第8話 穢された過去

  ♢

「おはようございます。」

「あ……おはようございます……」

 朝の通学電車で、彰君の顔を見るのが、物凄く照れ臭かった。なんだか彼が、以前よりも色男になったように見えて、その笑顔が私のための作られていると思うと、世界中の幸せを独り占めしているようにすら思える。

「昨日は、よく寝られましたか。」

「あ……うん。」

「そうですか……僕は、眠れなかったな。奏子さんに会うのが、待ち遠しくて、待ち遠しくて。『朝になれ』『早く、朝になれ』って、ずっと思ってた。」

 くすぐったい、彼の言葉が、私の体を擽る。何で、この人は恥じらいもなく、こんな言葉が言えるのだろう……爪の垢を煎じて飲むことが迷信でないならば、一杯頂きたいと思う。

「あ、そうだ。これ、奏子さんが持っていて下さい。」

 彰君は小さな紙袋を差し出してきた。中を見ると、彼のPHSと、その充電器が入っている。

「これ、奏子さんが持っていて下さい。やっぱり家に電話して、お父さんが出たら緊張しちゃうから。」

「え、別に、お父さん怒ってないから大丈夫だよ。それに、これ受け取るくらいなら、私も買うから。」

 彰君は、「違うんです。」と言って、にこりと笑いながら首を振っている。

「僕、奏子さんに公衆電話から電話する、あの時間が好きなんです。雨でも、寒くても、奏子さんと話したくて、外へ出ていく自分も好きなんです。いつか皆が、これを当たり前に持つようになって、そんなことしなくなるでしょ?きっと、部屋の中でテレビでも見ながら、好きな人に電話する日が来るんですよ。それって、便利だけど少し寂しくないですか?なんか、大切な時間が失われている気がして……でも、そんな時に僕は、自分の人生の中に今の時間があったことを『得したなぁ……』って、思いたいんです。」

 体を擽るこそばゆさが、すっと抜けていくのが分かる。彼の言葉を自然に受け止めた。いつも通りの満員電車。周りの人々は、二人の会話を聞いて、どう思うのだろう……いつもならば、そんなことを気にしてしまうが、今は周りの人よりも、自分が特別な存在に思えてしまう。

「それをいうなら、私も外から電話しないと損をしているみたいじゃない。」

 彰君は、「それは駄目です。」と言って、また、にこりと笑っている。

「奏子さん、ピアノ外まで持っていけないでしょ?僕、奏子さんの弾くピアノ聴きたいから。」


 その日の晩も、次の日の晩も、彰君は公衆電話から、電話を掛けてきてくれた。週に四日、夕方はコンビニエンスストアでアルバイトを始めたらしいのだが、電話代の為に働いているようなものと笑っていた。

 そんな、たわいもない会話をしたり、彼にピアノを弾いて聴かせたり、気が付けば日を跨いで話をしていた。

 私も夕方はピアノのレッスンがあったから、彼と過ごす時間は、朝の電車と、夜の電話だけになってしまうが、一日にホログラムのように眩く光る時間ができていた。

 だが今日は、電話で話す彼の声が、いつものように弾んでいない。理由を聞けば、崇君が、あの万引き事件以来、学校に来ていないそうだ。

「僕も、巻き込まれたのが頭にきていたから、気にしてなかったんだ。どうせ会うのが気まずいだけだろうって……でも四日も経つし、先生に訊いたら、昨日、今日は、連絡もないって言うから……」

「そうなんだ……この前、彩乃に訊いたら、家には帰っているって言っていたけど……また明日、訊いてみる。」

 私が嫌がらせの犯人に気が付いていた素振りを見せても、彩乃との中は今までと変わることがない。むしろ、罪を取り繕うとしているのか、今までより私に気を使っているようにも見える。

 コンクールなどがあると、私が選曲する作曲家のものを選んでいるように思えたけれど、今度のコンクールは、ショパンの《革命のエチュード》で臨むと言っていた。


「落ち着いて考えたら、崇は、ああ見えて万引きとか、人の物をくすねるような真似を嫌う奴ななんだ。だから、きっと理由があったはず……」彰君の声は、酷く沈んでいた。


 一夜明けた朝、彩乃から電話があり、崇君は二日前から帰宅していないらしく、連絡も取れないと震えた声で話していた。

 彰君にそのことを伝えると、今日は学校を休んで探してみると言っている。

「私も、一緒に探すよ。」

「駄目だよ。それで学校を休んだりしたら、またお父さんに心配をかけてしまう。僕が見つけるから大丈夫。」


 今まで毎日、当たり前に一人で乗っていた満員電車の中が、物凄く切なくて不安に思う。

 友達のことで悩んでいる彼を思うと切なくて、妙なことに巻き込まれないかと不安で、満員電車の人混みに心まで押し潰されてしまいそうだった。

 朝の教室には彩乃の姿も無かった。一時間目が終わり、彩乃のポケベルにメッセージを入れると、今、お母さんと警察に来ていると返信があった。捜索願を出したそうだ。

 

 私のピアノを指導する女教師は、『《ラ・カンパネルラ》を弾く意味ができた。』と伝えたら、とても喜んでいて指導にも熱が入っていた。

 私も、この難曲をコンクールまでにものにしたいと思い、力が入っていた。技術だけじゃなくて、彼のことを想いながら弾くのだと……ただ、今日は力が入りすぎている、気持ちが他所へ行っているように聴こえると、指摘を受けるばかり。

『アトデTELスル』と、ポケベルに送られた彰君からのメッセージを見て、そのことを待つばかり。

 そして夕方を迎えても彼からは連絡が来ることがなく、いつものようにピアノ教室でレッスンを受けていた。

 レッスンを終えると、先生は物思わしげな様子で話をしてきた。

「奏子ちゃん……実はね、今日、奏子ちゃんに会って話をしたいって人が来ているんだ。だから、ちょっと待っていてもらえる?」

 何を考えることもなく、ただ首を振って返事をすると、先生は部屋から出て行った。私は、何よりも彰君が気掛かりでならなかったから、連絡がくるのを待つばかり。

 万引きの時のように、悪いことに巻き込まれていないか不安に思っていると、ポケットに入れていたPHSの振動に気が付き、すぐさまに耳を当てた。

「もしもし、大丈夫、変なことに巻き込まれてない?」

「あ、奏子さん。大丈夫だよ。でも、まだ崇とは会えてないんだ……」

 無事でなによりと思いながら息を吐くと、部屋のドアノブが音をたてた。 

「あ、ごめん。ちょっと後でポケベル鳴らすから。」

 慌ててポケットにPHSを仕舞うと、先生が連れてきた男を見て青ざめた……それは私に、あの忌々しい行為をしてきた、柳さんの姿だった。

 

 幸せの真っ只中……穢れた過去が頭を過ると、私の目は暗闇を求めていた。彼の姿が目の前にあることが、悪夢でしかない。

 何故、再びこの男を目の当たりにしなければならないのか……硝子の割れる音が、頭の中で鳴り響く。

 耳元で囁く悪魔がいる。その声は『思い出せ、思い出せ。』と、繰り返しながら、薄汚い言葉を呟いている。

「ごめん、いきなり連れてきて悪かった。彼が奏子ちゃんにしたことを聞いて、謝らせたいと思っただけなんだ。」

『ほら、思い出したか。お前は、この男に抱かれたんだよ。』

「そんなのいいです。だから、私の前から消えて下さい。」

『消えないよ、ずっと。』

「奏子ちゃん、彼にも、けじめをつけさせたいんだ。話させてやってくれ。」

『思い出せ。』

「いいから、早く消えて下さい。」

『だから、消えないよ。』

「早く消えてよ!」

 悪魔は囁き続けていた。私の心が、もがけばもがくほど、ケタケタと笑う声が聞こえてくる。

 あの時の私は、ここまで考えていなかった。けれど、あの時はなくても、今、生まれた感情が一つある。

 悔しい……悔しい……悔しい……愛する人に、私の体を、穢れの無い私を捧げれないことが、悔しい……

この男に動物のような感情で私の体を汚されたことが、悔しくて、悔しくてたまらない。

 小学生の頃、教室の後ろに置いてあった飼育籠。その中を覗いた時に見たハムスターの交尾……それは愛などではなく、目の前にいる雌に対して本能の赴くままに行動する姿……あの様子が、この男と私の姿そのものなのだ。

「本当にごめんなさい。でも、あの時、奏子ちゃんの姿を見て、僕は君に惹かれたんだ。体だけが目当てだったんじゃない、この子を守りたいって思った……だから、君のことが欲しくなった……けれど冷静になった時に、僕は、とんでもないことをしてしまったと思って……そうしたら、怖くなって……それで逃げてしまったんだ。」

 柳さんは土下座をしながら、幼子のように泣きわめいている。けれど、私は彼に同情することや、許すことはなく、思うことは、この人の存在そのものが私の記憶から消えてほしいと思うだけ。

「彼から話を聞いて、君には謝らせなくてはいけないと思ったんだ。彼のしたことは謝って済むことではない。でも、きちんと謝らせなければ、君は傷ついたままになってしまうと思ったんだ。」

 先生の言葉を聞いていると、人が我が身を守ろうとする心理を知らされる。

 謝って消えるのは私の心の傷ではなく、この男の罪への意識だろう。

『苦しい、苦しい。』と、思っていた心の闇が、謝っただけで満足して、消えてしまうだけ。

 そして、時が過ぎると、私はただ、この男の経験の一人になる。男が話す、『何人と寝たことがある。』なんて、つまらぬ話題の一人に数えられる。

 その一人に数えられることが忌々しくてならない。私が大切な人と過ごす時、この世のどこかに、服を脱いだ私の姿を知る人間が生きていると思えば身の毛がよだつことであり、この男の謝罪など、割ってしまった安物の花瓶に始末をつけるようなもの。

「いいから消えてよ!」

 ピアノの鍵盤を力任せに叩き付けた。生まれて初めて鳴らした不協和音が部屋中に鳴り響くと、音は耳の中から身体に吸い込まれて、頭の中でも響いている。

「ごめん、悪かった!だから、あまり興奮しないで。」

 私の肩を掴む先生の手にすら、恐怖を覚えた。穢される。きっと今度は、この人にも私の体を穢されるんだ……そんな妄想が私の脳裏を過ぎる。

 渦を巻いている。頭の中で、ぐるぐる、ぐるぐると、砂紋の渦を巻いて、その中心に私は飲み込まれてゆく。

 そこでもがき苦しむ私の姿を、二人の男が見ている。それは硝子の目をした人形のように、冷めた目の中に私の姿を映しているだけ。

 逃げなければ飲み込まれてしまう……気が付けば私は部屋から飛び出して、がむしゃらに階段を駆け下りていた。

 外へ飛び出すと街灯の明かりがぼやけて見えた。人の行く道に分かれ道があるのなら、これも私が選んだ道なのだろうか……彼と出会うための道には、この苦行がつきものだったのか……彼の声が聞きたい。今すぐ、彼の声を聞きたい……

 そう願っていると、ポケットの中のPHSが振動しているのに気が付いた。

 神様に願いが通じたんだ!喜びの中で、ぼやけた街灯の光が、はっきりと明るく見えた。

「もしもし、さっきはごめん。」

「うん……あのさ……実はさっきの電話が切れてなくて……だから話していたこと聞いちゃって……耐えられなくなって切ったんだけど、やっぱり本当のことを訊こうと思って……」

 

 いつか太陽が地球を飲み込んでしまう日が来る……幼い頃に聞いた話に、私は身を震わせたことがある。

 そんな日がやってくることは、きっと今と同じことなのだろう……

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