸い込んで、それが僕の心を膨張させて、破裂しそうな胸の痛みを覚えた。
「ねぇ、奏子さん……訊いてもいい?奏子さんって、今まで付き合った人とかいるの?」
あの時、奏子さんは電話を切ったつもりだったのだろう。けれど通話は切れずに、奏子さんも何かに慌てている様子だったから、気になった僕は受話器を耳にあてていた。
ピアノのレッスン中だとは思っていたから、その先生は男なのか、女なのか、そんなことが気になっただけだ。
男だったら……なんて思う、ちょっとした嫉妬心だったんだ。だから、こんな話なら聞かなければよかったと後悔している。
奏子さんの叫び声を聞くと、僕の手は勝手に受話器を置いていた。
張りつめた糸が切れたようだ。少しの間の記憶がない。その事実を受け止めることを、僕の心が拒否していた。彼女の叫び声が、受話器から聞こえる男の話が事実であるのを表明しているのに聞こえた。
その言葉を繰り返して思い出す。体だけが目当てだったんじゃない……と。
奏子さんは男性経験が無いなんて思っていたのは、僕の勝手な妄想だ。ならば本当のことを確かめようと思い、再び受話器を手に取った。
奏子さんは僕の質問に少し間をあけて、「無いよ。」と答えた。しかし、その言葉を聞いたところで、僕が胸を撫で下ろすことはない……奏子さんは僕に嘘をついている……募らせた不安が破裂すると、その全てを苛立ちに変えて僕の心を侵食していた。
「嘘だよ……じゃあ、電話で聞こえた話は何?体だけが目当てじゃないって?」
奏子さんは、僕の質問に答えることなく、十円玉が飲み込まれる音だけが聞こえている。
「じゃあ、質問を変えるよ。奏子さんって、セックスしたことある?」
その質問にも答えはなく、僕は硬貨の投入口に立て続けて十円玉を入れるだけの間。そして、手に持っていた十円玉の全てを入れ終えると、奏子さんの言葉を待たずに、質問の答えを決めつけた。
「へぇ、男と付き合ったことはなくても、経験だけはあるんだ。そういうこと興味なさそうに見えて、ずいぶんとお盛んなんだね。」
掠れた声で、「酷い……」と言っているのが聞こえた。鼻をすすり、息を吐く音も聞こえる。
「酷い……じゃあ言わせてもらうけど、自分は、あの女と何もしたことが無いってこと?何回も、何十回もしてるんでしょ?お盛んなのはどっちよ。自分のこと棚に上げて、人のこと汚いみたいに言わないでよ!」
僕の心は苛立ちに乗っ取られていた。だから奏子さんが話せば、その言葉を餌にして膨れ上がるばかり。声を聞けば腹が立つだけで、聞く耳を持てなくなっている。
「麻衣子とは付き合ってたんだ。何が悪いの?あんたは付き合ったことがないんだから、セックスをしただけだろ。話をすり替えようとするなよ!」
「大体、誰とも付き合ったことないなんで話、したこともないけど。勝手に想像して、人のこと嘘つきみたいにしないでよ!馬鹿なんじゃない……男はいいけど、女は汚いみたいなこと言って。あなたなんて汚れて泥まみれじゃない!」
「もういいよ!二度と会うもんか!」
受話器を叩き付けて電話を切ると、ジャラジャラと音を立てて十円玉が戻って来た。僕の苛立ちにもお釣りはあったようで、それが余計に腹を立たせる。
いつもそうだ。彼女からの言葉は、僕が求めていない答えが返ってくる。今日まで、それをどうやって受け止めるかが、彼女に対する誠意だと思っていた。けれども今日はもう限界だ。
確かに僕は、自分のことを棚に上げている。だが、その核心を突かれたことにすら腹が立つ。
二度と会わないと言ったことが、余計に苛立ちを重ねた。
会いたい……会って相原奏子に、この気持ちを投げつけたい。
いつもは彼女のペースで話すばかりだが、今日は僕の言葉を投げつけてやりたい。
許したいけど、許せない。全てを受け止めたいけど、受け止められない。相原奏子が、僕の中でまだ生きている。だから余計に腹が立つ。
今の僕は、頭に角が生えている。その角は相原奏子に生やされたもので、それを折れない自分に苛立っている。
やりきれない気持ちを大声にして吐き出した。その声が電話ボックスの中で鳴り響く。囲われて逃げ場のない叫びが、僕の体に纏わりついて剥がれないものになっていた。
ポケベルにメッセージが届いたのは、崇のことなんて、すっかり頭から消えている時だった。
『オネガイガアル』『タカシ』
憂さ晴らしに殴ってやろうと思う気持ちで、崇と高校の裏にある公園で待ち合わせた。
公衆便所の裏側、人けがない場所で壁に寄り掛かっている崇の姿が見える。
崇は僕の顔を見ると、教室で見せる時と同じ表情で笑っていた。その態度が僕を更に腹立たせた。
「お前、何処にいたんだ!探したんだぞ!万引きの事だって……お前のせいで、えらい目にあったじゃないか!」
崇は僕のがなり立てる声にも恐れることなく、「ごめん、ごめん。」と言いながら、ヘラヘラと笑っている様子。
「なぁ、そんなことより、金貸してくれないか?十万、無ければ五万でいいから。すぐに返す、とりあえず今日必要なだけなんだよ。頼む。」
僕の中で僅かに残っていた理性は掻き消されると、握りしめた拳が崇の頬を殴りつけていた。
その拳を握る指の一本一本に込められた力は、崇だけに込められたものではない。けれども、崇を殴る理由など、どうでもよかった。腹を空かせた虎の前に立てば、食われるのも当たり前だろう……そんなことだ。
崇は壁に体を打ち付けると、僕のことを睨みつけていた。
「金なんか貸さねぇよ、バカ!」
そうやって唾を吐き捨てるように言い放つと、崇は僕の胸倉を掴んで、血走った目を見せていた。
「偉そうなことするんじゃねぇよ……お前は、どれだけご立派なんだよ。何でもハンパじゃねえか。俺はなぁ、お前の何倍も苦労してんだよ。」
僕から手を出したとはいえ、崇の様子がいつもと違う。ものの善し悪しくらいは分かる奴だから、自分の過ちを正当化するような人間ではない。しかし目の前の崇は、魔物に取りつかれているような目をしていた。ここ数日で何があったのか……僕の知っている崇とは違う。
今までが嘘なのか、これが本来の姿なのかは分からないが、僕の知る崇は、明るくて、剽軽者で、いつも皆に笑っている仕草。
本当ならば彼に八つ当たりする僕の方が、よっぽど道理に外れた人間なのだ。
崇は僕から手を離すと、「俺は、お前のこと殴れねぇよ……」と呟いて、その場を立ち去った。
崇とこういう雰囲気になったのも初めてだが、僕が殴った訳を見透かしているようにも思えた。
あの日、僕と一緒に原宿で買ったスタジャンを着ている。真っ赤な色の背中に、僕を睨みつけていた目を思い出す。彼は一体、何を背負い、何に追われているのだろう。……
呼び止めて金を貸してくれと言った訳など訊けず、去りゆく姿に目を向けていた。
悩み事にも容量はあって、新しい悩みができれば古いものは仕舞われて、また新しい悩みができて、一つ解決すると古い悩みが引き出される。そんな仕組みだと思っていたが、今日一日の出来事が頭の中で膨らみ続けて、これ以上膨らめば、風船のように割れてしまいそうだった。
崇への苛立ちは消えていた。そもそも彼の人間性を、今という上辺だけ掬って測る仲ではないのだ。
それを考えれば、彼を殴ったことには後悔しか残らない。
考えてみれば万引きの件だって、僕は被害者のような心情でいたが、崇に罪を押し付けられたわけでもなく、彼からすれば、あの場に僕等がいた方が厄介だったのだろう。
金を貸してくれと言った崇は、今、何かに苦しんでいる。そんな友達の相談を聞くこともせずに、僕は彼を殴った。
けれど崇は、僕のことを殴れないと言っていた……その一言が彼と僕の、人間性の違いを語っていた。
眠りにつくと、それは夢として描かれた。奏子さんが……崇が……それは、見たこともない裸の二人が現れた。
ぼやけて見えるが、二人は抱き合い、キスをしている。その二人の姿を、僕は黙って見ている。
奏子さんと目が合うと、僕を見て笑っている。辺り一面に赤い色の霧が立ち込められて、二人はそれに包まれながら抱き合っている。
ポルノ映画を見ているようだ。二人に対する感情が無い。崇が奏子さんの耳元に唇を寄せている。それには怒りも、悲しみも、悔しさもない。その姿を見ているのが、自分なのかも分からない。
やがて赤い色の霧が二人の姿を隠すと、「悔しかったら、もう一度、殴ってみろよ……」と、崇が囁く声が聞こえた。
その台詞を聞くと、僕は夢の中から目を覚ました。目覚めれば、夢のことはぼやけてゆくが、そもそもの根源である悩ましは頭の中に残るままだった。
学校へ行く気持ちには全くなれなかったが、頭の中に詰め込まれたものを無くすには、崇のことから片付けようと思った。
もしかすると、今日は学校へ来ているかもしれない。とりあえず会ったら昨日の詫びを入れて、彼の話をちゃんと聞こうと思った。奏子さんのことは、それからだ。
いつもより早い時間の電車に乗り、奏子さんのことは避けるようにした。会ったところで、他の男に抱かれた奏子さんを想像するだけ。それで苛立ったまま崇に会っても、場合によっては昨日の二の舞になってしまう。
学校に着くと、いつもは校門の前で生徒達に「おはよう。」と、声掛けている校長の姿が今日は無かった。それに気が付いても何も違和感を覚えずに、下駄箱で靴を履き替え、ぎゅうぎゅう詰めのエレベーターを諦めると、階段を上り教室へ向かう。
いつもより少し早い時間に着いた教室には、既に大半の生徒が揃っているが、崇の姿は見当たらなかった。
ここに崇がいないのであれば、今の僕には用のない場所。チャイムが鳴っても来ないのであれば、昨日のように彼を探しに行こうと思っていたら、教室の後ろで騒いでいる連中が僕を見つけて一斉に集まって来た。
「おい、彰、聞いたか?」
「何が?」
そこにいる皆が同じ顔をしている。笑顔は家に忘れてきたのだろうか、皆が驚愕した表情で僕を見ている。
「崇、死んだってよ……昨日の晩、殺されたんだって……」
聞いた途端に、頭の中が空になった。感情が必死になって言葉に見合った顔を探している。
無い、無い。無い、無い。使える気色が一つもない。
人の死なんて向き合ったことのない僕が、驚き方を探している。そして何も見つからなかった心は、頭の中を真っ白に染める。
崇と同じ軽音部の奴が、その経緯を話した。
崇は軽音部のOBが経営しているライブハウスで、アルバイトをしていた。そこを手伝えば、自分たちもステージに上げてもらえるチャンスができるからだと。
二週間前のこと、崇はそのライブハウスに出演しているバンドのギターを、誤って壊してしまったらしい。
何十万円もするギターらしく、それを弁償しろと言われて金を取り立てられていたそうだ。
それは崇が支払えるような額ではないので、他校生から恐喝することや、万引きしたCDやゲームソフトを売った金で払えるだけ渡していたが、毎日の取り立てに嫌気をさすと、ライブハウスの売り上げが仕舞われた金庫の鍵を探して、その金でギターの弁償金を払い済ませたそうだ。
しかし金を盗んだことが知られて、昨晩OBの先輩に呼び出されると、そこで受けた過度な暴行により崇は死んだ。強打により内臓が破裂していたらしい。
話を聞いた僕は、一人で悩みを抱えていた崇の心情を考えると、吐き気に襲われて教室を飛び出した。
便所に駆け込むと、個室の鍵を閉めて便器を抱え込んだ。昨日からろくに何も食べていない体からは、吐き出すものなど何もないが、吐き気だけが止まらない。
崇を殴った拳が感触を覚えていない。それは、僕が殴ったのが生きている崇ではなく、既に死んでいた体に思えて、吐き気が止まらない。
彼を死に陥れた暴行の中に僕の拳も含まれたのかと思えば、この手を切り落としてしまいたいと思ってしまう。
壁を殴りつけても拳は痛みを覚えることもなく、ただ物音を立てて、傷口から血を滲ませるだけ。
「おい!高山、大丈夫か!鍵をあけなさい。」
扉の向こう側から横田先生の呼び声が聞こえると、頭の中は割れるような痛みを覚えた。
僕が行き詰まっていた時に、校門をよじ登って笑顔を見せていた崇を思い出す。その笑顔が僕の心に激しい痛みを与えている。
あの時の彼は悩んでいた僕に寄り添い、親身になって僕の話を聴いていた。
しかし昨日の僕と言えば、彼の悩みになど耳を傾けず、感情の当てつけに彼を殴りつけた。
崇はもがき苦しみ、遠のく意識の中で誰の顔を思い浮かべたのだろう……それが仮に僕ならば、彼を死に追いやったのは暴力ではなく、非情な僕の心だ……
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