彼女のこだわり
野森ちえこ
いちばんが譲られる日
ぼくの奥さんは、なんでも自分がいちばんじゃないと気がすまない。
朝いちばん早く起きて。
夜いちばん遅く寝る。
――ねぇ、今どきはやらないよ。時代は令和だよ。たまにはぼくに、いちばんを譲ってよ。
いくら頼んでも聞いてくれない。こうなったら強硬手段に出ようかと思ったのだけど、ぼくは朝に弱い。こちらはとても勝ち目がなかった。
それなら夜はどうだ。と挑戦してみたものの、彼女も意地になって、ぼくも意地になって、結局ふたりとも徹夜して寝不足になっただけだった。
◇
結婚してまる1年の令和1年11月11日。
ゾロ目の記念日。もとからおめでたいのに、1周年で令和1年なんて、輪をかけておめでたく感じる。ただ1がならんでいるだけなのに、人間の感覚っておもしろいものだ。
彼女もいつになくご機嫌で、今ならもしかしたら教えてくれるかなと思って聞いてみた。
なんで『いちばん』にこだわるのか。
――笑わない?
笑える話なのか。そうなのか。心の準備をしたほうがいいだろうか。
とりあえずぼくは、真面目くさった顔をつくって『笑わない』と約束した。
――小学校の修学旅行でね。
――うん。
――楽しみで、まえの日なかなか寝られなかったものだから、当日は消灯時間がくるまえにぱたんと寝ちゃったの。
これはもしかして……
――そしたら顔中に落書きされてね。カラーペンで、まぶたとかほっぺたとか色塗られて、なんかお化粧のつもりだったみたいなんだけど。でもわたし、起きたときはまだ気づいてなくて。
予想通りだった……!
ダメだ。笑うな。こらえろ。
――廊下に出たところで当時好きだった男の子にばったり会って、大笑いされて、はじめてイタズラされてたことに気がついたの。
あ、それは結構悲劇かもしれない。
――初恋だったのよ。
うん。ちょっとしたトラウマになりそうだ。おかげで、こみあげてきた笑いは放出されるまえにひっこんだ。
――ぼくはイタズラしないよ?
――わかってる。
――なら、たまにはぼくに、いちばんを譲ってよ。
――やだ。
――なんで。
――なんでも。
お約束のようにニコニコと。
お決まりのようにきっぱりと。
話を聞くまえと変わることなく拒否された。
むーっとにらんでみれば、むーっとにらみかえされる。
にらめっこでも、ぼくは彼女に勝てたためしがない。しかたないだろう。彼女がかわいいから、つい顔がほころんでしまうのだ。それは、おめでたい記念日であっても変わらない。けれど。
――あなたの寝顔を見てるとしあわせな気持ちになるから。
記念日サービスだろうか。そっぽを向いて、ひと息で告げられた声はとてもちいさかった。
◇
あれから、どれくらいたったのだろう。
子どもができて、年をかさねて。悩んだり衝突したり、話し合ったりすれちがったりしながら、ぼくらは夫婦から家族になっていった。
その間ずっと彼女は『いちばん』だった。
誰よりも早く起きて、誰よりも遅く寝る。
今、車いすの上でまどろんでいる彼女は、とてもおだやかな顔をしている。最近になって、ようやくぼくに『いちばん』を譲ってくれるようになった。
――あなたの寝顔を見てるとしあわせな気持ちになるから。
彼女より先に起きて、彼女よりあとに寝る生活になってしばらく。むかし彼女がいっていた言葉を今、実感している。
まぁぼくも年だから、子どもたちやヘルパーさんの力を借りながらではあるけれど。
彼女がぼくを忘れても。
ぼくがおぼえていれば大丈夫。
少しでも長く。
少しでも多く。
いちばん大切な人のそばで。
いちばんしあわせな時間を。
今日も心に感じている。
(おわり)
彼女のこだわり 野森ちえこ @nono_chie
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