第7話 ラ・カンパネルラ

  ♢

 私は父のことを尊敬しているが、地位や名誉のある人間だと思って、自分の鼻まで高くしたことはない。

 父と母は、部屋に自分たちの表彰状や盾を飾らず、私が受賞したものだけを飾っていた。

 箱に眠らせておくだけでは失礼に思える賞も受賞しているはずだが、その数を目の当たりにしたことはない。

「ねぇ、何で、お父さんと、お母さんの物は飾ってないの?」と、中学生の頃に訊いたことがある。

 すると父は、「お父さんも、お母さんも、この家で一番大切なのは、名誉ある賞よりも奏子だからだよ。」と、言ってくれた。

 私は、そんな父が大好きで、大切な人だと思っている。そして、私も結婚をすることがあるのなら、父と母のような夫婦になりたいと幼い頃に思っていた。

 しかし、今日は生まれて初めて、ただの頭が固い頑固な親父に見える。


「ねぇ、何で、あんなこと言ったの!だって、万引きをしたのは彼じゃなくて、友達なのよ。」

「つまり、そんな友達がいると言うことだろう。」

「そんな友達は、お父さんも知っている彩乃の弟よ。じゃあ私も、そんな弟がいる人と友達ってことね。」

「一体、何なんだい?そんなに向きになって。何だ、あの彼とは、つまり交際しているのか?」


『そうよ。』

 その言葉は私の心の中で留まった。隠したいとか、恥ずかしいとかではない。父に余計な心配をかけたくないだけ。

 彼のことを良く理解していない父がその言葉を聞けば、娘に変な虫が付いたと思うだけだろう。

 それは彼への心象も悪くなるし、父の不安を誘うだけ。

 最愛の人である母を亡くして、これまでの人生を捧げたピアノまで奪われた父に、せめて私のことで悩ませたくはない。

 しかし今の私には、彰君と父を天秤にかけることはできないし、父の言いつけだとしても、今後、彼と会わないという選択肢はなかった。

 

 彼から告白を受けた時は、正直、ただ驚いただけだった。何で私なのだろう……と。

 毎日の暇つぶしなら、私では退屈すぎるはず。

 体だけが目当てなら、選択肢にも当てはまらないだろう。

 自分の品質くらい鑑定できるから、彼は自分でも気づかない私を知っているのか、ただの変わり者なのか……

 彼がどう思っているのかは別にして、私は私で、彼の人間性に惹かれていた。それは私に足りない感性や、初めて気づかされた感情を持っていることだ。

 あの日の朝、彼は私が見たことのない世界を見せてくれた。

 考えれば私の生きる世界なんて、ピアノと楽譜があれば事足りるもの。

 ピアノを弾く時、楽譜を見れば、そこに記された音符や記号通りに弾くことで、作曲者の考えや曲にある背景を表現できても、作曲者の見た空の色、風の冷たさ、人の表情は、私が思い描くしかない。

 曲は作曲者の人生を描いたものだから、それを思い描けない人は表現することができない。私はピアノ弾きにとって最も大切なことを彼から教わった。

 まだ月が浮かんで見える、朝焼けの空。

 夜の名残りがある、風の冷たさ。

 私を笑顔にさせる為の懸命な行動や、それでも無愛想な私の表情にも、にこやかに応える彼の笑顔。

 音楽とは、そんなことの一つ、一つが音になり、その組み合わせが曲になる。

 音が五線の中で納まらないのは、人の感情を表現するのに定められた範囲では収まらないことを表しているからだろう。

 そのことに気づかされた時、彼との出会いは私にとって、掛け替えのないものだと思わされた。

 だから、いくら父の言いつけであろうと、この出会いを無にすることはできなかった。

「来月にはコンクールの予選も控えていのだから、それに集中しなさい。」

「嫌だ!会うなって言うなら、私、ピアノも辞めるから。」

 親と喧嘩をすることなど、私と同い年くらいなら誰にでもあることなのだろう。けれど、私には、『正しい親への反抗の仕方』など、分からなかった。

 そして、人を好きになるには、それまでの支度が必要なのか……私には、彼と駆け引きにするようなものがピアノしか無かった。

 

 一夜明けて、朝の通学電車で彰君を見かけなかった。

 本当に、もう会わないつもりなのだろうか……良からぬ不安だけが、頭に中を駆け巡る。

 あの日の朝、原宿から学校へ向かう電車の中で、私は彼からの告白に返事をしたはずだった。

 しかし彼は、私が勇気を振り絞って話したことに、気が付いていない様子。

 それはそうだ。普通ならば、『好きです。』『私も。』で済むようなやり取りを、あんな風に応えた私の間違い。だから、二人の関係は始まっていないのだろう。

 しかし、私にとっては、彼氏、彼女という、相関図のような繋がりは関係なく、彼と出会ってからの一か月ほどが、忘れられない時間になっている。


 教室では彩乃がいつも通り、涼し気な笑顔を見せていた。

「おはよう。」

 挨拶を山彦のように返すが、何所か刺々しさはあったのだろう。彩乃は顔を顰めて私を見ている。

「何?なにか、あったの?」

「別に……あ、昨日、崇君どうしてた?」

「崇?夜は普通に家にいたけど……それが、どうかした?」

「ああ、そう……どうかしてるのは、素行の悪い弟の方じゃない?」

「まぁ!それ、どういう意味!」

 彩乃に限らず、友達に対して、こんな態度をとったのも初めてだった。そう、どちらかと言えば、私は人に無関心なはず。良しも悪しも、人は人で、他人の行いに関心は無かった。

 例え私の悪口を言う人がいても、それには幼い頃から慣れていたし、家族以外の人が言うことなど心に響かない。

 ピアノだって、この教室の皆と争う気もなく、敵視したこともない。

 コンクールのような賞レースは嫌いだが、父が出ろと言うから、決められごととして参加するだけ。

 人と争っても、ろくなことがない。現に、コンクール前になると、『キョウ、アナタノイエニ、ヒヲツケル』など、ワープロ文字の手紙が家のポストに入っていたり、刃をむき出したカッターナイフを、私の机の中に入れたりするのは彩乃だと気が付いている。

 誰しも自分が大切で、それを守る方法は人によって違うことも分かるから、彩乃のすることを責めたりはしない。けれど、彼に関することだけは別だ。

 彰君に起こる災難が自分のことに思えてしまうから、万引きの件も腹正しくてならない。

 彼が必死で友達を庇おうとしている最中、彩乃の馬鹿な弟は、欲しいCDを手に入れたことに浮かれて、夜には何もなかったように家族で夕飯を食べていたと思うと、姉のことまで憎らしく思える。

「ごめん、ごめん、何でもないから。ところで、昨日の夕飯何だった?」

「夕飯?どうして?」

「いや、何でもない。『すき焼き』でも食べてたらね、家に火をつけに行こうかと思ったの。」

 そう言い放つと、彩乃は魔法で蝋人形にされたように、ピタリと瞬きが止まっていた。


《ラ・カンパネルラ》

 私がコンクールで臨もうとしている曲は、《パガニーニによる超絶技巧練習曲第三番『ラ・カンパネルラ』》

『カンパネルラ』とは、イタリア語で、小さな鐘と言う意味。

 学園祭での演奏が終わると、私は十二月に行われるコンクールで弾く曲を決めかねていた。

『上野の森国際ピアノコンクール』は、私の高校と付属する大学の後援でもあり、高校生部門には、校内からも多くの生徒が出場を希望するから、まずは校内選考に受からなくてはならない。

 その選考会が来月に控えている。学校側も当大学が後援していることもあり、生徒達の中から優勝者を出したいと気を張っている。

 ショパン、リスト、クラマービューロー、モシュコフスキーの練習曲より、十五分以内の自由曲を一曲決めて演奏する。

 そのコンクールに私は、曲が決められなければ学園祭で弾いた《英雄ポロネーズ》を弾けばよいか……と、安易な考えを持っていた。

 けれど、私の心境は彰君との出会いで大きく変化した。頭の中で《ラ・カンパネルラ》の曲が鳴り響いた時、これを弾こうと思った。

 講師の先生は、この曲を弾くと言った時、『コンクールで弾けば、我が校の生徒が注目されることは間違いない。』と賛成してくれたが、技術が追いつくのかと不安そうな表情も見せていた。

 けれど今の私には、彼を無くしてこの曲を弾くことができない……このまま彼と会えなくなれば、コンクールで弾くどころか、耳にするのも気苦しい曲になってしまうだろう。

 自由曲を変えたいと伝えた時、先生は私の言うことに戸惑いを見せていた。

 恋愛経験の無い私でも、『恋は盲目』と言う言葉くらい知っているが、だからと言って、その理由を率直に伝えることはせず、「技術よりも、今は、この曲に感情がついていかないんです。」と伝えたら、先生は目を丸くして驚いた後、笑い茸でも食べたような笑みを見せていた。

「あなた成長したじゃない。今まで、どこか曲に無関心な所も見えていたけど、感情がついていかないか……ハハ……なるほど、なるほど。」

 先生は、窓から見える外の風景を、ぼんやり眺めた後、「ラ・カンパネルラか……」と、独り言を呟いていた。

「あなたは、鐘を自分で鳴らすものだと思う?」

「え?」

 その質問は今まで考えたこともないことで、頭の中では疑問符だけを浮かべていると、先生は私の表情を伺おうともせず、窓の外に目を向けたまま、「鐘って、きっと、何かを知らせるものなのよ。」と言う。

「この街では、夕方の五時になると、『夕焼けチャイム』が鳴り響くでしょ。鐘とはちょっと違うけれど、あれも、この街の『ラ・カンパネルラ』よ。きっと鐘って、その時が来たのを知らせてくれるものなのよ。だからあなたも、その鐘がもう一度聴こえるまで、悩んで、迷って、それでも聴こえなかったら、もう一度、話をしましょう。」

 四十過ぎた女性教師の横顔は、どこか経験豊富な女の表情にも見える。それは、私の心の中を見透かしているように見えた。


 その日の晩、私は家で、ひたすらに《ラ・カンパネルラ》を弾き続けた。

 しかし、私の出した答えは、先生の言っていたことに相反する答えだ。鐘が鳴るのを待つのではない。彼が鳴らした鐘を、止ますことなく鳴らし続けるのだ……と。

 ピアノ室のドアをノックする音が聞こえ、私が手を止めると、「入っていいかい?」と、父の声が聞こえた。

 父はドアを開けると、私の顔を見て小さな笑みを見せた。

 昨日の言い争いの続きでもするのかと思っていると、「決めたのか、コンクールの曲。」と、訊いて来る。

 私は、まだ昨日の蟠りが残っているから、頷くだけの返事をした。

すると父は、「《ラ・カンパネルラ》か……少し、奏子には早くないかい?」と、続けて訊いてきた。


「弾けるよ……彼のためなら……」


「……そうかい、じゃあ頑張って。」

 父の言葉に空いた間には、親の思いと優しさが感じられた。部屋から出ていく後ろ姿は、私が誇りに思う父の背中だった。


 心の中の霧が少し晴れた気持ちになった私は、彰君のPHSに電話を掛けた。今までは受け身だった私も、今度は自分が切り開かなければ、この関係に終わりを告げることになってしまう。

 考えてみれば、ここまで自分の意思で動くことは初めてだ。

 野良猫の死体を見たことがある。それは家の前で、疲れ切って寝てしまったような姿だった。

 その野良猫は、いつも家の前をウロウロしていた。まだ小さな虎柄の野良猫。

 その仕草は愛くるしく、通学前の私に寄って来るが、癖になってはいけないと思って餌を与えたりはしなかった。

「ごめんね……」

 小さな猫を追い払うまねもできず、いつも撫でて謝るだけ。

 その愛くるしさを受け止めずにいると、ある日、その猫は家の前で横たわっていた。

 寝ているだけと思って触ってみると、固くなった体の感触に驚いて悲鳴を上げた。

 驚いて家の中から出てきた父は、「あぁ、いつもの猫、かわいそうに……最後に、奏子に会いたかったのかな。」と、呟いた。

 そんな訳がない。猫は誰にも分からないように、ひっそり死ぬと聞いたことがある。きっとこの猫は、いつか私が餌をくれる日が来ると信じていたんだ。そして、そのまま力尽きた……

 彼を野良猫に例えたら、どんな顔をするだろうか……けれど、今の私がしていることは、その時の猫にしたことと同じ仕打ちだ。

 受話器から、呼び出し音が聴こえると、すぐに彰君の声に変った。

「もしもし、昨日はごめんね……」

「いや、謝るのは僕の方ですよ、変なことに巻き込んじゃって……」

 彰君の声が、いつもより弱弱しく聞こえた。きっと、父が言ったことを気にしてるのだろう。

『お父さんの言ったことは、気にしないで。私は彰君が好きだから。』

 そんな、恋愛ドラマのようなセリフを、私には、とても言えない。けれど、思いを伝えずに彼との関係が途絶えてしまえば、私はきっと、いつまでと期日の無い後悔をするだろう。

「あの……昨日、話してたことなんですけど……」

 彰君の声を聞いて、私の頭の中は感情が暴れ出したように慌てめいた。

 どうしよう!これで別れを告げられたら、必ず私は、「そう……」と、心にもないことを言うに決まっている。そんな自分の性格が、他人のことを見ているように分かる。

 これ以上、彼に話を続けさせてはだめだ……気持ちを伝えるなら、彼のペースに巻き込まれると、私は切り返す術が無いにきまっている。

「もう一度だけ、言うからね……モーツァルトの妻は、コンスタンツェ・モーツァルト。ショパンの彼女は、ジョルジュ・サンド。マリア・シマノフスカの夫は、ユゼフ・シマノフスキ。みんな、そうやって音楽史に名前が残るの……あなたは大丈夫?」

 彼の話に水を差してしまったのか、受話器から声が聞こえなくなった。結局、私には、このような言い方しかできないのを、この沈黙の間で後悔している。


「……フランツ・リストの妻は、カロリーネ。クララ・シューマンの夫は、ロベルト・シューマン。そして……相原奏子には、僕にしてほしい。」

……頭の中が一瞬で真っ白になった。それが、ぼんやりとした様子で空の色に変わると、耳の奥では鐘が鳴り響いてる。その高らかな音色が青空に鳴り響いている様子が思い浮かぶ。

『あ、時の知らせだ……』先生の言っていた言葉を思い出して、頬の力が抜けて行く。そんな緩んだ口からも、素直な言葉が出ないのが私の悪い所。

「何、それ……そんな人の名前、よく知ってるわね。」

「いつも奏子さんの言うことは、遠まわしすぎるんだ。分からないよ。だから、正直に言うと調べたんだ。奏子さんに僕の気持ちを分かってもらうには、僕が奏子さんの言うことを分からなくちゃいけないと思って。」

 今の私を鏡に映せば、自分でも見たことが無いほど、にやけた顔をしているはず。そんなだらしない顔を見たら驚いて夢から覚めてしまう。

「他に知っている人はいるの?」

「知ってるよ。ブラムース、ドビュッシー、ラフマニノフ……でもね、奏子さんに僕の気持ちを伝えたいと思った時、僕は見つけた言葉があるんだ。」

「何?」二人の話に、また、少しの間が空いた。その時間の流れは走りすぎて行く様子ではなく、穏やかな川の流れのように揺れて見える気がしている。

「僕はね、奏子さんのことを考えるだけで、胸が高鳴るんだ。そう、音楽で例えるなら、『五線』が僕の気持ちだとすると、そこで鳴っている音じゃない。そう思った時に、知った言葉があった。」

 もしも父と一緒に、このテレビドラマを見ていたら、私は恥ずかしくなって、その場から逃げてしまうだろう……彼は、そんな言葉を恥じることなく、すらすらと述べている。


「『オクターヴ』上げた音が、いつも鳴っているんだ。色々と調べていた時に、その言葉を見てピンときたよ。ああ……僕の気持ちって音楽の言葉にすると、これになるんだ……って。だから約束する。僕の心の中では、ずっと奏子さんのことを想い続けて、この音を聴き続けるよ。」

 小さな鐘と呼ぶには、事足りぬ喜びだった。しかし、大きな鐘を思い浮かべれば、暮れに一〇八つ鳴らすような鐘しか思い浮かばないから、私の想像力には呆れてしまう。

「どうしたの?でも、そうだよね。お父さん怒ってたから……こんなこと言われても、迷惑だよね……」

「迷惑?そう思うなら、初めから、そんなこと言わないでよ!今更、全部無しにされる方が、よっぽど迷惑よ。」

 きっと私は彼のように、自分の気持ちを素直に言うことはできないだろう。

 それでも私の心の中では、彼と同じ音が鳴り続けている。それだけは止まさないと心に誓った。

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