第5話 オンリー・イエスタディ
※
またもやこのケースで通話が途切れた。財布の中に残されていた百円玉と十円玉を使って掛けた電話は、また中途半端に途切れてしまった。
これでもう、奏子さんと連絡を取る術は無くなってしまった。
奏子さんは電話が切れる時に、何と言っていたのだろう……それは、あなたと何か次第とか言っているのが聞こえたが、僕と何次第で、彼女は振り向いてくれるのだろうか?
本来の要件は昨日の電話で言ったことを謝り、奏子さんに諦めをつけようと思っていた。
僕の悪い所だろう、幼い頃から出来ないことはしない。手に入らないものは諦める習慣は抜けていない。
野球も、習字も、算盤も、始めは夢中になっても、自分の限界を知ると止めてしまった。
英語の勉強なんて、中学一年生の時、教科書を開いた瞬間に学ぶ気が失せた。それが義務教育の一環だとしても、自分に無理なことを学ぼうとは思えなかった。
高校に入り、崇に誘われた軽音楽部も、ギターコードを指で押さえることができずに一日で退部した。
物事の諦めも早いが、欲しいと思った物をしつこく強請ることも無かったので、祖母は面倒が見やすかっただろう。
奏子さんのこともそうだ。別に彼女への気持ちが冷めたわけじゃない。雨の中、拾った傘を差して身を守りながら、行くあてもなく歩いていれば冷静にもなるだけだ。
彼女に出会い、虜になるという気持ちを知った。
ある意味、初めてのことだ。自分の手には届かぬ可能性のもの……それは一人の女性であるが、どうしても自分の手の内に入れたいと思うことが、自分自身の発見でもあった。こういう感情があったんだなと。
けれど、待てと言うことは、僕にとって諦めろと言っているのに同等なことだ。
例えるなら、このようなこと。目の前には物凄く欲しい帽子があるけれど、それを買うには、お金が足りない。そんな時にショップの店員が僕に言う。
「慌てて買っても似合うか分からないから、よく考えて、お金が貯まったら来なさい。」
そんなことを言って、その店員は、僕が買いに来るまで帽子を売らずに取り置きしているだろうか……
奏子さんだって同じことだ。女というのは男がぼやぼやとしていたら、あっという間に他人の女になってしまうものだ。
高校に入ったばかりの頃だ。合コンの時、可愛いと思った女の子がいた。僕は、そういう場所が初めてだったから緊張して話し掛けられずにいると、場馴れした様子の崇が積極的にその子に声を掛けて、あっという間に付き合った。しかし、別れたのもあっという間だった。
その時に、「僕が付き合っていれば、もっと長く続いたのに……」なんてことも思っていた。
麻衣子の時も、崇が、「おっ、あの子可愛いじゃん。」なんて言った時に、僕は相手の性格などはどうでもいいから、今度は崇に取られまいと焦りだしただけだった。
奏子さんは、どうだろう。第一に、『待つ』とは何なのかが分からない。
ただ、奏子さんからの返事がくるまで、日々待ち続ければよいのか。それとも、僕が何か動くべきことなのか。
後者の話だとすれば、今の僕にできることなど何もなかった。学校も辞めようとしていて、家にも帰らず、昨日、今日と入っていた居酒屋のアルバイトにも行く気にならず欠勤の電話をしたら、怒り出した店長から、『もう来なくていい』と言われてしまった。
本当に何もない。奏子さんのことどころか、自分のことすら分かっていないのに、付き合えるわけがない。これは冷静な判断だ。
けれど彼女を諦めることのできない気持ちが、その判断を狂わせるウイルスのように潜伏している。
今が良ければよいなんて考え方で過ごしてきたが、今が無ければ僕は未来に何をするのだろう……
昼間は公園のベンチに座りながら、ずっと考えていた。何をして僕は生きてゆけるのか……
道行く人々を眺め、車道を走る車や身なりを見て、その人々に勝手な甲乙をつけていたが、知恵や体力の無い僕が勝っている物など何一つ思いつかなかった。
結局、自分の信念が無く、人の目ばかりを気にしていた僕は、その考えすら捨ててしまえば、中身は空の人間だと思い知らされた。
ただ金の為だけにアルバイトをして、その金で洋服や帽子などを買って、何もない自分を着せ替えていたのだ。
電話を掛けたところで、謝る以外の何もなかったはずだった。けれど、今のことで、また奏子さんのことが頭の中を駆け巡る。
あのピアノを弾いて、僕に言いたかったことは何なのか……ベートーヴェンが何とかと言っていたが、僕には何のことだかさっぱりで、思い出すのは音楽室にあった、あの睨まれているような肖像画だけ。
奏子さんの世界観を僕には理解できず、ただ解釈の仕方を考えていた。
つまりは、僕のことを心配しているのだろうか……それは、奏子さんも、僕のことを想っていると捉えてよいのだろうか。
雨脚が鎮まる気配はなく、濡れた左肩から体温が抜けていくようである。向かい来る車のヘッドライトはいつもより眩しく見えて、僕はその光から身を退けた。
あの車の中で僕を照らした人には、どんな姿に見えたのだろうか……このまま僕をひき殺した時、僕は数日すれば無かったことになるような人間で、あの車を運転する人の人生が狂えば、世の中も狂ってしまうような人間かもしれない……そう考えると、今の自分が虚しくも、情けなくも思えてしまう。
もう、自分を生かす材料など尽きてしまっていた。他人と比較しても、自分を肯定して前を向くことはできなかった。
先のことが分からなくても、自ら命を絶つ度胸も無かった。
『その命、もったいないから天国いる私のお母さんにあげてきてちょうだい。』
奏子さんの言葉が、僕の中で命の重みを知らしていた。
自分では先のことが何も切り開けないのであれば、今と向き合うほかにないと思い、諦めて家に帰ることにした。
家に着けば、いつもは用心すぎるほどの祖母が、玄関の鍵を開けたまま居間で寝ていた。
遊びふらついて一晩帰らぬことも度々あるが、夜更けに帰ると鍵がかかっていて朝方まで締め出しを食らうことがある。
この人には虫の知らせが来るのだろうか……それが祖母の包容力に思えると、目頭が重くなった。
階段を上り自分の部屋に入ると、まずPHSを充電器に立て掛けた。中途半端に切れてしまった電話に、奏子さんから連絡が無かったか気になっていたからだ。
電源が入るまで充電されると、留守番電話を確認した。数件のメッセージが入っているが、奏子さんからではない。全て担任の横田先生からだった。
「高山か?横田です。直ぐに学校に電話しなさい。」
「横田です。学校に電話しなさい。」
「横田です。外にいるのか?誰かの家にいるのか?夜中は危ないから、家に帰りなさい。」
「横田です。飯は食ってるのか?そろそろ昼飯時だから、腹が減っただろう。」
「横田です。雨に濡れてないか?風邪をひかぬように気をつけなさい。」
不意打ちとは、こういうことだと思った。予想すらしない事に驚いているのか、それとも疲れていた気持ちが安堵を覚えたからなのか、横田先生からの留守番電話を聞いて、とめどなく涙が流れた。
あの人にとっての僕は、特別な人間ではないだろう……そんなことは考えたこともないが、取り分けて人から特別な扱いをされることも、嫌われることもないのが僕だから、この先生にとっても生徒の中の一人でしかないはず……そう捉えていると、言葉の一言、一言が心に沁みていた。
朝起きると、いつも通りを装って祖母に挨拶をした。
「おはよう。」なんて、いつもは何も言わずに家を出ていくから、それすら不自然なのかもしれない。
「先生から電話があったよ。遊んでばっかりいないで、学校に行きなさい。」
少し冷めているように聞こえるが、これが祖母なりの穏便な対応なのだろう。
「おばあちゃん、ごめん。千円くれないかな。」
「何に使うの?」
「ネクタイ無くしちゃった……」
祖母は、「だらしない」と言いながら重そうに腰を上げて押し入れを開けると、財布を取りだした。
差し出された千円を受け取ると、ネクタイを無くしたと嘘を吐いた自分は、姑息な奴だと思う。
自分で捨てたんだ。人生そのものを投げやるように、学校のゴミ箱に投げ捨てた。そんな僕が捨てたものは、千円あれば取り揃えるものだった。
学校へ電話して横田先生には謝ろうと思ったが、頭を下げて見せずに謝罪ができるほど口達者ではない。だから、いつも通りに学校へ行って直接会って詫びようと思った。
今まで通りの時刻、今まで通りの電車、その電車に乗る人たちの顔ぶれも、いつも同じで、僕の見なかった一日で変わるわけではない。
一度からっぽの人間になってみると、この変わらぬ毎日を維持することが精神の安定に思える。
変わらぬ毎日の中で違う自分を探して、それを見つけた人が未来の世の中を変えるのかもしれない。
その、いつもと同じ電車が田端駅に着くと、奏子さんも変わらぬ時刻に乗ってきた。
「あ……」
奏子さんは僕の顔を見て、口をぽかんと開けている。多分、僕も同じ顔をしているのだろう。
「おはようございます。昨日はごめんなさい、電話途中で切れちゃって……」
奏子さんの返事は、「生きてたんだ。」と、言葉のキャッチボールと言うには、例えにならないほど冷ややかなものであり、投げたボールを雪玉で返してきたようなもの。
「酷いな……第一、死ぬなんて言ってないし。」
「言ったじゃない。」
「言ってませんよ、みんなが勝手に言うから、そうしたいくらいだって言ったんでしょ。奏子さん、国語の成績あんまり良くないんじゃない。」
「まぁ!」
怒っている奏子さんの顔を見て、僕は思わず笑ってしまった。笑ったことも数日ぶりだ。
奏子さんは言い返してくることもなく、ただ不貞腐れた表情をしていた。心配を掛けていたのは僕なのだから、他所から見ても横柄な態度なのは僕だろう。
「ごめんなさい、心配してくれたのに。学校には行きますから。まぁ、行って退学になるかもしれないけど……あと、ピアノ弾いてくれて嬉しかったです。」
どうやら完全に機嫌を損ねたらしく、奏子さんは返事もせずに窓の外をじっと見ているだけの態度。
「怒ってるんですか?ごめんなさい、あんまりにも冷たいこと言ってくるから、むきになっちゃっただけで、悪いのは僕だって思ってますから。」
「別に……怒ってないし、国語の成績悪いから、何言ってるか分からないだけ。」
「頑固なんだなぁ……じゃあ、お詫びに何かしますよ。何がいいですか。」
奏子さんはやはり返事もせずに、窓の外をじっと見ている態度。どうにも上手くいかないことには手を焼かない僕の性格だから、これだけ厄介な態度には溜め息が出た。
「じゃあ、好きな食べ物とか無いんですか?」
「無い。」
「無いことないでしょ、何かしら、あるでしょ。」
奏子さんは、一度、吊革のあたりに目を向けてから、「あなたの嫌いな物は?」と、訊ねてきた。
「僕?……そうだな……何でも食べるけど、バナナかな。どこが嫌いかって言われたら分からないんだけど。」
「じゃあ、それ。私は大好き。」
その台詞と同時に電車が上野駅に着くと、奏子さんは冗談を交えたというような表情も見せずに、ホームへ押し出された人込みの中へ消えていった。
僕の隣にいるOLらしき女性が、そのやりとりを見てクスクスと笑う声が聞こえた。
学校に着くと、まず事務室で制服用のネクタイを買った。締めると息苦しいのが、今の僕の立場なのだと思い知らされる。
それから職員室を訪ねると、声を掛ける間もなく横田先生と目が合った。
「お前!」横田先生が眼鏡の奥で目を丸くして大きな声を出すと、他の先生達も何事と思う表情で僕に注目する。
横田先生は恥ずかしそうに、「すみません」と言って、ペコペコと頭を下げながら、僕に寄ってきた。
「何してたんだ、連絡しろと言っただろ。」
「すみません……」
こんな僕にも、横田先生は安堵した表情見せると、僕達は生徒指導室に身を移した。
先生と二人になった場所で僕は深く頭を下げると、横田先生は「何か悩みがあるなら言ってみろ。」と、問い掛けてくれたが、ありのままを話すのは恥じらいがあり、有田先生の言葉に苛立っただけだと言う。
事の発端は隠しても、戻ってきた理由は思いのままを話した。
学校を辞めようと思ったこと、自分が空っぽの人間に思えたこと、他人より自分が小さな人間に思えたこと。
そんな時に横田先生からの留守番電話を聞いて、学校に戻ろうと思ったこと。
それを話すと、横田先生は以外にも、「色々と考えたんだなぁ。」と、感心を示す表情を見せていた。
「人と比べて自分が小さく見えるのは、良いこともあるんだ。自分を過信している人間より伸びしろがある。ただ、一歩踏み出さなければ小さな人間のままだ。お前は今日、一歩踏み出したんだよ。」
涙もろい方ではないはずの僕だが、昨晩からはどうも抑えのきかない感情になっている。
横田先生は、情けない僕の泣き顔を見ながら、「そんな風に話を聞いてくれて、嬉しいよ。」と言っていた。
教室に入るや否や、クラスメイト達は僕を見て、「来たぞ!来たぞ!」と、騒いでいた。
「おい、次は誰とやりあう?」なんて、そんなつまらぬ野次に乗る気もせず、ただ笑って誤魔化した。
後ろの席の崇は、「おい、何してたんだよ。」と訊ねててきたが、何をしていたわけでもないのに、色付けして話すこともできず、「なぁ、バナナ食える店ってどこだ?」と、話を逸らした。
「バナナ?八百屋とか、スーパーとかじゃないか。」
「バカ、そんな所に女を連れて行けるか。」
崇は、すぐに奏子さんのことだと察したらしく、ニヤニヤと笑いながら、「じゃあ何だ、お前は原宿のクレープみたいに、バナナ食いながら歩いているカップルを見たことがあるのか?」と、嫌味な質問を返してきたが、僕にはとても名案な答えに聞こえた。
「バナナ歩きながら……バナナのクレープか、いいな。崇、悪い。明日返すから、二千円貸してくれない?」
崇は呆れた様子で財布から二千円を取り出すと、「おれも今、金欠だから、ちゃんと返せよ。」と言って、僕に差し出した。
『ホウカゴ』『アエマセンカ?』
学校が終わったら原宿で会えないかと、奏子さんのポケベルにメッセージを入れた。分かってはいたが、返信は無かった。
奏子さんの性格も少しずつ分かってきた。放課後になると、自分の期待とは五分五分の確立を信じて、奏子さんに知らせた待ち合わせ場所に向かった。
午後四時二十五分、原宿駅の竹下通り口。そこに着くと、ポケベルには返信の無かった奏子さんが、当たり前のように立っている。
その姿を見ると可笑しくなってしまい、僕は少し離れた場所で奏子さんの姿を見ていた。
人の流れから目線を逸らして、空を眺めてるように見える。空には暇つぶしに眺めていられるような雲も浮かんでなく、真っ青な晴れ空だ。
目をぱちぱちと瞬きさせながら、小さなあくびをしている。その隣にいる女の子は、釣られて大きなあくびをしている。
仕草の一つ一つが、年上の女性というよりも、小動物でも眺めているようで愛くるしく思えた。
鞄からポケベルを取り出して何やら確認しているのを見ると、奏子さんがその場を立ち去ろうとした。
腕時計を見ると、待ち合わせた四時半を一分過ぎている。
「奏子さん!」慌てて大きな声を出して呼び止めると、驚いた顔をして僕を見たのは奏子さんだけではなかった。
「奏子さん!ちょっと!どこ行っちゃうの。」
「ちょっと、恥ずかしいから、大きな声出さないでよ……」
奏子さんは少し顔を赤くして、こちらを見る人々の様子を伺っていた。
「だって、どっかに行こうとするから。」
「時間が過ぎても来ないから、帰ろうとしただけでしょ。」
「時間が過ぎた?え、一分も待てないの?」
「まぁ!待てないの?時間にルーズな人、私、苦手ですから。」
「連絡もよこさないで来るのも奏子さんだけだし、返事が無いのに来るのも僕だけだと思うけどなぁ……」
「あ、そう。じゃあ、私は来なかったってことで。」
不貞腐れて帰ろうとする奏子さんを、僕は慌てて呼び止めた。面倒くさいなぁ、と思いながらも、悪いのは僕なんだと自分に言い聞かせるのが、今の僕の立場。
そんな彼女の態度でも、『この人は今まで誰とも交際したことがないんだろうなぁ』と思えば、それが安心感に繋がった。
奏子さんは、ひたすら謝る僕に観念したのか、足を止めると、「で、何の用?」と、素っ気ない態度で問い掛けてきた。
「あ、お詫び。昨日のお詫びに、竹下通りにあるクレープでも奢ろうと思って。」
甘い物をご馳走すると言って、女の子に顰め面されたのは初めてだ。よく考えたら、この人は有名なピアニストと、オペラ歌手の夫婦から生まれた御嬢様なんだ。きっとシュークリームもナイフで食べていた家庭なんだろう。そんな人が歩きながらクレープを食べるのは、日常では考えられないことかもしれない。
「そんなのいいです。私、人混みが苦手なんで。」
「でも、ここまで来てくれたじゃないですか。とにかく歩きましょうよ。」
咄嗟に奏子さんの手を引くと、とても驚いた顔をしていた。今までは麻衣子の方から自分に寄ってきて、それが当たり前のことだから忘れていたが、奏子さんの顔を見ると、手を繋ぐとは男女の関係において意味深いものであるのを思い出した。
慌てて手を離そうとした時、頭の中では幾つかのパターンが駆け巡った。
『何するんですか!』と、いつもの拍子で手を振りほどかれるのか。
それとも僕の方から手を離して、今の行動をアクシデントとして済ますか……いや、いきなり手を離すと、嫌な物を触ったようで、失礼ではないか……ならば手を繋いだまま、二秒だけ数えてみよう。
……二秒後に出た答えが、奏子さんは握られた手を振りほどく様子もなく、その繋がりをじっと見つめていた。
「あ……ほら、人混みで逸れるといけないですから。」
僕は告白の良い返事を聞いたように浮かれながら、奏子さんの手を引いて歩いた。
竹下通りの入り口からは、緩やかな下り坂になっていて、人で埋め尽くされた歩道は、あちらへも、こちらへも人の流れが動いているのが見える。
奏子さんが逸れないように少しだけ強く手を握ると、掌の汗に気が付く。それが緊張感を一気に高めた。
湿った感触から唇の潤いを連想すると、まるで掌でキスをしているような想像をさせられた。
目の前も隣も、竹下通りを歩いているカップルは、繋ぐ手も、突飛した服装も、個性的な髪型も、それは自然な姿に見えた。
それに比べて僕ら二人は、嫌がる女を無理やり連れまわしている男の姿にでも見えているのだろう……
振り返り奏子さんの様子を伺うと、人波にもまれながら苦い顔をしていた。
いつもの憎まれ口かと思っていたが、本当に人混みは苦手だったのだろうか……人の波に溺れているようで苦しそうだ。
困ったな、こういう時は何を話せばよいのだろう……そんなことを考えている時、僕等の横を通り過ぎたカップルから、ヒソヒソと話す声が聞こえた。
「ねぇ、あの女の子、めちゃくちゃ嫌がってない?」
「つーか、スカート長っ!」
「見て、靴下、中学生?」
「中坊でも、ルーズソックス履いてるよ。」
頭の中に火の粉を飛ばされたように、怒りが発火した。僕は握っていた奏子さんの手を振り解くと、そのロングヘア―の茶髪男に近寄り、後ろから肩を掴んだ。
「おい!誰が中坊だって。」
茶髪男は、僕の威嚇に恐れる様子もなく、ピアスの付いた鼻を僕の目に近寄せてきた。
「あ!何だ、この野郎。お前が連れてるブスのことだろうが。」
「あ!その女も、焦げた豚みたいなブスだろうが。」
「ちょっと!誰が、焦げた豚だって!」
高ぶる感情から大きな声を出すと、人波はモーセの割った海のように僕等を退ける。
僕は茶髪男に突き飛ばされると、情けないほど勢いよく倒れて尻餅をついた。
その姿を奏子さんに見られていると思えば、顔が焼けるほどに熱くなり、茶髪男に食って掛かろうとした時、何処からともなくやってきた警備員が僕等の仲裁に入って騒ぎを鎮めた。
「絡んでくんじゃねぇよ、ガキ!」
茶髪男はそう捨て台詞を吐いて、僕の前から立ち去った。
奏子さんは、怖がる様子や、呆れた様子、もちろん僕を気に掛ける様子などはなく、ただ無表情に立っていた。
「奏子さん、ごめんなさい、変なことに巻き込んじゃって。行きましょう。」
「だから、いいって。本当に人混みが嫌いなの。それに、今、何も食べたくないし……じゃあ。」
奏子さんが去っていく後ろ姿を見て、僕の心はナイフで切りつけたように痛みを覚えた。
帰りの電車を待つ僕は、プラットホームから線路へ身を投げたくなる心情だった。
僕の一人よがりが、彼女の心に要らぬ傷をつけてしまったからだ。
あの茶髪男と連れていた女の話に酷く感情的になってしまった僕だが、そんな自分も少し前までは、奏子さんに関して同じようなことを崇に言っていた。
あいつの言っていたことに腹を立てて憎らしく思うことは、自分のことも憎まなければならないこと。それに、彼の彼女を、『焦げた豚』と言って罵倒した僕も、同じ穴の狢である。
奏子さんには、奏子さんの毎日があり、僕には、僕の毎日がある。
きっと、その時間の流れには人それぞれの色があって、それが調和することもあれば、濁ることもあるのだろう。
僕の時間の流れには、色など無い。透明と呼ぶには透けて見える分、鮮やかすぎるほどだ。
ならば、彼女の時間の流れに調和すれば良いだけのこと。無理に自分を知らせようとする必要などない。
だが、二人で過ごした掛け替えのない時が彼女を傷つけただけになるのでは、僕の気持ちが収まらなかった。
『イヤナオモイサテ』『スミマセンデシタ』
『オネガイデス』『アシタアサロクジ』
『オナジトコロニ』『キテクダサイ』
『オネガイデス』
今朝もカーペンターズを聴きながら家を出た。今日は、《オンリー・イエスタディ》を、何度も、何度も巻き戻して聴いていた。
家を出た時はまだ薄暗かった空も、原宿駅に着く頃には明るくなって、一日の始まりを目視する。
昨日、奏子さんのポケベルに送ったメッセージの返信は、やはり来なかった。
しかし今朝は、いつものことには思えなかった。こんな朝早く僕の一方的な誘いに応じる人は、奏子さんに限らず誰もいないだろう。
イヤホンを外すと静けさ漂う空からは、カラスの鳴き声がよく聞こえる。僕のことを馬鹿にしているようで癪だから、再びイヤホンをつけて、その嫌味な鳴き声を掻き消した。
奏子さんが来るわけないだろう……ならば、この行動は自分への戒めか、それとも、ただの自己満足か。
改札口から人の気配を感じる度に目を向けるが、制服姿の女子はまだ少ない。
通り過ぎる人達は、自分がハズレ扱いに見られていることを知りもしないだろう。
小学生の頃、毎日通っても当たった例しがない駄菓子屋のくじ引きのようなものだ。
本当に当たりが入っているのか疑問に思い、一回二十円のくじ引きを小遣い日に五百円つぎ込んだこともある。疑いを持ちながらも、これだけつぎ込めばと思ったが、見事にハズレばかりだった。
最後の一回では、「神様、神様。」と願いながら引いたが、ハズレくじを引いた時、一等賞の景品を眺めながら、「神様の意地悪。」と言っていたら、「神様だって忙しいんだから、そんな願いなんて聞いていられるかよ。」と、駄菓子屋のおやじが言っていた。
そんな意地悪な神様だが、今は空から見える人の数が少ないからだろうか……今日は、大当たりを引かせてくれた。
「こんな朝早く、何ですか……」
カレンの歌声に重ねて聞こえたのは、奏子さんの声だった。僕は慌ててイヤホンを外しながら顔を見ると、奏子さんは目を丸くして視線を逸らした。
僕は人に見られるのが恥ずかしいくらいに、にやけた顔になっているだろう。
頭の中で意識が弾けて真っ白になっていた。話したいこと、伝えたいこと、謝りたいことが沢山あったはずなのに、奏子さんの顔を見たら、言葉の一つ一つがポップコーンのように弾け飛んでしまった。
「行きましょう!」頭の中が喜びで埋め尽くされた僕は、躊躇うこともなく奏子さんの手を握った。
「ちょっと、行くって何処に?」
問い掛ける奏子さんの声を聞いて、僕は馬鹿みたいに笑顔になるだけだった。
「ほら、奏子さん。見て!誰もいない!」
昼間は人で溢れかえっている竹下通りだが、早朝は誰もいないことを知っていた。
崇と二人で、朝までカラオケボックスにいた帰り道、誰もいないこの通りを歩きながら、「原宿占領!」と、大声を出していたのを思い出して、僕は、奏子さんを連れて来ようと思った。
「奏子さん、人混みが苦手だって言ってたから。ほら、これなら人なんかいないから、思う存分に歩けますよ。」
がらんとした通り道を、唖然とした様子で見つめていた奏子さんは、僕の話を聞くと、「アハハハハ」と声を出して笑っている。
その顔を見て、僕もたまらずに笑った。.初めて見た奏子さんの笑顔は、愛おしくて、毎日の水やりで咲かせた朝顔の花のように思えた。
「歩きましょう、案内しますから。」
奏子さんは、僕が差し出した手を照れくさそうに繋いだ。その手はやはり唇が触れ合うように思わせて、僕の気持ちも張りつめた。
昨日は人込みに紛れないことで頭がいっぱいだったが、奏子さんの手は、華麗にピアノを弾きこなすとは思えぬほどに小さく、柔らかで、潤いのあるものだった。
掌に掻いた汗が僕からのものに気が付くと、急に恥ずかしさが込み上げた。
それでも僕は、奏子さんの笑顔を絶やさぬようにと、あれやこれやと話し掛けた。
僕がよく行く古着屋、原宿で好きなスニーカーショップ、今欲しいブランドの洋服。この通りに面した店は、何所もまだ閉まっているが、指差しながら修学旅行のように説明した。
奏子さんも、「へぇ。」とか、「そうなんだ。」とか、口数は少ないが、ニコニコと笑いながら僕の話に応えてくれた。
二人だけが歩くこの通りが、僕には幸せの一本道に思えた。二人だけの時間が最上の時だった。けれど、この店が開いてない時間に来たことだけは、最大の失敗だと思わされる。
「あ……でも、奏子さんにクレープ奢る約束で、ここ来たんだよね……開いてないのに、どうしよう……」
奏子さんは、ぽかんと口をあけたかと思えば、今度は、空に響きそうなほど大声で笑っている。
「馬鹿ねぇ、別にいいよ。」
こんなに笑ってくれる時だからこそ、自分に妥協はしたくなかった。奏子さんが喜んでいる姿に、ジグソーパズルのピースを一つ欠けさせるようなことをしたくはない。
「ちょつと待ってて下さい。すぐに戻りますから!」
僕はその場から走ると、慌ててコンビニエンスストアを探す。そこなら早朝でもやっているから、クレープが売ってないかと思い、明かりの灯る看板を探した。
見慣れた看板のコンビニを見つけて入ると、僕の慌てようを見て店員も驚いていた。
店内をウロウロとして、プリンやら、エクレアやら、シュークリームやらを見つけるが、バナナのクレープらしきものなどは見当たらなかった。
「すみません、バナナのクレープなんて置いてませんか?」
若い女性の店員が、「さぁ……」と言いながら歩きだすと、またシュークリームなどが置いてある棚を眺め、指差したのは、バナナがまるごと一本挟まれたバナナボートだった。
「こんなのしか無いですねぇ。」
歩きながら食べるような洒落たものには見えなかったが、探させたのに要らないとも言いづらく、渋々にそれを購入した。
ジグソーパズルのピースは埋められなかった……これを差し出した時の奏子さんの顔が思い浮かばない。どこが原宿のクレープだと鼻で笑われないだろうか。
奏子さんの姿が見えると、恥じらう気持ちで袋を差し出した。
「ごめんなさい。これしか売ってなかった……」
奏子さんは受け取った袋の中を覗き込んで、呆気にとられている様子。
「ねぇ、私が本当に、バナナを好きだと思ってたの?」
その言葉を聞いて、また奏子さんの減らず口が始まったかと思ったが、クレープを食べさせてあげられなかった僕には、『じゃぁ、食べなくていいですよ。』なんて言いやるほど気持ちにゆとりもない。
「だって、好きだって言ってたじゃないですか。」
奏子さんは、また大声で笑いだすと、「あなたこそ、国語の成績、悪いんじゃない?」と言いながら、涙を見せるほど笑っていたが、僕には大笑いの意味が分からなかった。
「え?本当は嫌いなの。」
「ううん、好きだよ。」
開店前のクレープ屋に、ベンチが備え付けてあるのを見つけた。
僕達はそこに座ると、奏子さんは美味しそうにバナナボートを食べていた。
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