第6話 レイニー・デイズ・アンド・マンデーズ
※
天にも昇る気持ちとは、このことだ。学校へ着いた僕は、今朝、奏子さんと過ごした時間で、今日の一日を終えた気分だった。
「おい、彰、おい、起きろよ。」
奏子さんと手を繋ぎながら、草原のような場所を歩いていた。
タンポポ畑だろうか、足元には沢山の黄色い花が咲いていて、奏子さんは、その花を見ながら嬉しそうに笑っていた。
僕は少し疲れて緑の上に寝そべると、そのまま寝てしまったようだ。
奏子さんは、かまってほしいのか、「ねぇ、彰君、起きてよ、ねぇ。」と、僕の体を揺さぶってくる。
ねえ、彰君、起きてよ……ねぇ……おい、彰、起きろよ……
瞼を開くと、寝ぼけているのか、奏子さんの顔が崇そっくりに見えた。
「あれ、奏子さん……」
「カナコさんじゃねぇよ、もうホームルーム終わっちゃったぞ。」
徐々に意識が戻ると、呆れた様子で僕を見ている崇の顔が、はっきりと見えてきた。僕は教室で寝てしまい、更に夢の中でも寝ていた……
「あっ、ごめん、ごめん。えっと……一時間目なんだっけ?」
「一時間目じゃあねぇよ。もう、帰りの時間だよ。お前、学校来てソッコー寝ちまったじゃねぇかよ。」
それには自分でもびっくりした。考えてみれば、こんなに早起きしたのは中学校の時にバスケ部の朝練に出ていた以来だ。
そして僕は、学校に着くが早々、朝のホームルームから帰りのホームルームまで寝てしまっていたようだ。
「起こしても起きないから、横田、すげー怒ってたぞ……有田なんて、起こすと面倒だから寝かしとけなんて、嫌味いってたし……」
あの騒動を起こしてから、登校してきたと思えば授業中に寝ているだけなのは、僕が教師でも怒るのが当たり前だと思った。
職員室を訪ねると、今日一日の態度を横田先生に謝った。昨日の対応とは裏腹に、今日は他の先生達が驚いてしまうほど、大声で怒られた。そして、そのままの流れで有田や、今日の授業で教室を訪れた先生達にも謝るように言われた。
有田には、先日の件も含めて謝罪すると、「一丁前のことばかり言って、やっていることは半人前なんだよ。」と言われた。
物の言い方は癇に障ったが、今日の僕には返す言葉もない。
横田先生が人前であんな怒り方をしていたのは、僕が他の先生に怒られない為の計らいだと思えば、その好意を裏切る真似もできない。
それに、今日の僕は幸せの絶頂にいるから、怒られることを苦に思わなかった。
朝の電車、奏子さんとは、原宿から上野まで、色々なことを話した。
僕がよく聴く音楽や、奏子さんが好きな曲。
僕が好きな食べ物や、奏子さんが本当に好きな食べ物。
僕が、将来の夢や、なりたいものが分からないと応えると、奏子さんは、「肖像画になりたい」と、変わったことを言っていた。
「音楽室の肖像画って、十年前も、二十年前も、十年後も、二十年後も、きっと変わらないでしょ?ベートーヴェン、モーツァルト、ショパン……それじゃぁ、つまらないから、私も彼等のように作曲して、三十年後くらいには音楽室に飾られたいの。」
彼女が当たり前に話す壮大な夢には呆気にとられたが、よく考えれば、あそこに飾られている人物は、とっくに亡くなった人だから、「奏子さんの三十年後は、四八歳だよ?まだ生きているから無理でしょ。」と話せば、「どうだろう?」と応えてクスクス笑っていた。
「でも、百年後には本当になっているかもしれないね。奏子さんって、もう名前から音楽家だもんね。」
奏子さんは、その話を聞いて、「それは、そうだよ。私の名前が『奏子』だから、ピアノを始めたんじゃなくて、両親がピアノを弾かせるために『奏子』って付けたんだから。他に選択肢なんて無いの。」と、言っていた。
将来の夢が無い僕からすれば、生まれた時から、やるべきことが定まっているのは羨ましい気もするが、その立場になれば、それはそれで悩みや不満もあるのだろう。
「モーツァルトの妻は、コンスタンツェ・モーツァルト。ショパンの彼女は、ジョルジュ・サンド。マリア・シマノフスカの夫は、ユゼフ・シマノフスキ。みんな、そうやって音楽史に名前が残るの……あなたは大丈夫?」
上野駅に着くと奏子さんは、その言葉を言い残してプラットホームに姿を消したが、カタカナの名前ばかり言われても僕には理解できず、また、いつもの偏屈をいっているだけだと思った。
とにかく今朝は、僕の人生で一番素晴らしい時を過ごしたと言えるほどだった。
電車の中で化粧をする女性たち、疲れた様子のサラリーマン、買い物袋を重そうにして持っている小母さん。杖をつきながら、ゆっくりと歩いているお爺さん。
すれ違う人々を見て、この人たちにも、今の僕のような素晴らしい時があったのかと思ってみた。
大切な人、愛おしいと思う人、守りたいと思う人、幸せにしたいと思う人。
そんな人のことを考えると、皆が胸を締め付けられるような気持ちになるのだろうか。
奏子さん風に言えば、僕の気持ちはピアノの高い音をピンピンと高鳴らしていた。
相原奏子という人間を知るたびに、僕は彼女に引き込まれていた。これが相手のことを知り、『待つ』ということなのだろうか。
奏子さんに僕のことを、どれだけ知ってもらえたのだろうか。そして、僕は奏子さんのことを、どのくらい知っているのだろうか。
できることなら、一日中会って話していたかった。彼女のいない時間が、僕にとって幕の下りた舞台のようであった。
夜になると、いつもの公衆電話から奏子さんの自宅に電話をした。季節の変わり目は僕の知らぬ間の出来事で、一本道を吹き抜ける風が冷たい。
ポケベルにメッセージを入れてから、家の番号をプッシュした。
奏子さんは僕を揶揄うことがあるから、わざと親を出させたりしないかと、不安を抱きながら呼び出し音を聞いている。
五回コールを鳴らすと、『はい、相原です。』と、奏子さんの声が聞こえた。
僕が、「あ、高山ですけど」と言うと、奏子さんは含み笑いをしながら、『どちらの高山さんですか?』と聞いてきた。
「彰です。名前が彰の、高山です。」
また、僕を揶揄って笑っている。少し性格悪いのかな、なんて思ったりしたが、今は、どんなことでも奏子さんが笑ってくれれば、それでよかった。
今晩は、お父さんの友人が来てピアノを使っているから、ピアノは弾けないらしい。初めは奏子さんと話す口実だったが、今では残念に思う自分がいる。
自分でも少しは聴くようになったが、正直CDショップに行っても、どれを買えばよいのか分からないと言ったら、奏子さんから、「選んであけようか?」と、今までにないケースの言葉が返ってきた。
「え?本当に、なんか、急にやさしくされると気持ち悪いなぁ。」
「気持ち悪い?あなた、話すときに、言葉選んでから話してる?国語の成績、悪いでしょ?」
腹が立ったことは相当根に持つタイプなんだ……頑固で、プライドが高くて、意地が悪い。
良い所と率直に思い付くのは、ピアノが上手いことくらい。それでも、その人をたまらなく好きになってしまうのだから、不思議なのは自分なのか、人間なのかと、妙に哲学的なことを考えてしまう。
「残念、僕、国語の成績だけは、いいんですよ。偏差値七〇はありますからね。」
「へぇ、今日、そちらは四月一日ですか?」
良い所を見つけた。嫌味を面白く言うのが上手いところだ。……
月曜日の放課後、蒲田まで来ると言っている。何でも、ほしいCDがあるけれど、周りの店では売っていないから、こちらまで来て探すと言っている。これもまた今までにないケースだ。その日の朝は、いつもと同じ時刻の電車に乗るから、その時に待ち合わせ場所を決めることにして電話を切った。
月曜日が来るのが待ち遠しくてしかたがなかった。
《レイニー・デイズ・アンド・マンデーズ》の歌は、僕には無縁になりそうだ。
夜が明けて、日曜日の休日を過ごす時間が、これほどに長く、時を速めたいと思ったのは生まれて初めてだ。
日が沈むと、この夜空は部屋の明かりを点灯するように、スイッチを押すだけで明るくならないものかと比喩的なことを思ったりした。
月曜日の朝が来て、いつもと同じ電車で奏子さんに会って、放課後、一六時にJR蒲田駅の西口改札で、待ち合わせることにした。
待ち合わせ時刻の五分前に奏子さんはやってきた。この辺りでは見かけない制服姿だから、改札から出てくるのが直ぐに分かった。
顔を見ると、気のせいだろうか……朝よりも唇に艶があるように見えた。
駅ビルの中にあるCDショップに案内すると、クラシックコーナーでCDを選んだ。奏子さんはパッケージを手に取りながら、作曲家の生い立ち、その曲にある背景まで熱心に説明してくれている。
この棚のCDを全部説明していたら一晩中かかりそうなほどだが、それならそれで良い気もしていた。
「ところで、奏子さんの探していたCDはあったの?」と訊ねたら、自分のことは、「無い。」の一言で、またCDの話をしている。
ブラムースの話が長すぎて僕の気が散漫になっていた時、棚の向こう側に崇の姿を見つけた。
「あれ、おい、崇。」
急に声を掛けたからか、崇は背筋を伸ばして驚いている。
「おぉ、あれ、何でカナコさんが、こんなところにいるの?もしかして、二人……あぁ、そういうこと……」
崇が茶化すと、奏子さんは目を丸くして、「違うから!ちょっと、彩乃に変なこと言わないでよ!」と、僕が虚しくなるほど大きな声で弁明していた。
「シーッ、シーッ、声大きいから。じゃぁ、お邪魔しちゃ、いけないんで。」
いつもの崇なら面白がって絡んでくる状況だが、今は何か慌てている様子だ。
崇がいなくなると奏子さんは、その場の空気を誤魔化すように、「あ、これもいいかも。」と言いながらCDを手に取り、再び解説を始めた。
その時だ、店頭の方から「待ちなさい!」と、大声が聞こえたと思えば、走って逃げていく崇の姿が見えた。
「ちょっと、奏子さん!あれ、崇!」
血相を変えて逃げる崇の姿が、目に焼き付いた。僕は頭が混乱して、何故あいつは逃げているのかを考える余裕もなく店頭へ向かって走ると、もう一人の店員が僕を塞き止めた。
「ちょっと君、今の彼と一緒にいたでしょ。」
全くもって状況を把握できなかった。振り返れば、唖然とした様子で奏子さんが立っているのが見える。
「だめだ、逃げられた……」
崇を追いかけていた店員が、息を切らしながら戻ってくると、浅ましく思う表情で僕を見ている。
「お前も、あいつの仲間か?ちょっと来なさい。」
理由も分からずに腕を掴まれることには、僕も反抗的な態度に出た。崇が何をしたのか知らないが、そのことよりも店員の一方的に物申す態度が腹立たしく思える。
「何するんだよ!離せよ!」
「お前も、何か盗んでるんじゃないか?大人しく来なさい!」
小学生くらいの男の子三人組が、僕と店員のやり取りを立ち止まって見ていた。目が合うと慌てて逸らした態度から、僕のことを犯罪者として見ているのが分かる。その仕草から、自分は今、この子供から低劣な人間に見られていると思うと、怒りすら鎮める嫌悪感に苛まされた。
「あっちに行きなさい。悪いことしたのは、このお兄ちゃんじゃないんだから。」
奏子さんは子供たちにそう言って、その場から離れさせると、自分の鞄を広げて店員に中身を見せつけた。
「私の物なら、いくらでもどうぞ。ポケットの中も調べてくれて結構です。彼もきっと、同じことですけど。」
奏子さんが堂々とした態度で店員に物申すと、僕等の背後から、店員と同じエプロンを身に着けている若い女性が話に割り込んできた。
「あの、店長、この二人、多分本当に、何も盗んでないですよ。私、この二人がCD選んでる時、近くの棚で見てましたから。」
女性の店員から話を聞くと、その店長と呼ばれている男は気まずそうな顔もするが、僕等への誤解を謝ろうともせず、「でも、逃げた奴と知り合いなのは確かだろ、とにかく事務室まで来なさい。」と言うだけだった。
話の流れから、崇はCDを万引きして逃げたことは分かった。何故ゆえに、そんなことをしているのか分からないが、僕が騒げば学校に連絡されて崇が捕まるのは、友達としてあるまじき行為だと思った。
奏子さんは関係ないから帰してくれと頼んだが、店の店長は念のためだと言って聞かない。奏子さんも反発することもなく、毅然とした態度でいた。
そんな態度でいるものだから、騒ぎ立てたり、友達を守らずに関係ないと言ったりするのは、男らしさに欠けると思わされた。
だからと言って万引きをした崇を庇うような術もなく、店長からの質問に、『知らない』『分からない』と、言うだけのこと。
「知らない、知らないって、そんなわけないでしょ。じゃぁ君は、知らない奴と話してたのかい?嘘つくんじゃないよ。」
「知らないです。じゃぁ、僕が知らない奴に頼んで万引きさせたんです。これでいいでしょ?」
開き直る僕の態度には、店員も腹が立っている様子だ。
「じゃぁ、って何だい!そんなこと言うなら、二人とも家に連絡するからね!」
「彼女は関係ないでしょ!それなら、僕だけにして下さいよ。」
普通の女の子なら、泣き出したり、巻き込まれていることに怒り出したりするはずだろう。だが奏子さんは少しも変わらぬ表情のまま、弁明もなければ、現状に関心もない様子に見えたが、彼女の言うことには驚かされた。
「私は、いいですよ。彼がやったと言うのなら、私もやったのでしょう。だから、どうぞ。家に連絡して下さい。」
店長は、奏子さんの差し出す生徒手帳を、引くに引けない様子で受け取り、その場を離れた。
「奏子さん、何であんなこと言うの!」
予想のつかぬ展開に驚いたのは僕だ。僕が、友達と奏子さんを守る。これが男らしさと思っていたのに、これでは立場どころか、性別まで逆に思えてしまう。
「だって、彼が必死になって、友達を守ろうとしているのよ。それを彼女が、見知らぬふりをするものなの?」
「は?」
頭の中が渦に巻かれていた。これがビデオテープなら、一度巻き戻している所だ。
頭の中を今一度、整理した。僕は今、友達の万引きに巻きこまれて、店の事務室で取り調べられている。隣にいるのは僕が片思いをしている女性だ。しかし、いつの間にか、その女性が彼女になっていた……しかも、こんな状況で。
僕は理解に苦しんだ。本来であれば、頭の中に花畑を思い浮かべるような出来事なのに、無表情の奏子さんが、『何よ、私、当たり前のこと言っているだけじゃない』と、言っているように思える。
「あの……いや、変な意味じゃないですよ。僕等って、いつから付き合ってます?」
僕が問い掛けると、奏子さんは急に真っ赤な顔をして、「まぁ!あなたから、言ってきたことでしょ!だから、それに返事をしたじゃない!」と、大声で言っている。
一時間ほど奏子さんと沈黙の時が流れた。今の空気を作ったのが、僕の失敗に間違いはなさそうだ。
僕達の交際は、いつが始まりなのだろうか……崇が万引きしたことなんて、すっかりと、どうでもよくなっていた。
そんな気持ちを更に一変させるように、奏子さんのお父さんが迎えにやって来た。
細身の体はすらりと高く、白髪交じりの髪はきっちりと整えられ、淵の太い横長の眼鏡が物堅そうな性格に見せている。
僕には初めてお目にかかる人だが、事務室のドアの向こう側からは、先程の女性店員の声で、「ほら、店長、このCD見て下さい!やっぱり、ピアニストの相原省吾ですよ!大変だぁ!」と、言う声が聞こえる。
店の店長は、先程までの態度とは裏腹に、奏子さんの父親に対して物腰低く、「あの、やったのは娘さんではなく、彼の方ですから……あの、一応来てもらっただけで、決して間違えて捕まえたとかじゃあないんで……」と、纏まりのない話し方をしている。
奏子さんのお父さんは、そんな店長にも深々と頭を下げて、「どちらにしても、お忙しい時間に、ご迷惑をおかけしました。」と言って、娘が濡れ衣を着せられていたことに腹を立てる様子もない。
奏子さんは、お父さんと目が合っても表情一つ変えることなく、やはり毅然とした態度は変わらぬままだ。
「お父さん、彼は何も盗んでないの、本当よ。だから一緒に連れて帰ってあげて。」
お父さんは、娘の言葉に小さく頷くと、店長に「彼も、一緒に連れて帰ってよろしいですか。」と、低姿勢に訊ねていた。
「どうぞ、どうぞ。こちらこそ、態々いらっしゃって頂いて。」
奏子さんのお父さんが、どんな人なのか知らないが、一八〇度態度を変えた店長の姿は、見ていて腹正しかった。だが僕は、その名高い存在に助けられた。
店から出ると、僕は、お父さんに深々と頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました。」
最悪な初対面だと思った。奏子さんが彼女だという実感も無いのに、父親と対面することになり、それがこの状況では、どんな好青年でも切り返しに悩むはず。
「君が何もしていないことは事実だろうけど、娘を変なことに巻き込んだのも事実だからね。今後は会わないでほしい。」
「お父さん、だから、彼は何も関係ないの!」
奏子さんとの始まりは不確かなまま、終わりだけを確かにした。
『関係ない』と訴えかける奏子さんの言葉が、二人の関係も無いものに聞こえた。
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