第6話 匂い

部屋を出た後の事は鮮明に覚えてる。

実行した幸福感といまだに残る嫌悪感。

塊になってもまだ私に嫌悪感と憎悪感を抱かせるなんて、もはやアレらの才能か。


とにかく1度腰を下ろしたい一心で河川敷に座り込んだ。裏路地も考えたが、隠れるように座るより拓けたところで堂々としていたほうが目立たない。


人は人に驚くほど無関心なのだ。

私が今裸になって踊ったとしても、私の顔までしっかりと覚えている人はいないだろう。


草のいい匂いがする。

あの部屋とは大違いだ。

私が生きていたあの3LDKの部屋はいつも煙草と血と精液の匂いが混じった匂いがしていた。


証拠はいくつも残っているだろう。

特に隠すこともしなかったから。

バレてもいい。捕まっても構わない。

捕まえてくれれば洗いざらい話すのに。


あれだけの証拠を残して、あげく隣町で生きている私を捕まえるまでに4年もかかるなんて、何をしていたのかしら。


教えてあげる。

近所の住人も、助けを求めた人も誰一人私の顔なんか覚えちゃいないからよ。

巻き込まれたくない人達が、それでも悪者にはなりたくないからカワイソウニって偽善心丸出しで遠くから見てただけ。


私は対岸の火事なんかじゃない。

自分達にも起こりうるんだと言うことを身を持って経験させただけ。


SOSを出せば良かったって?

そんな事とっくにした。無意味だったけど。

誰も助けてなんてくれなかったから、私が自分で自分を助けてあげたのよ。



私はただ自由になりたかった。

あの女が連れてくる男の下で怒られないように迫真の演技で喘ぐ時間も無駄、あの男の前で排泄もしたくない。

ご飯だって食べたいし、歌だって歌ってみたい。

鏡の前で何度も練習した笑顔だって作れる。


いっそ鏡の中の私と交換できたらいいのに。

鏡の中の私はまるで私のようで私じゃない。

顔に不器用に張り付けた笑顔も、所々紫色の私の身体もそのままを映し出すけど、ただこちらを見てるだけ。

私は鏡が嫌い。

でも、ただ見てるだけ映すだけでいい鏡の中の私に取って変われたらどんないいだろうと何度考えただろう。


誰も助けてなんてくれないし、誰も声を聞かない。

今感じるこの自由の匂いだってわからないだろう。


草もビルも風も全部、自由が、当たり前がくれる匂いにさえ気が付かないだろう。


なら私が気付かせてあげる。

今もまだこの匂いを知らない同志を探せばいい。

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