Marine day 【2019年12月23日 T都T区 山崎海斗と陽子さん】

 海斗さん、相変わらず変な趣味してますねぇ。からかうような笑い声に、山崎海斗はじろりと隣を見やった。


「変な趣味ってなんだよ、陽子ちゃん」


 陽子ちゃん。そう彼が呼んだのは、隣に座る女であった。

 茶に染めた癖毛を腰まで垂らし、海色のタイトドレスをまとっている。陽子ちゃんというのは源氏名だ。バーとキャバクラを足して居酒屋で割った店の、店長兼従業員でもある。


「その動画のことですよぉ」


 ウイスキーのロックを飲んだ彼女は、目だけで海斗のスマホを示して見せる。


「なんです? その陰気な動画」

「なにって海だよ」もう何杯目かも分からないビールで唇を湿らせて、海斗はやや声を大きくする。「いい動画じゃないか。海があって、波音がして、最後に一つカモメの鳴き声。うん、すごくいい。渋い。最高」

「いやいやぁ。海斗さん、ゼッタイ酔ってますってぇ。この岩場とか、犯人追い詰めてそうな場所じゃないですかぁ」

「日本海側の海はこんなもんなの!」

「やだぁ、火曜サスペンス撮り放題」


 からりと笑う陽子にムキになって、海斗は動画の高評価のボタンを勢いよく押した。あらあらと目を丸くする彼女に見せつけるように、海斗は勢いよくビールを飲み干してジョッキをテーブルに置く。

 隣に座った陽子が苦笑いする。


「海斗さーん。一気飲み良くないですよー」

「これが呑まなきゃやってられっかぁぁぁ!!!」

「肝数値気にしてたくせにぃー」

「それとこれとは話が別! ほら陽子ちゃん! ビール! もう一杯!」

「はいはいー」


 陽子はしょうがないなぁと言わんばかりに立ち上がった。カウンターをぐるりと回り、海斗と向かいあうようにしてサーバーの前に立つ。


 月曜日の午後七時。開店したばかりの店に、海斗以外の客はいない。そのせいか、グラスにビールが注がれる音がやけに大きく聞こえる。


「それにしてもぉ」陽子はサーバーを操作しながら、のんびりと口を開く。「ほんとに海斗さんがここまで飲むの珍しいじゃないですかぁ。お酒激弱なのにぃ」

「…………」

「どうしちゃったんですかぁ? まさか動画のせいじゃないでしょぉ?」

「……フラレたんだよ」

「そんなの今に始まったことじゃないでしょおにぃ」

「う、うるさいな! 今回は本気だったの! 事務方の新人の女の子! おっとり系で優しくて天使みたいな子だったの!」

「お、ちゃあんと私の助言通り、年下の子にしてるじゃないですかぁ」

「そうそう! そうだよ!」


 陽子からビールを受け取り、海斗は勢いこんで頷いた。陽子も自身のビールジョッキ片手に椅子を引き寄せ、海色のタイトドレスを揺らめかせながら腰掛ける。


「んんー? だったら問題ないはずなんですけどねぇー」

「うん、問題はなかった」

「およ?」

「全然全く、問題なし。陽子ちゃんの言う通り、会話のネタにも気をつけたし、さり気なく贈り物もしたし」

「やだ。海斗さんにしては完璧じゃないですかぁ」

「……でも、フラれた」


 海斗は肩を落とした。齢34歳のおっさんが情けないと思いながらも、アルコールは容易く海斗の涙腺を崩壊させる。

 ぐずと鼻を鳴らしながら、海斗は両手で顔を覆う。


「私はオシのために全生涯を捧げる覚悟ですのでって……!」

「……あー…………」


 陽子が何かを察したような声を上げた。ビールをちびりと飲む。


「そっかぁ……海斗さん、今回は二次ヲタを引当ちゃったかぁー……」

「なんなんだよオシってえええええ! 聞いたら知らねぇ財閥の男だし! なんたらっていう王家の血を引いてるとか、実は暗殺者だとか言い始めるしよおおおお!!! 生まれは鳥取、育ちは島根、日本海の荒波に揉まれて育った俺に勝ち目なんかないだろうがよおおおお」

「はいはい。海斗さーん」


 ぱんぱんと陽子が手を叩いた。

 海斗は鼻をすすりながら顔を上げた。陽子が神妙な面持ちでカウンターの上で手を組んでいる。


「いいですか、海斗さん」

「……ぐずっ……はい……」

「まずもって、男がびえびえ泣くもんじゃないですよぉ」

「うう……はい……」

「んでもって、海斗さんの女運の悪さは折り紙つきなのでぇ。そこも諦めてくださいってぇ」

「……ううううう……」

「返事は?」


 笑顔のまま低い声で陽子に問われて、海斗は慌てて姿勢を正した。


「はいっ……」


 首が外れんばかりの勢いで海斗が頷く。そうすれば、陽子が一つ頷いた。

 そして人差し指をぴんと立てる。


「ではここからが本題でぇす」


 綺麗に塗られた海色のマニキュアが、ぺかりと間接照明の光を弾いて輝いた。それが妙に綺麗で、海斗は思わず目を奪われてしまった。あるいはアルコールを飲みすぎていた。それも原因の一つだった。理由なんて上げればきりがない。


 けれど結果はたった一つだ。


 身を乗り出した陽子が、海斗の唇へついばむようなキスをした。


「っ……は……は……!?」

「いっそのこと、私にしちゃえばいいんですよ。海斗さんは」


 まつげが触れそうな距離で、陽子が悪戯っぽく笑う。

 海斗がやっと現実に追いついた。追いついたが、ろくに口を動かせもせず、でもとりあえず陽子から身を離さなければと思って椅子を後ろに引く。


 ちりんと店の入口の鈴が鳴ったのはその時だ。

 陽子がはたと瞬きし、海斗からひょいと身を離す。


「あ、お客さん」

「ま、ままま、待って陽子さん! ちょっと今のどういう、」

「はいはーい。こっからは通常営業ですのでねぇー。さよならですよぉ、海斗さん」

「えええええ……!?!?」


 海斗は慌てて陽子に追いすがる。




 彼が彼女に追いつくまで、後少し。


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