… 32


  何やってるんだろ、わたし……



電車内で十分に身体が温まってきた頃に、ようやく落ち着いて今さらコートの前ボタンを留める。 


「ただいま」


「おかえり。どうだった? 裕泰くん、元気だった?」


「……うん、元気にしてた。食事も美味しかったし楽しかったよ」


「それは良かった。いつでも来てって伝えといてね」


返事をして、お風呂に入り、裕泰くんに謝りのメールを入れる。


 『近いうちにまた会おう』


特に怒ったり変わった様子も見られず、返信もすぐに来たし、ひとまず肩を撫で下ろす。



  良かった……怒ってなくて……



平常心を見せつける裕泰だったが、実際は加世子が出て行ってから、狐につままれたような感覚に陥って暫くの間ただぼーっとした後、思い立ったように追跡アプリを開いてみたが、その時にはもう検索出来ない状態になっていて、悪い方に想像を働かせ、一抹の不安を覚えていた。


何も知らず安堵感に満ちた加世子は、父理眞の帰ったリビングに下り、たわいもない話をしながらテレビを見てくつろいで過ごす。


理眞がサモサの散歩から戻り、お風呂場へ向かうのをソファから見届けた頃、メールの着信がある、有陽からだった。


 『今日、駅前で下井くんの友達に会ったよ あのお店の』


 『また食べに来てって言われた🍴』


運良く、次の日曜日は有陽ちゃんもわたしも夕方までのシフトで、その後予定が無かったので早速行くことにした。


 『予約入れておくね』


 『おやすみ』


美味しかったし、良い感じの賑やかさがあって雰囲気も気に入っているのでとても楽しみだ。




布団に入って、一応は無事にと言って良いのか、裕泰くんの誕生日という一大行事を乗り越えられてほっとした気持ちで横になる。


湯船に浸かって今日を振り返っていた時は、裕泰くんが怒っていないかばかり気にしていたので他の事を考える隙間が無かったけれど、眠りに落ちる寸前には、何故か下井くんの顔がまた目を閉じた向こう側に浮かんできた。


  

  別れ際のあの顔……



「早く階段を降りろ」と言わんばかりにジェスチャーで伝えてきたあの時の顔は、口元が微笑んでいて、何というか、優しさのようなものを目一杯感じられた。



  苦しい…… 胸が、苦しい……



何の前触れもなく、突如わたしの身体に異変が襲う。身体と言っても心臓とかどこかに肉体的な痛みを生じているわけではなくて、説明がつかない、とにかく胸が締め付けられるような経験したことの無い苦しさで、布団の中で膝を抱えるように丸くなっていた。


 

  何だろう、この感じ……



しかも、その下井くんの顔が頭から離れない。それどころか、今まで無意識に見てきた下井くんの表情や仕草までもが次々と思い起こされていく。


  

  この間は、今頃の時間には連絡くれてた

  よね……



今日も携帯が鳴らないか、どこか期待しているわたしがいたけれど、そんなわけも無く、ひとりで少しがっかりとしてスマホを充電器に収め、眠ることにした。





2日後、日曜日。18:30の予約に少し早く着いたわたし達は、ワクワクしてお店に入る。厨房付近では下井くんのお友達が気付いて笑顔を向けてくれている。


「ドリンクはこの間と同じで、フルーツを違うものにしてみようかな……」


フードメニューはじっくりと見て、ドリンクが届けられると絶対要素のサラダも前と違う種類を選び、取りあえずは3種類だけオーダーする。待っている間は早速今日のバイト中の話を始めて、若干盛られたわたし達が勝手に思う先輩や店長の近況、変わって、今週受けた健康診断の時の話をし、前菜が届く頃にはうちのサモサの健康状態にまで話が及んでいて、何せ、二人で色んな事を話せるだけで、楽しい時間になる。……わたしにとってはそうだけど、有陽ちゃんにとっても同じような感覚でいてくれるなら本当に嬉しい。


2品目が下井くんのお友達の手によってテーブルまで運ばれてすぐの、わたし達が料理のビジュアルに夢中になっている時に、


「来た来た」


と横で言う声が聞こえる。耳には入ってきたけれど、来店したお客さんに対して言っているんだろうなという感じで流していたら、


「来たよ」


今度は確実にわたし達に向けて話しかけている。


ん?と思って見上げたら、お友達の隣には、まさかの下井くんが立っていた。


有陽ちゃんとほぼ同時に、


「えーっ?!」

 

と驚きの声を上げると、


「お前、言っとくって言ってただろ」


「サプライズの方が楽しいじゃん」


等ともめている。


「俺が呼んだの。良かった?」


「……まぁ」


「……なんか、微妙な空気になってるじゃん……」


拗ねたような顔つきで、ちょっと出入口の方に身体を向けて帰ろうとする素振りを見せる。


「おい、待て待て」


下井くんの肩を掴んで引き留めている。


「良いよね? ダメかな」


再度わたし達に確認をした後、


「奢ってもらえば良いよ」


声のボリュームを下げて悪だくんだかわいい笑顔を見せながらそう加えてきた。


「良いって。優斗、良かったな」


「どうせ予定無いんだから良いだろ? 彼女もいないことだし」


「うるさい」


お友達が促すように椅子を引くと、ようやく上着を脱ぎ、背もたれに引っ掛けて席に着く。


「何か、悪いな。二人で話したい事とかあったんじゃないの?」


「ハハハ、特別には無いよね?」


有陽ちゃんに聞かれてわたしもうんうんと頷くと、


「ここのお店が好きで来ただけだから」


の一言に同調する。



  彼女いないんだ……

  有陽ちゃんは知ってたのかな……?



どことなく会話は上の空で、改まって聞いたことが無かったさっきのちょっとした会話の流れで出てきた情報の、変な所で引っ掛かる。


「お友達、NAGAOさんっていうんだね」


ストローでフルーツをつつきながら有陽ちゃんが聞いている。さっきいささか悪い顔で近づいて来た時に、名札がしっかり見えたらしい。


「あぁ、そう。永尾。永尾舜」


「ながおしゅん~」


何故か二人で声を揃えて言ってしまう。


「名前も素敵だね」


ノンアルコールのドリンクでこんなテンションになってしまうなら、この夏に誕生日が来てお酒を飲めるようになったらどうなってしまうんだろうと自分でも少し気が重い。


「本人には言うなよ、あいつ調子に乗るから」


ドリンクのメニュー表には数秒目を落としただけで、ソフトドリンクを注文しようとする下井くんに、フードも何か選んでもらおうと思ったら「何でも良い」と、わたし達の好きなものを注文するように言われたので有陽ちゃんとまたメニュー表を覗き込む。


「学校始まったね」


「あ、そうなんだ」


「うん、お休み気分から早く抜け出さないと」


「本当だよ~」


けだるく会話を進めていく。


「そうだ、下井くん、学食来ればいいじゃん、結構美味しいよ」


有陽ちゃんの提案に頷く。


「浮くだろ」


「そんな事無いよ、色んな人がいるから。そうだ、ダッフルコート着てきてよ」


「もういいって、それは」





楽しくて美味しい時間はあっという間に過ぎ、20時を回るとおひらきにした。お手洗いに行った時に、お会計は下井くんが済ませてくれていたみたいで、わたし達は財布を出すことも無く、お店を後にする。


「後ろ髪引かれまくり」


「フフッ、そうだね、また来たい」


二人して下井くんの方を見て、


「よろしくお願いします」


と深々とお辞儀をする。


「何だよそれ。 ……ま、良いけど」


我々の “パパ” は照れつつ、まんざらでもない顔をして、両手ポッケで下を向いている。


今回も有陽ちゃんとはすぐに別れて、下井くんと駅まで進む。一瞬肩が当たっただけで意識がそこに集中してしまい、あまり話し込まないのはいつも通りと言えばいつも通りだから、この自分でも良くわからない心の動揺がバレてはいないと思うけれど、上手く話を繋げられない。


「この間はなんか、ごめんね。駅まで送ってもらって」


メールひとつで済ませられる事を未だに伝えておらず、無礼なわたしはここで初めてあの時のお礼の言葉を口にする。


「あぁ、……おう」


「…………」


「大学って授業、自分で選べるの?」


「……え? あ、そうだね。必修課目以外なら……。人気のある先生のだと抽選になる事もあったりして……」


「へぇ」


それほど遠くない距離なので、駅がすぐそばまで来ている。どうやって帰るのかを問われて、私鉄だけを使った方が安いし早いはずだけれど、下井くんと同じ渋谷方面から回ったら、何駅か一緒に電車に乗れるかな、とかいう考えが脳裏に浮かび、返事に困る。


「どうしたの? なんか今日、おかしくない?」



  突かれた……痛いところを……



「えっ? そうかな……」


首を身体ごと傾げるオーバーリアクションで不自然に誤魔化す。


  

  どうしよう……

  ……改札口に着いちゃう……



「送ってこうか? 家まで」


立ち止まったかと思うと、心配そうな顔つきでそう言ってくれた。


心の中では “yes please” と即答していたのに口からは反対の言葉が飛び出す。本来であれば “no thanks” の返事が考えずとも出てくるようなところを、本当に今日のわたしはどうしちゃったのだろうか。

                  

「あ……方向が全く違うし、遠慮しとく。ありがとう」


「そうか?」


結局は渋谷まで一旦出て、帰ることに決めた。外の景色を眺める振りをして、隣に立つ下井くんを窓ガラス越しに見る。また、胸が締め付けられそうになった。


下井くんも渋谷で降りて違う路線に乗り換えて行く。笑顔でバイバイをしたのに、反対方向を向いたとたん、急激に寂しくなる。この虚無感から救ってくれるのはやっぱり有陽ちゃんで、メールをくれた有陽ちゃんと自由が丘に着くまでずっとやり取りをしていた。




今週は、どんな先生か、どんな内容か、という事に興味を抱いた授業等を多目に取っているので、木曜日にもなると疲れが溜まってきていた。聡子を待っている時に、校舎の3階から何気なく下を見ていると、裕泰くんと小山田さんが一緒に歩いている姿が見え、午後の眠気が一気に飛んでいく。


「何? 話すことはもう無いだろ」


勝手に加世子を呼び出した事、しかも知られたくない事をいとも簡単に口にしていた事、自分も軽はずみな行動を取って悪かったのだろうという気持ちは持っていても、それでも晶に対する怒りの感情は収まってはいなかった。


「ちょっと、せめて立ち止まってくれない?」


建物の柱の所で渋々足を止める。


「私、同学部の子から告白されちゃった」


「付き合っても良いと思う?」


「……なんで聞くんだよ、そんな事。好きにすれば良いだろ」


それだけ言ってすぐまた歩き出した裕泰を追いかけて、晶は真剣に話を続けた。


「冗談よ。……付き合ってほしいって言われたのは本当だけど、私、裕泰以外の人と付き合うつもり無いから」


「本当に好きな人としかそういう風になりたくない。……私、待ってるから。いつでも待ってるから」


離れていく裕泰の背中に訴えかけるように叫んでいた。






「ごめん、風呂入ってた」


その日の夜、加世子からの着信に気付いた裕泰は、髪を拭きながらすぐに折り返しのコールをする。


「声が聞きたくなって……」


「……嬉しいよ。電話くれて」


思わぬ加世子からの一言に笑みが漏れる。


「近いうちに会おうって言っておいて会えてないな」


「仕方ないよ。裕泰くん、忙しいから」


「本当に、会おうな。こっちから連絡する」


「わかった……そうだ、ママがいつでも来てって言ってたよ」


「うん。ありがたい」


加世子も裕泰が机の上に置いているものと同じ写真を部屋に飾っているが、その写真たて片手に、家にいるのが本当っぽい事を少しほっとして、切った後も電話越しの声を名残惜しんでいた。


  

  そうだよね……

  わたしが好きなのは、裕泰くんだよ

  ね……



ここ最近の、下井くんの顔がやたらとちらついてくる状態は、単なる一時的な何かの勘違いか、錯覚に似たものだという事を自分でも納得をする。




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