海が太陽のきらり
湊波
Ocean 【2019年8月3日 H県T市 山本海斗と井上陽子】
「私さぁ、ユーチューバーになりたいんだよね」
「何バカなこと言ってるんですか」
日傘の下で、山本海斗はため息をついた。夏の日差しは容赦なく照りつけ、Tシャツに半パンの海斗の肌を熱気がジリジリと焼いていく。
夏真っ盛りの海辺だ。海辺であって、海水浴場ではない。この違いは重要だった。数時間前の自分に強く言ってやりたい。数年ぶりに再会したお前の幼馴染が言うところの『涼しい場所』は『岩だらけの浜辺』であって、『クーラーの聞いた図書館』でも『手入れの行き届いた海水浴場』でもない。
海斗は恨みがましい視線を隣に送る。岩場に腰掛けた幼馴染――井上陽子は、鼻歌交じりにスマホを弄っている。泳ぎの好きな彼女は、ついさっきまで海の中にいたのだった。そして海斗が里帰りして真っ先に出会ったのも、海の中で泳ぐ彼女だった。
額の汗を肩でぬぐい、海斗は日傘の柄を自分の肩に預けた。岩場に腰掛けた尻が痛い。眼鏡を押し上げれば磯の香りが鼻をつく。それに顔をしかめながら、皺くちゃの参考書に再び目を落とす。
「うわ、こんなところでも勉強すんの」
海の香がふわと漂い、海斗はぎょっとして横を見た。
ごつごつした岩場に手をついて、陽子が参考書を覗き込んでいる。先程まで海に潜っていた彼女の髪は首筋にぺたりと張り付いていた。湿り気を帯びた紺の水着から伸びる四肢は日に焼けていて、夏の日差しを弾いてぺかりと光る。
「はっはー、お前」海斗の視線に気付いた陽子が、ぺろと自身の唇を舐めて海斗を見上げた。「もしかして欲情しちゃった?」
「よ……っ!?」
「ぶはっ! 冗談だよじょーだん! そんなに顔真っ赤にすんなって!」
海斗の肩を叩いて陽子が身を離す。再び立ち上がった彼女は、すらりと長い腕を動かしストレッチを始めた。
その度に水着の下で動く胸元が目に悪い。日傘に隠れるようにしながら、海斗はずり落ちた眼鏡を押し上げる。
「……先輩は冗談が下手くそですよ」
「おおっ、言うねぇ、後輩くんよ」
「さっきの夢だって、そうじゃないですか」
「あれは本気だってば」陽子の声に不満げなものが混じった。「知らねぇの? ユーチューバーは今や小学生の憧れの職業ナンバー1なの。れっきとした職業じゃん」
「良い歳した高3が小学生の夢見ないでくださいよ。大体、そう言うからには動画撮ってるんですか?」
「撮ってる撮ってる。ほら」
日傘の向こうから、陽子の手がにゅっと伸びてきた。思わずのけぞる海斗の眼前で、彼女のアクアブルーのスマホが動画を映している。
海の動画だ。晴天の青空の下、轟くような音を立てて波が寄せては返している。ごつごつとした岩場に波が砕けて飛沫を上げていた。日本海を絵に描いたような海だ。目の前の海なのは間違いなかった。
海斗は目を瞬かせた。頬を掻き、口を何度か開け締めして、ええと、と呟く。動画の中で、カモメの間の抜けた鳴き声が一つした。
「……これ、ですか」
「そうそう! 先月上げたばっかなんだわ」陽子が興奮したように目を輝かせた。「癒やし動画は万国共通っていうからさぁ。言葉の壁も超えるって言うし」
「いや……癒やしって言うよりは、どう見てもサスペンスですよこれ。評価も全然ついてないし」
「そこはほら、海原だけにネットの海に埋もれてんだよ。世界はまだビックスターに気づいてない的なヤツ」
「はぁ……」
「タイトルは海な。yo-ko-の名前で検索してくれたら、私のアカウントでてくっから。フォローよろしく」
「…………」
「なんだよ、馬鹿にしてんのか」海斗をじろと見て、陽子が唇を尖らせた。「じゃあ分かった。なら賭けようじゃんか! 来年までに10いいね来たら私の勝ち。来なかったらお前の勝ち」
「いや、来年までに10いいね、って先輩の方が有利じゃないですか」
「底辺ユーチューバー舐めんなよ! 1ヶ月で1いいねつくかどうかも怪しいっての!」
頬を膨らませて陽子が腰に手を当てる。それは、海原どころか深海に沈んでしまったせいじゃないだろうか。そんな言葉を飲み込んで、少しでも陽子の機嫌をとろうと海斗は再び動画を見やる。
海があって、波音がして、最後に一つカモメの鳴き声。それでおしまい。
「……まぁうん、そうですね」動画が3回ループしたところで、海斗は目を逸らす。「せめて、oceanとかにしたらどうですか。海じゃ日本人しか読めないでしょ」
「ひゅう」陽子が顔を輝かせ、ぱちんと指を鳴らした。「いいね、それ。採用。スペル教えてくんない?」
「……o、c、e、a、n……」
「わー! ちょっと待って!! おー、しー、いー、えー……」
スマホがそそくさと日傘の向こうに消えていく。日に焼けた指先を思わず追いかようとしたところで、海斗は我に返った。諌めるように参考書をぐっと握る。いったい自分は何をしようとしているんだか。
気持ちを紛らわせるように、海斗は岩場の上で身動ぎする。尻が痛いと、ことさら意識して胸中で繰り返す。
カモメがまた、一鳴きした。羽ばたきと共に、二人の頭上を越えていく。
「なぁ海斗」
「なんですか」
「お前はなんか夢があるわけ」
「別に」
足元で海が岩に打ちつけ飛沫を上げる。照りつける太陽のせいで、飛んでくる飛沫も生暖かった。
「夢見る方がどうかしてると思います。俺は」手の甲に飛んだ飛沫をズボンの裾でぬぐい、海斗はのろのろと凶悪な数式の羅列に目を落とす。「仕事して、休んで、仕事して、おしまいでしょ」
「いやいや海斗くん」
「なんですか」
「おねーさんは悲しい」
「は?」
「いつの間に、そんなにやさぐれぷんぷん丸になっちゃったんだ……引っ越す前は、『よーちゃんよーちゃん、ぼくおいしゃさんになる』ってちょこまかしてたのに……」
「っ、幼稚園の話を持ち出すのはやめてくださいよ!」
海斗は思わず日傘を傾けた。降り注ぐ日差しを背負った彼女を見上げ、眩さに一瞬目がくらむ。
ぱしゃりと、カメラのシャッター音がしたのはその時だった。
「……は?」
「ふっふー! 海斗の写真ゲット!」
太陽に負けないくらいの弾けた笑顔を浮かべて、スマホを持った陽子がガッツポーズする。
その意味に一拍遅れて気付き、顔を真っ赤にした海斗は日傘と参考書を放り投げて立ち上がった。
「っ、消してください!」
「やだやだ! こんな可愛いもん消せるかっての!」
きゃあきゃあと騒ぐ陽子の手からスマホを奪い取ろうとするが、頭一つ分背の高い彼女はのらりくらりと海斗の手を躱す。それどころか、スマホを持っていない方の手で海斗の手首をぐっと掴んだ。
絡みつくような指の細さに海斗はどきりとする。けれど陽子が海斗を引きずるようにして連れて行った先に、彼は別の意味で悲鳴を上げた。
「ちょっ待……っ!?」
「はーい、海斗くんを海へごあんなーい!」
海斗が思わず目を閉じる。体が一瞬ふわりと浮く。次いで響く無様な水音。生暖かい海水が頭のてっぺんから爪先まで包む。
泳げないんだよ僕は! どんどん沈んでいく感覚に怖くなって、海斗は手をがむしゃらに掻いた。そこでぐいと、上方向に腕をひかれる。
海斗は目を開けた。次いで、口も開けざるをえなくなった。
夏の日差しで煌めく水面に、陽子がゆらゆらと浮かんでいる。日に焼けた肌も珊瑚のように赤い唇も、海に彩られて艷やかに輝いていた。
こぽりと、海斗の口から真っ白な気泡が漏れる。ふわりと浮かんだ水泡は、陽子の美しい肢体を撫でていった。それがひどくいけないことのような気がして、けれど海斗は目を離せない。
は、ともう一度、海斗は気泡を吐く。揺らめく光の中で、泡は陽子の唇をなぞる。
何もかも分かっているという風に片目を閉じた彼女は、唇に人指し指を当てて一つウインクしてみせた。
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