第4話 悲愴

  ♢

 あの人は何を言い出したのかと思って、驚いてしまった。

 男達の人に告白されたことも初めてなのに、セックスの話をするものだから、それが普通なのか、異常なのかの判断つかぬまま、電話は切れてしまった。

 このままでは後味が悪いので、あの人のPHSに電話を掛け直したが、電話の掛かりにくい所にいると音声アナウンスが流れるだけだった。

 彼の口から『好き』という言葉を聞いて、私は自分の中にある何かのスイッチを押されたように胸の鼓動が高鳴った。

 あの彰という人を好きになったのではない。そう自分に言い聞かせている……そもそも、私のことを女として見ている男性がいることに、驚いているだけなんだ。

 男の人を恋愛の対象として見たことが、今までに一度もない。多分、私には、その感情が欠落している。

 中学生の頃、教室の女子達は『誰が誰を好きになった』と、声を潜めて話している時も、そんなことに興味を持たず、その感情に水やりを怠っていた私には、初恋の芽すら出すこともなかった。けれど今、私の心にも種が埋まっていたことに気が付いた。

 しかし、私はその種に水をやり、花を咲かせることはないにだろう。男性のことを好きになったこともなく、交際したこともないのに、セックスの経験だけがある私の身体を受け入れる男性がいるはずがないから。

 

 セックスの相手は柳幹夫という男だった。

 柳さんは音大の三年生で、いつもレッスンを受けている先生の都合が合わない時に、代行で来ていたアルバイト。

 彼の来た日はレッスンと言えるものでなく、私の演奏を一通り聴いて、「いいんじゃない」と言うだけで、指導されることや、お手本に弾いて聴かされることもない。

 だだ、レッスンを受ける私の横に、小柄で細身の男が立っているだけ。

 先生の代行で月に一、二回ほど来るだけであったし、私も、『ひょっとしたら、彼は、私に聴かせるほどの腕前ではないのかもしれない』なんて思っていたから、その日は自主練習くらいに思っていた。だからそんな怠慢な姿勢にも、苛立ちや不満を感じることはなかった。


 父と母のクリスマスコンサート……母がこの世から去り、父が未来への希望を失った日の翌晩、私は心から色を失い、モノクロームになった時間を過ごしているところに、柳さんが私の家へやってきた。

 彼が来ても話す言葉を失っていた私は、家の中へ迎え入れただけのこと。会話を交えることもなく、あちらも、いつものように小柄で細身の体を立たせているだけだった。

 私は、彼を立たせたままでリビングのソファーに腰を掛け、母を亡くしたショックに打ちひしがれていると、柳さんは黙って私の前から姿を消した。

 しばらくすると、ピアノ室の方から音が流れ始めた。それは、ドビッシーの《月の光》だった。

 幼い頃に、父が弾くこの曲を、母と二人で聴いていたことを思い出した。ソファーに二人で座りながら、ピアノ室から流れるこの曲を母は微笑みながら聴いていた。

 けれど、もう、母は隣にはいない……その現実を再び受け止めると、絶望感に押し潰されそうだった。

 私はピアノ室へ向かうと、勢いよく扉を開けて演奏を止めるように叫んだ。鍵盤の上に乗せられた柳さんの指の動きが止まると、涙が決壊したように溢れ出た。


 いつの間にかだった……目の前に彼が立っていると、私の体を強く抱きしめ、知らぬ間に唇が触れ合っていた。

 驚きも何もなかった……ただ、意識を吸い取られたように、自分の体は彼のなすがままになっていた。

 彼が私に何をしたのかも、私の何を見たのかも、恥じらうことも、拒むことも頭の中からは消え去っていた。体に触れている人の体温が、私の意識を止めていた。

 その時間は束の間であり、鋭い痛みに息を殺していると、忌まわしい感触が体の中を流れたのに気が付いた。

 女がそれを受け入れる意味を分かっていたが、その非道な仕打ちに声を上げる気力すら失い、みだらな姿のまま冷えたフローリングの床に横たわっていた。

「本当にごめん、俺、初めてだったから……」彼は、そう言い捨てると、カマキリの雄が交尾を済ませて雌から逃げるように、私の前から逃げて行った。

 

 意識が遠のいていた間の出来事であったし、両親の事故を目の当たりにした傷心が勝っているから、このことが深い悲しみになる出来事ではなかった。事故による悲しみから、人のぬくもりを拒むこともなかったのかもしれない。ただ、好意を持たぬ相手のものを受け入れたことだけは、女として精神的な痛みを覚えて涙は流れた。

 度重なる不幸が神の仕業ならば、その悪戯を憎んだし、恨む相手もそこにしか思い当たらなかった。

 家に引き籠っていた私は父の見舞いすら行くことができず、数日後、退院してきた父の右手は、親指と人差し指以外を切断されて包帯が巻かれていた。

まるで魂を抜かれたような表情をしていた……そんな父に、好意を持たぬ男性の子供を身ごもるかもしれないことなど、話すことはできなかった。

 事故で母を亡くし、身体の一部を失ったことで一番心が傷ついているのは父だろう……そんな父に追い打ちをかけるような話はできず、ただ、願わぬ日が来ることを恐れていた。

 ピアノを弾く気力などもなく、先生にはレッスンをしばらく休ませてほしいと伝えた。もう弾くことがあるのか分からないとも……

 柳さんと連絡が取れていないことも聞かされた。どうしたのだろう……と言っていたが、あの件については話さなかった。柳さんを庇うのではなく、自分への恥を隠すためだ。


 もし、私の中に彼の子供がいるのならば、それを我が子として喜ぶことはできない……私は日常の生活を健全な母子とは相反することばかりをして過ごした。無いものが無いままであってほしいと願いながら……

 父と母が、私を生んでくれたことを考えれば、その新しい命を苦に思うことが罪にも思えた。

 私の心が、まだ見ぬ命に「死ね、死ね」と言っているように思えた。

 父が言っていたジンクスのようなことを思い出した。父の家系では、誰かが亡くなると、必ず誰かが生まれると。

 私の時は祖母だったと聞かされた。祖母もピアニストであったから、「もし、おばあちゃんの生まれ変わりなら、奏子は天才ピアニストになるぞ」と、言っていた。

 もし、母の生まれ変わりが私の中に宿っているならば、その死を願っているのだろうか……

 抑えきれぬほど困惑した気持ちから、止まらない吐き気に苦しんだ時もあった。

 苦悩な日々は時の流れを早めることも、遅らせることもなく過ぎた後の日、下着に染み付いた血の痕を見て、私は肩を撫で下ろした。

 心の苦痛は解かれたが、母の生まれ変わりを私が殺したのかもしれないと思う気持ちだけは消えなかった。

 そのことは誰にも打ち明けぬまま、今日までを過ごしていた。


 あの人は、私のピアノが好きなんだと言っていた。その言葉を聞いて、父も同じことを言っていたのを思い出した。

 物心がついた頃からピアニストの娘だから、決まり事でピアニストにならねばならないと思っていた。

 だから、父が事故でピアノを弾けなくなったのであれば、私はピアノを弾く必要がないし、優雅にピアノを弾いている姿を父に見せつけるなど、残酷なことでしかないと思っていたが、その考えは私の勝手なものだった。

 父から、「お父さんの分も、奏子はピアノを続けてくれ。」と言われると、私はその言葉を、『父の指の代わりになって、ピアノを弾いてくれ』と、言っていることに捉えた。

 それ以来、私は父の代わりとしてピアノを弾いていた。父が母に聴かせるピアノのことを考えながら、その度に母の笑顔を思い浮かべた。

 ソバージュのロングヘアにして、父のために母の髪型を真似していた。事故で大切なものを失った父に、母の姿を見せたかった。

 しかし、学園祭の演奏を聴いて父は、「奏子のピアノを弾きなさい。お父さんの真似をするのではない。お父さんも、お母さんも、奏子のピアノが好きなんだから……」と言われ、自分の早とちりに気付かされた。

 自分の考えと父の望みが違うものだと気づいた私は、母の姿を気取っていた髪を切ることにした。

 髪を切り落として鏡に映る自分の姿を見た時、真昼の青空を突として埋め尽くす雨雲のような嫌悪感に心が襲われた。

 あの日、柳さんから受けた行為が頭の中を過ると、鏡に映る姿が穢れている物に見えた。

 父と母の事故を自分の不幸だと思うことや、父のことを自分よりも不幸だと思うことで、心に刻まれた傷を誤魔化していただけかもしれない……鏡の中の私は、人の不幸を薬にして、自分の穢れを繕う魔女の姿に思えた。


 あの人が私に付きまとうようになったのは、そんな時だった。

 彼が私のことを『特殊』と言ったことを思い出した。特殊なんて、そんな恰好のいいものじゃない。私は普通よりも醜い人間なんだと思った。

 あの人の言うことは、いちいち癇に障っていた。何の悩みもなく、何も考えずに、ただチャラチャラと毎日を生きているだけの人間に見えて、話をすることが不快に思えた。

 そんな彼を邪険に扱っていたのが気に食わないから、私に付きまとっていると思っていたが、『ピアノを聴かせてほしい』と言ってきたのには驚いた。

 彼に聴かせたピアノには嫌味も交えたが、家族以外の誰かに向けて、初めて弾いたピアノだった。

 皮肉と言っても、《練習曲作品10第3番ホ長調》を《別れの曲》と言うのは日本だけの話であり、それはショパンが名付けたものではない。

 そのタイトル以外は皮肉の欠片もない美しい作品だから、あの人の話す先入観のない曲の感想には、私の周りでは聞くことのできない言葉の心地よさを感じていた。

 ああ……この人は純粋に私のピアノを聴いてくれているんだと思えば、自分のひねくれた心を取り除くことができた。

 

 そんな時、彼はあんなことを言うから、頭の中では無造作に叩いた鍵盤の音が鳴り響いたようだった。

 また、ひねくれた私が出てしまった。ひねくれた言葉を返すから、あの人もひねくれたことを言ってきたのだろう。

 しかし、セックスという言葉が汚らわしく聞こえるのは、ひねくれた気持ちからではない。心に残ってしまった痣のようなもの。

 気持ちのない人間と一度だけの行為がある私と比べれば、彼の言うとおり、好きだと思えた複数の人と経験がある方が、心は恵まれているのだろう……私には絶対にありえないことだけれど。

 電話が切れた直後は、彼のことを狼が姿を現したように思えていたが、時間が経つにつれて、ぽつんと心に穴が空いている気持ちになっていた。

 彼の為にピアノを弾くことは、もう二度とないのだろうか……

 

 こんなことを思い浮かべた。コンサートホールで演奏を終えた私は観客席を見ると、先程まで大勢いたはずの観客が、あの人だけになっていた。彼は立ち上がり、私に向かって拍手をしている。

 私は彼を見て微笑むが、瞬きの一瞬で観客席には誰もいなくなっていた。

 そんな情景を思い浮かべていたら、心に空いた穴は、はっきりと理由が分かるものになっていた。彰という人が理由であることを……

 彼と付き合うことの想像はできないが、このまま話すことがなくなってしまうのが、亡くなった母のことと入り混ざり、失いたくないものを失う感情を思い出した。

 そもそも誰であろうと、男の人と付き合う想像などつかないのに、あの人だから想像がつかないように言ってしまったことを悔やんだ。

 ピアノ曲ばかりではなく、他の女の子のようにラブソングでも聴いていれば、もっと別の言い方ができたのかもしれない。

 この気持ちを誰かに『恋』だと言われても、私には解釋できない。

 目の前にショパンがいたら、皆の言う《別れの曲》をエチュードだと言い張る姿を想像して、今の自分と重ねていた。

「これは《別れの曲》ですね。」

「いやいや、エチュード(練習曲)ですから。」


「あなたは恋をしていますね。」

「いやいや、していませんから。」と……


 あの人は今、何をしているのだろう……学校を飛び出したと言っていたが、家には帰ったのだろうか?それとも、何所かをふらついているのだろうか。

 再度、電話を掛けてみたが、やはり繋がらなかった。

 今、彼にピアノを聴かせてほしいと言われたら、何を弾くだろうか……そんなことを考えていると、机の上に置いたポケベルが立て続けて音を鳴らした。

『サツキハヘンナコト』『キイタリシテ』『ゴメンナサイ』

 宛名が送られてこなくても、あの人からのメッセージだとすぐに分かった。

 メッセージを送り返さなければと思って、電話機の前に立つが、『キニシテナイヨ』と、そんな一言は、胸が張り裂けそうな気持になって送ることができなかった。

 その言葉や行動が妙に女の子らしく思えると、私には不釣り合いなことに思えて恥ずかしくなってしまう。

 男の人に、女である自分を見せたことは無かったし、ましてや自分より年下の相手に甘くなった自分を見せるのは、初めて付けた口紅のようなこと。

 結局、何もメッセージを送れないまま部屋に戻った。そうだ、そもそも私は穢れた人間なんだ。何を舞い上がっているのだろう。

 たとえ私が彼を受け入れたとしても、そのことを知れば離れてゆくに決まっている。そしてまた余計な傷を増やすだけなんだ。ならば、初めから無かったものの方がいい。

 手鏡を取り、そこに映る自分の顔を見た。あの人は私の何処が良いのだろうか……目か、口か、顔の中で自分の良いところを探してみた。

『好き』と言われたのは、その言葉で魔法をかけられたようであり、鏡の中の自分に嫌悪感は消えている。それでも心の中では穢れた自分が燻って邪魔をする。それは、白魔術と黒魔術の争いのように思えた。


 昨晩はなかなか寝付けずに、彼のことばかりを考えていた。瞼を閉じた暗闇に、その顔を思い浮かべる。

 窓の外からは、猫や鈴虫の鳴く声。たまに聞こえる車の走り去る音。木の葉を靡かせて表れた風の通り過ぎる音。

 その音は正直、心地よいわけでも、寝苦しいわけでもなく、ただ毎日、夜はそこにあったことを知らされる。

 しかし、彼のことを思いふける夜は、いつもと違うものであった。

 

 あくびをした朝は久々だった。頭の中で足りていない酸素が寝不足によるものか、あの人よるものなのかの錯覚に迷う。

 今日は彼に会うだろうか……そう考えながらいつもと同じ電車に乗るが、彼に出会うことはなかった。

 学校に着くと、教室ではいつもの挨拶と同じタイミングで、彩乃があの人のことを訊ねてきた。

「昨日、彰君に電話した?」

「したよ。」

「で?」

「で?って……何が?」

「何話したの?」

「別に……」

「別にってことないでしょ。」

「本当に何でもないって。別に……何、なんか知ってるの?」

「だって……じゃあ言っちゃうけど、彰君、奏子のこと好きだよ。」

 彩乃は、声を潜めることもせずに言うものだから、驚いて周囲の反応を確認した。

 幸い他の皆は、自分たち話に夢中で聞いてなかった様子。私は慌てて人差し指を立てると、口止めの合図をした。

「そう……そう言ってた。」

「わぁ!やっぱり別にってことないじゃん!」

 声楽のように教室に響いた声は、さすがに周囲も何事か気になった様子であり、驚いた私は、周囲の目から逃れようとして彩乃を廊下に連れ出した。

「声が大きいよ!息が止まるかと思った……」

「で、で?何て言ったの。ねぇ、私には教えてよ。」

 彩乃はまるっきり面白がっている様子だった。卒業まで間もない時期を迎えた高校生活、共学と言っても大半が女子の校内では、このような状況を目の当たりにすることが少ないから、面白がるのも無理はない。特に私のこととなれば、意外も意外なのだろう。

「本当に何もないよ……何もって言うか、期待している返事もしてないし。」

「何で、何で?彰君って、そんなにダメかなぁ?カッコイイと思うし、あ、やっぱり年下だから?」

「そういうことじゃなくて、単純にどんな人か、よく知らないから。」

「そんなの付き合ってみなきゃ、分からないじゃん!年下だけど、崇みたいに子供じゃないと思うよ。うん、いいよ!」

 自分は三つ年上の大学生と付き合っているのに、年下の男性を良いと言って勧める彩乃の言葉は、説得力に欠ける。それが私には丁度いいと言っているように聞こえるのは、面白くなかった。

「不貞腐れて学校を辞めるなんて言う時点で、子供なのよ。」

 彩乃はあれこれと話し掛けてくるが、これ以上のことを聞かれても答えに詰まるので、あしらってその場を離れた。

 答えに詰まるというより、実際のところ答えが分からない。

 自分が何を考えているのかも、あの人が何を考えているのかも。

 自分があの人を思う気持ちも、あの人が私を思う理解もできない。

 つまりは、『好き』とは何なのかが分からない。

 好物のバームクーヘンも、それに恋しているわけではない。

 父のことを大切に思っていても、恋をしているわけがない。

 『ショパンの曲に惚れた。』なんて言い方をする人もいるが、それが恋なんだとは思えない。

 でも、あの人は私のピアノが好きと言っていて、でも私を好きと言っていて……

それならショパンに対する気持ちも、恋なのだろうか……とにかくその答えなど分からないから、彩乃から何を訊かれても、こちらが訊きたいと思うほど。


 ピアノを弾いていても、心の乱れは隠せなかった。カチカチとメトロノームが刻む音だけが、頭の中で鳴り響く。

先生からは一言、「ベートーヴェンの髪型みたいだ。」と言われた。多分、音に癖があると言いたかったのだろう。

そんな風に、心が晴れない霧の中で過ごすような時間は、下校時刻になっても続いていた。

 夕方を迎える空は雲に覆われていて、ポツリ、ポツリと小雨が頬に当たる。今朝は天気のことなど気にしていなかったから傘を持たずに家を出てきたので、慌てて家路を急いだ。

 幸い大降りにはならないうちに家に着くと、玄関で靴を脱ぐや否や、電話が鳴る音が聞こえた。

 電話に出ると、それは彩乃からだった。学校では帰るまであの人の話ばかりだったのに、帰宅早々に電話まで掛けてくるのは、うんざりとした気分になった。

「ねぇ、彰君なんだけど……」

「だから何?今日一日、その話ばっかりじゃない。」

「違う、違うの。崇が帰ってきて聞いたんだけど、学校も来てないし、家にも帰ってないみたいなんだって。ねぇ奏子、告白されて変な断り方したんじゃないよね……」

「いやだ!それじゃぁ、私が悪いみたいじゃない!大体、変なこと言ってきたのは、あっちだから。」

「変なことって?」

 人前でセックスなんて言葉を使ったことのない私には、口に出すだけでも卑猥でならないから、話の内容など説明できない。

 蟠り残したままであるのは事実だが、元はと言えば彼の電話が勝手に切れたからだと思えば、責め立てられる理由などない。

「とにかく、私は何も言ってないって。」

「でも、ピッチも繋がらないし、崇がベル打っても返信無いらしいから、連絡取れないらしいよ……ねぇ、奏子から連絡してみなよ。」

 話を聞けば私だって心配にはなるが、彼を探し出して説得するような指令を受けても、私にその術はないと思う。

「嫌よ、何で私が?関係ないもん。」

「でも……自殺とかしてたら、どうしよう……」

「自殺?」

「そう、なんか崇の話だと、自棄になってたみたいだし、ほら、奏子とも上手くいかなかったんでしょ?それで思い詰めたりしたら……」

 あの人の身の回りで何が起きたのか分からないが、私とのことが死まで追い詰めるとは理解できなかった。

 先生の言葉を思い出して、ベートーヴェンの『ハイリゲンシュタットの遺書』が、頭の中を過った。

 彼は音楽家である自分の耳が、難聴に脅かされていることと、それを周囲の人々には打ち明けられずにいることに悩まされていた。

 将来への希望を失っていたベートーヴェンは、自ら命を絶とうと考えることもあったが、そんな時に彼を引き止めたのは『芸術』らしい。自分が果たすべき総てのことを成し遂げないうちに、この世から去るわけにはいかないと、『ハイリゲンシュタットの遺書』には記されているという。

 その絶望と、あの人の思う絶望は果たしてそれと同等のものなのだろうか……私には理解しかねることだけど、彼の安否だけは気になった。


 彩乃との電話を切ると、私はあの人のポケベルにメッセージを入れた。

『TELシテ』

 文字にして伝える言葉には抵抗があった。私が口にする言葉には裏腹な部分もあるが、文字で伝えることは、本心でしかないことに照れがあった。それは手紙でも、ポケベルのメッセージでも同じこと。

 

 あなたのことが気になって、あなたのことばかり考えていて、昨晩は眠れませんでした。

今日も一日、あなたのことが頭から離れませんでした。

 あなたのことが好きかは分かりません。ただ、あなたが私を女として見ているのを知ってから、気になってしかたないだけです。

 私みたいな女を、女として見てくれるあなたを心地よくも、珍しくも思うだけとしか、自分の気持ちを理解できません。

 後の気持ちは霧の中で迷う心情です……

 

 便箋に綴るなら、これが私の気持ちだろう。けれど、それを言葉にするのは、真っ赤なドレスを着てステージに立つほどの恥ずかしさ。


 メッセージの後に、家の電話番号も送った。けれど暫くしても電話が鳴ることはなく、ポケベルにメッセージも返ってこないと、自殺疑惑も迷走の話には思えなくなってきた。

 雨脚が強くなった外からは、パチパチと水を弾く音が聞こえる。

 生きているはず……だとしても、この雨の中を何処にいるのだろう。探しに行こうと思う衝動に駆り立てられても、何処にいるのか、行きそうな場所すらも検討がつかない。それほどに私はあの人を何も知らなかった。

 それでも、何もせずにいることが耐えられないと思った時、電話の着信音が静まり返った部屋に鳴り響くと、慌てて部屋にある子機に手を伸ばした。

「はい……相原です。」

「あ……もしもし。」

 電話の声は、あの人だった。掠れた声の後ろから窓の外と同じ音がパチパチと雨音が聞こえる。

「外にいるの?」

「はい……でも、傘差してるから。」

 一日中外をウロウロしているだけなら、電話ボックスを探さなかったのかと思えば、少し向こう見ずな人なのは分かった。

「何処にいるの?みんな心配してるよ。彩乃なんて自殺したんじゃないかって言ってた。」

「そう……でも、本当にそんな気分ですよ。もう、どうすればいいのか分からないから。」

 またベートーヴェンとこの人を重ねてみた。この人はベートーヴェンの心情と同じ気持ちで、このようなことを言っているのだろうか……そうは思えないと勝手に解釈すると、受話器の向こう側に届きそうなほど、大きな溜め息を吐いてしまった。

「あ、そう……じゃぁその命、もったいないから天国にいる私のお母さんにあげてきてちょうだい。」

「……できるなら、そうしてあげたいよ。」

「そう、でもきっと、お母さんはいらないって言うでしょうね。自分で捨てる人の命なんて。」

 その言葉を言い放つと、彼は無言になっていた。パチパチと雨を弾く音は、この部屋よりも大きく聞こえる。

『ハイリゲンシュタットの遺書』の一文を思い出して、私は受話器を持ったままピアノ室に向かった。本当に彼が私のピアノを好きならば、それで心を動かされたのなら、私ができることはピアノを弾くこと。

 ベートーヴェンが自ら命を絶つことを芸術に止められたのならば、言葉足らずの私にできることも同じだと思った。


 ピアノの前で一度受話器に耳をあてた。まだ雨が弾く音が聞こえている。

 鍵盤に指を添えると、何を弾くかは迷わずにベートーヴェンのピアノソナタ第8番『悲愴』第二楽章を弾いた。

 聴いてほしい……あの人の心の中に少しでも届いてほしい。こんな気持ちでピアノを弾いたのは初めてだった。

 楽譜など、もちろん暗譜していた。ベートーヴェンの思い描いた芸術、それを表すハーモニーと記号。

 けれど今だけはベートーヴェン描く芸術を借りた、私なりの音でよかった。あの人に聴かせるものがベートーヴェンの《悲愴》ではなく、私の言葉に聴こえてほしかったから。 


 曲を弾き終えると、慌てて受話器を耳に当てた。雨音が鳴っている……聴いてくれたんだと思うと、肩の力が抜け落ちた。

「聴いてた?」

「はい、外は雨だから、どこか寂しも聴こえたけど、優しくて、とても穏やかな曲でした」

「あなた馬鹿ね、穏やかって。……これ、ベートーヴェンの耳が聞こえなくて、絶望に打ちひしがれていた時に作った曲よ。」

「えっ?」

「何が悩みだか知らないけど、それでもベートーヴェンは自分の作る芸術の為に、生きて曲を作ったのよ。あなたは?あなたはどうするの。」

 彼はまた黙っていた。私も自分が話すことは、どうして棘があるのだろうと、少し苦い顔になる。

「僕にとっての芸術は、奏子さんのピアノだから。それが無くなるのは、その絶望と一緒だよ。」

「無くなる?まだ返事もしてないのに、何で別れ話になるの?私はまだ、あなたのことをよく知らないって言ったのよ。それなのに、なんで待ってくれないの?」

「待てばどうなるの?」

「それは、あなたと私次第でしょ?私だって……昨日からずっと、あなたのことを考えてたわよ。」

 その言葉に返事は無かった。通話が切れているのを知らせる音だけが聞こえる。

 便箋に綴るような言葉に残されたのは、心の中で渦巻いた恥じらいだけだった。

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