おばさまとわたしの時間 (回想)

それからはおばさまの抗がん剤治療が開始された。体調を見ながら3、4週間毎に1クールという治療が繰り返されていくらしい。おばさまの場合、そのクール前の1週間~10日くらいの間は比較的容態が安定していたようで、いよいよ切望していたわたしがお見舞いに行く許可が下りた日は、ちょうどその間に当たる時だった。


2月の第2土曜日にママに連れられ、ようやくお会いできた時の印象は、食事の調整があったり、ご本人自身も食欲があまり湧かないようで、この1ヶ月でさらにお痩せになったのはわかったけれど、その他としては普通に会話しておられるし、ベッドに伏したままというのとは程遠いものだったので、


「今月いっぱいで退院するの」


と笑顔で話し、場を和ませて下さったおばさまの言葉を鵜呑みにし、本当に無知なわたしは、快気祝いパーティーの予定を組んでもらおうと意気込んで、その日の夜にパパやママに話を持ちかけていた。


「迷惑が掛かるから、裕泰君達には内緒にしておこうか。サプライズの方が良いだろうし」


パパの優しさだった。


あまりにもわたしが本気で真っ直ぐな目をして提案する話を真っ向から打ち消す、なんて事は恐らく出来なかったのだろう。その話は計画を温めてからと、ごく自然と延期されていく。


年が明けてからも裕泰くんはまるで何もなかったかのように以前と同じように勉強を教えてくれていたし、何かを勘繰るという選択肢とは無縁だった。

 

ステージⅣbの膵臓癌という診断が出されたという受け入れ難い現実をわたしが知ったのは3月に入ってからだった。入院される前から少し痩せてはいらしたけれど、食事に気を付けておられただろうし、元々の体質とかもあるんだろうな程度にしか考えておらず、というか、普段接している限りでは、普通にお元気だったので、『どこか悪いのではないか』なんていう心配をしたことさえ無かった。そんな人が普通に家を出たまま病院に留まり、治療に専念せざるを得ない状況に陥るのは、自分に置き換えてただ想像してみただけでもとてつもなくやるせない気持ちになるのに、家族を持たれていて、妻であり、何より母親という役割に対してある日を境に急に制限がかかってしまうのは一体どんなお気持ちなのだろうかと、察しても察しきれない、はがゆさだけがわたしの中から剥がれなかった。


この頃から勉強を教えてもらえる頻度が減り、元のように隔週へと変わる。残念だけれど仕方のない事だった。そんなことより、嬉しいニュースが飛び込んできた。おばさまの念願が叶い、一時的にではあるものの帰宅されるという情報だ。わたしたちが春休みに入った最初の土日を挟んで1週間、自宅で過ごされる。


 『すごく嬉しいです。自宅なのにワクワクしちゃう。お土産が大量の薬しかないのにはうんざりだけど』


ママがやり取りする携帯の画面には、そう書かれていた。ご家族みんなで何事も無く過ごされますように。わたしに出来ることといえば強くそう祈ることしか無かった。


蓋を開けてみると周りの心配は無用だったようで、容体の急変や身体に大きなしびれや痛みが生じることも無く、予定通りの期日を全うされ、病院へ戻られた。これをきっかけに、5月は合併症の治療に専念されたため叶わなかったけれど、4月も6月にも一時帰宅が認められた。



そんな中、GWが終わった頃からだろうか、裕泰くんの様子に変化が見られるようになった。わたしたちの前では平静を装うものの、現状を受け入れる為の心と身体に僅かずつれが生じてきてしまって、徐々にコントロールが効かなくなる状態にはまっていく。かろうじて笑顔を見せてはくれるけれど、おじさまによると、家では食事をろくに摂ろうとせず、勉強も手につかない状態らしかった。その前までは、 “辛い現実を部活動で好きな野球に集中して一旦忘れる” というある種のルーティーンが出来上がっていて、多少の気分転換は図れていたようだった。学校の方針で平日のみ2時間半以内でという練習時間も都合が良かったのかも知れない。ただ、春の大会で引退となり、心の内側にひとり抱え込んでいた何かを発散するはけ口を失ってしまったのが大きな要因になったのではないかと後になって推測していた。


裕泰くんのそんな状況と平行するように、おばさまの病状は現状維持すらままならず、比較的調子の安定した時はあるものの、倦怠感や痛みが酷くなって終日横になられる、というような日が増えていく。


容赦なく季節は移ろい、庭の白丁花ハクチョウゲが咲き終わる頃になるとおばさまはホスピスで過ごされるようになった。パパとわたしは訪ねる機会が大幅に減り、ママですら遠慮がちにタイミングを見計らうようになる。おばさまは筋力もかなり低下して、ご自身で好きなように動く事が困難になりつつあるものの、裕泰くんが調べて取り寄せた栄養食品を口にしたり、出来る範囲で身体を動かしたりと、わたしの印象では常に前向きに病と闘っておられた。と同時に、前にも触れた通りご家族、特に裕泰くんの強い希望で余命に関してははっきり聞いておられなかった筈だけれど、やはり、ご自身が今在る状態の事は理解されていて、限りある日々の中で日記を書いたり、思いついた事を綴られたり、裕泰くんには見せてもらったことは無いけれど、おじさまから、裕泰くんへの手書きのメッセージもきちんと残されていたという話を教えてもらったことがある。





少し話はさかのぼり、この年の梅雨は少し早めにやってきていた。6月最後の休日に部屋で机に向かっていた時、ふいにおばさまに会いたくなって、ママにその事を言ってみる。今月は一時帰宅をこなされたり、過ごす環境も変わったりして疲れが出ていてはいけないため、あと数日先が良いのではないかというママの助言があり、結果的に、木曜日は期末テストの前日で授業は午前までなので、週の頭さきに計画を立てた通り、午後におばさまの所へ顔を出すと決めた。


この日ママは予定があり、学校帰りにわたしひとりで病院へ向かう。面会時間外だったのでナースステーションで許可を貰い、病室を案内して頂いた。


緩和ケア病棟に移られてからは日も浅く、初めて伺ったのだけれど、一般病棟よりも雰囲気が明るいというか、お昼ごはんの時間が一段落した頃だからか、静かで落ち着いた空気感が漂っていた。


完全個室が並ぶ廊下を進み、おばさまの部屋の前まで来ると何故だか少し緊張をしてしまい、ひと呼吸置いてからそっとノックして、様子を窺いながらゆっくりと扉を開ける。


横になってはいたけれど、ベッドの上体は上げられた状態で起きておられ、小声で挨拶をして入口に突っ立つわたしとすぐに目が合った。


「加世子ちゃん」


やや細い声ではあるものの、しっかりとわたしの名前を呼んでくれた。そして2、3会話を交わした後、ナースコールボタンを押され、車椅子に移乗させてもらって病室の周りを案内して下さった。


「曇り空の日が続いていたのに、加世子ちゃんが来るって聞いてからお天気が良くなり出して。お日様を連れてきてくれたのね」


嬉しそうな笑顔のまま、病棟から続いているテラスがあると仰ったので、そこへ出るために不慣れながら車椅子を押し、廊下を進んだ。


テラスと呼ぶにはその域を越えた庭園のような屋外には、数種類の季節のお花がきちんと管理されていて可愛らしく咲き誇り、やんわりと注がれる陽射しは、ついさっきまで身体にこたえていたアスファルトの照り返しの厳しさがまるで嘘のように不思議と心地が良く、二人だけにしては広めの空間で穏やかにお話しをすることが出来た。


学校の話、パパやママの話、バイオリンの習い事の話……わたしが色々と話題を提供しないといけない側だと思っていたのに、いつの間にか、逆にわたしの日常のちょっとした悩みや愚痴のようなものを聞いて貰っている時間になっていることを、途中になってようやく気付き始める。


「何か、くだらないわたしの話ばかりをしてしまってすみません……」


ママに「手短にね」と言われていたのを思い出し、無駄に長居をしてはいけないと心の中で自分に忠告し、もう少し有った聞いてもらいたい事もぐっと我慢をして、しばし黙っているとおばさまの方から話を続けた。


「明日から試験だって言ってたけど、こんな所に来てていいの? おばさんは嬉しいけど」


「こんな所だなんて……」


「勉強は、前日に足掻あがいても……という感じです……。というより、裕泰くんに教えて貰っているので心配はしていないです」


「……そう……」


裕泰くんの名前を出した途端、今まで和やかだったおばさまの顔に陰りが見え隠れする。


「あの子の事が心配だわ…………」


伏し目がちに仰る横顔が後になってからも何度もフィードバックされる程、印象に残った。


「受験を控えた大事な時期なのに、何もしてあげられない……。それ以前に、邪魔をしてしまっている状態だものね……情けないわ……」


「そんなこと、そんなこと……無いと思います」


自虐的に最後は微笑んで発したおばさまの苦痛な声に、思わずベンチから立ち上がって大きな声をあげ、不器用に否定しているわたしがいた。


「これからあの子が甘えるのは加世子ちゃんになるかも知れないわね……その時は、裕泰のこと、どうか、宜しくお願いします……」


皮下出血の跡が着衣の隙間から見える華奢な手を膝掛けの上に揃えて、こんなわたしなんかにすごく丁寧な口調で真剣に切なる声を上げられた。



  何と答えれば良かったのかな……



帰り道にはそればかり考えていた。


快晴だった空はいつしか雲に占領されていき、家に着く頃には小雨がぱらついている。

 

別れ際に下を向いて仰ったおばさまの言葉に対して、わたしはどんな表情をしていたのかを自分でも思い出せない。あの状況では、言葉にしないと何も伝わらなかったのに、わたしはただ黙って一度頷いただけだった。




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