run away to sea 【2019年10月28日 O県I村 比嘉海斗と金城陽子】

 

 その動画を比嘉海斗が見つけたきっかけは単純で、『yo-ko-』というアカウント名が付き合っている彼女と同じ名前だったから、であった。

 そして結果として、海斗は苦笑せざるを得なかった。


 海があって、波音がして、最後に一つカモメの鳴き声。特段美しい景色が映っているわけでもなく、心地の良いBGMが流れるわけでもない。

 

 いかにも初心者って感じだよなぁ。映っている景色も、有名なビーチというよりは、サスペンスドラマにでも使われそうな景色だ。きっと近所の海を撮ったのだろうが、それにしたって、もう少し場所を考えた方がいいんじゃないか。


 見も知らぬ『yo-ko-』に身勝手な感想を抱いていた海斗は、イヤフォン越しに響いたアナウンスにゆるりと意識を浮上させた。ごとりと車内が揺れて、彼の肩にもたれかかった、陽子が小さく呻く。


 唇の端には涎がついている。それに思わず頬を緩め、海斗は半開きの彼女の唇をそっと撫で、ついでに頬にかかっていた彼女の長髪を耳にかけさせてから車窓に目をやった。


 沖縄の海は今日も穏やかであった。海に落ちかかった太陽が、海原を夕焼け色に染めている。


 彼の耳元で、再び波音が鳴る。海斗は苦笑いして、スマホをタップし動画を止めた。流石に日本海の海と沖縄の海は合わない。


 ブックマーク代わりにつけていた「いいね」のボタンを取り消そうと指を伸ばす。陽子が身動ぎしたのはその時だった。


「ん……」


 陽子が目を開けた。ぼんやりした目を何度か瞬き、はふ、と小さく欠伸をした。

 眉目秀麗、二十五歳のキャリアウーマンである金城陽子は、海斗の前だけでは年齢以上に幼くなる。その事実が海斗の胸を暖かくする。


「起きた?」


 スマホへ手を伸ばしていた指を引っ込め、海斗は陽子の顔色を伺う。


「ん……」陽子はさらに二回、瞬きをした。「だいじょぶ……」

「眠かったら寝ててもいいけど」

「んー……」


 バスのアナウンスが流れ、停留所を行き過ぎていく。運転手以外には二人しかいない車内は、どこまでも暖かく静かだ。


「変な動画だね、それ」ようやく頭が冴えてきたらしい陽子が、海斗のスマホを見て可笑しそうに笑った。「それにしても海なんて。お昼にダイビングしたのに」

「余韻が忘れられなくて」

「ふふっ、素敵な海だったでしょ? 私の自慢の場所なんだから」

「うん」自慢げな陽子に目を細め、海斗はゆっくりと噛みしめるように頷いた。「さすが、君だけが知ってる『秘密の場所』だなって思ったよ」


 お昼に訪れたダイビングスポットを思い出す。夏の日差しが差し込む海は、ダイバーである陽子がオススメするだけあって本当に綺麗だった。


 けれど正確に言えば、海斗の網膜に焼きついて離れないのは陽子の姿の方だ。


 煌めく海面を背景に、どこか切なげに目を細めた彼女は、どんな宝石よりも美しかった。もしかすると泣いていたのかもしれなかった。彼女の涙は、けれど海に紛れて消えてしまったから、真相は分からないままだけれど。


 バスがまた一つ、停留所を通り過ぎていく。それをどちらともなく見送る。


「……その動画、あとでURL送ってもらっていい?」


 おずおずとした陽子の問いに、海斗は首を傾げた。


「いいけど……なんで?」

「思い出」そう言った、彼女の声は少しばかり震えていた。けれど彼女自身もそれに気付いたようで、慌てて笑って海斗を見やる。「な、なーんてね! ちょうどお店で流せるようなBGM探してたんだよ。もうすぐ期間限定で海辺のカフェを開くから、その雰囲気づ、」


 海斗は陽子の唇を奪った。彼女の目が丸くなる。バスが再び静かに揺れる。後ろ向きに倒れそうになる陽子の頭を手で支え、海斗はそのまま彼女の長髪に指を絡めた。

陽子の目が、ぎゅっと細くなる。すん、と小さく鼻が鳴った。


 バスが停留所を越えていく。


 そうしてやっと海斗は陽子を離す。


「……はなれたくないよ」


 海斗のシャツの襟をぐっと握って、陽子が俯く。肩は震えていて、彼女がどんな顔をしているのかは一目瞭然だった。

 なのに、自分に出来ることはなにもない。海斗の胸をつきと痛みが刺す。それでも彼は笑う。笑うしかない。


「陽子」そっと名を呼んで、彼女の髪を耳にかけてやった。「三年だよ。約束しただろ。ちゃんと三年経ったら、こっちに戻ってくる」

「分かってる」

「もしかしたら、俺が大儲け出来たら、陽子を東京に呼ぶことも出来るし」

「無理だよ。海斗くんは営業下手くそだもん」

「はは。そこは嘘でも上手っていってほしかったかな」


 陽子が顔を上げた。目元は真っ赤だった。濡れた目はゆらゆらと揺れている。西日を弾いて輝くそれは、昼間に見上げた海中の太陽のようだった。

 きらきらと煌めいて、泣きたいほどに綺麗だ。


「泣かないで」

「泣いてない」

「嘘つきだなぁ」


 海斗はほんの少し笑って、彼女の目元を拭った。



 バスが最後の停留所を行き過ぎていく。終着駅は目前だった。

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