第5-2話 はじまりはバニラシフォン(2/4)
「まもなく横浜、横浜。お出口は右側です」
「The next station is Yokohama.JK12.The doors on the right side will open.」
アナウンスが終わる頃、電車が減速し始めた。
「横浜。横浜。ご乗車、ありがとうございます」
(考え事をしている場合じゃないや。今日は、ここで、一回めの乗り換え)
タイムスリップしていた頭を現在へ戻し、早都は座席を立った。下り階段に近いドアから、ホームに降りた早都は、
(早足で歩く人の流れに乗らないと…)
と、階段の中央付近を下りる女性をターゲットに定め、彼女の背中を追った。階段を下りたら、右方向へ進み、突き当たりのホームが目指す10番線。階段を上って、湘南新宿ラインに乗り換える。
湘南新宿ラインは、いつも混んでいる。週末でも、新宿まで、ずっと座れない可能性が高い。その日の湘南新宿ラインも混んでいた。辛うじて、つり革につかまることはできたので、それだけでも早都はホッとした。
(都会の人はもっと合理的かと思っていたけど、違うんだよね。男性が外で働き、女性は家を守る、というサザエさんの世界が、普通に存在するんだもん。そう言えば、入社した頃にも、いろいろ言われたんだった。「ご主人がいるんだったら、働かなくてもいいんじゃないか」とか)
早都の生まれ育った地方では、女性も働くのが一般的だった。自営業だったり、農業だったり、家業の手伝いをしている人も含め、ほとんどの人が何かしらの仕事をしていたように思う。女性の就業率が高い。
(そう言えば、少女漫画の中でも、ママは家にいる設定が多かったかもな……)
早都の意識は、ひゅ~っと、子どもの頃へ飛んだ。
小学生の頃の早都は、「なかよし」という少女漫画の月刊雑誌を愛読していた。雑誌の中には、ふんわりロングヘアで、瞳の中に星が輝いているかわいい女の子と、サラサラヘアで、スポーツ万能のイケメンくんが主人公のお話が、たくさん掲載されていた。お話の舞台は、ほとんどが東京だった。田舎育ちの早都は、少女漫画の世界で展開される、都会の生活に憧れていた。
(私だって、あの頃は、毎日手作りのおやつを作って、子どもの帰宅を待つママになりたい、と思っていたわよ。実現はしなかったけど……)
そんな早都の心を捉えたのは、恋愛要素満載のお話よりも、料理やお菓子作りというトピックが盛り込まれているお話の方だった。料理やお菓子のコンテストに挑戦するために試行錯誤している様子が描かれている連載漫画は、何度となく読み返し、味わったことのないお料理やお菓子の味を想像してみたものだ。
料理のアレンジに興味を持ったのは、早都の母親が、NHKの「きょうの料理」を熱心に観ていたことが、影響していたかもしれない。目新しい料理が食卓に並ぶことは少なかったが、ポテトサラダの隠し味が徐々に変化していったことを、早都はよく覚えている。酢、ケチャップ、洋カラシ…
早都の家には、「土井勝の家庭料理」という分厚い料理本があった。早都の母親の料理のバイブルだった。早都も時々ページをめくっては、食欲をそそる料理の写真の数々に、うっとりしたものだ。早都のバイブルは、お料理やお菓子のレシピが掲載されている漫画だった。「アイスボックスクッキー」や「シュークリーム」など、魅力的なお菓子の作り方が、イラストとともに紹介されていた。でもそれは、小学生の早都がチャレンジするには難しく、かといって、母親にリクエストするのも憚られるもので、「土井勝の家庭料理」同様、絵を眺めてうっとりするだけだった。
(あっ、でも、「茶巾ずし」だけは作ってもらったな~)
早都の頭に、鮮やかにある記憶が蘇った。それは、少女漫画に描かれていた料理を、母親にリクエストした思い出だ。お料理好きの女の子が作ったお弁当の「茶巾ずし」が、あまりにも輝いて見え、
(どんな味なんだろう?これなら、作ってもらえそうかな?)
と、運動会のお弁当にリクエストしたことがあったのだ。その願いは、意外にもあっさり受理されたのが、レシピは、早都が差し出した漫画のものではなく、「土井勝の家庭料理」に掲載されていた「ふくさずし」のものだった。でき上がりの形も「茶巾ずし」だったのは一つだけで、残りはもれなく「ふくさずし」だった。
「卵が破れて、うまく包めないから」
「ふくさずし」になった理由をそう説明されたように思うが、それでも、いつもと違うお弁当が、早都には嬉しかった。その出来事は、
(いつか自分で、「茶巾ずし」を作ってみたい。それに、お菓子も……)
という思いを、より強くしたように思う。
レシピが掲載されている雑誌をずっと大事に持っていた早都は、高校生になって初めて、雑誌のレシピに挑戦してみた。が、「茶巾ずし」を漫画のようにきれいに仕上げることはできなかったし、「シュークリーム」がうまく膨らむこともなかった。
(「シュークリーム」は、何度も失敗をしたなあ。漫画のレシピはもちろん、自分で買ったお菓子の本のレシピでも、成功したという友だちに教えてもらったレシピでも…。あの時、既に、手作りのおやつを作って、子どもの帰宅を待つママになる夢を、諦めてしまったのかな~)
思わず苦笑いしたところで、我に返ると、車内は、更に混雑度を増していた。ちょうど武蔵小杉駅を発車したところだった。
(新宿までは、まだまだ。それにしても、混んでるなぁ)
退職後の早都は、転職先を探しながら、「お菓子作りに挑戦しよう」と、思い立った。選んだのは、「シフォンケーキ」。学生時代には、高価で購入を断念したあの独特の焼き型を使って作る「シフォンケーキ」。数十年越しで、それを作ってみようと、決意したのだ。
(お菓子作りは、完全にご無沙汰してたけど、とにかくトゲを抜きたかったんだよね~)
早都は、まずは市立図書館へ行き、レシピ本を探した。書架にあるものから、何冊か見繕って椅子に座り、ページをめくってみたが、どれもぴんとこなかった。「作ってみたい」と思うものが、見つからなかった。ふと、「チューボーですよ」というTV番組でやっていた「シフォンケーキ」が、美味しそうだったことを思い出し、HPからレシピを印刷し、作ってみたけど、うまくいかなかった。YouTubeでシフォンの作り方を視聴し、再チャレンジしてみるけど、それもうまくいかない。
(これは、もう、習うしかないな)
そう考えた早都は、HPでお菓子教室を調べた。そして、たどり着いたのが、下川先生の「+シフォン」だった。
「+シフォン」では、ガレージセールを開催していた。土地勘のない早都は、「まずガレージセールに行ってみよう」と、決意した。ガレージセールは、大人気で、朝早く行かないと売り切れてしまうらしい。HPには、徹夜組もいるようなことが書かれていた。1月中旬の日曜日、早都は、夫と連れだってお店に行った。開店時間に間に合うように行ったが、すでに長蛇の列ができていた。列に並んでいるのは、ほとんどが早都と同年代に見える女性、中には子ども連れの人もいた。
開店時間になり、列が少し進んだところで、下川先生が声を掛けに来てくれた。
「たくさんの方が並んでくれているから、シフォンは1人8個まで。限定ものは、1人1個までね」
「65番と66番か。限定ものは、買えそうにないね。シフォンは、どうかな?」
夫と会話をしながら、順番を待っていると、買い終わって戻ってきた人が、早都たちの前に並んでいた女性に声を掛けた。
「おはよう。今日は、遅かったのね」
「うん、ちょっと出遅れちゃった。シュークリーム、買えた?」
「買えたよ。ほら」
そう言いながら、彼女は大きな袋の中を開けて、戦利品を見せていた。
「何番だっけ?」
「私は64番」
「限定ものは、全部で40個だから、64番だと難しいか…。買えなかったら、一口お裾分けするよ。公園で待ってるね」
「いいよ、いいよ。おうちで、ご家族とゆっくり食べて」
「他にもたくさん買えたから大丈夫。待っているよ。後でね」
「ありがとう」
公園へ向かうであろうその女性は、早都の少し後ろ女性にも声を掛けていた。
(皆さん、顔見知りっぽいな)
その日の限定は、「ザクザクアップルパイ」、「サックサク粉雪シュー」の2種類だった。残念ながら、それは手に入らなかったけど、シフォンケーキを10種類も購入できて、早都は満足だった。
「早起きした甲斐があったね~」
「まあ、よかったんじゃない。場所も、わかったし」
家に帰って、コーヒーを飲みながら、シフォンケーキを食べる。ふんわり、美味しい。子どもたちに好評だったのは「バニラシフォンケーキ」だった。早都は、「和シフォン 山桜」と名付けられたシフォンケーキに打ちのめされた。ふわふわで軽く、それでいてもっちり感もある、甘くてしょっぱくて、どんどん食べたくなるシフォンケーキ。
(絶対、このシフォンケーキを作れるようになりたい!)
それからの早都は、下川先生のHPをチェックするのが日課となった。1ケ月後に講座の申し込みが始まると、すぐに申し込みのメールを送り、なんとかバニラシフォン講座への申し込みを完了したのだった。
(そうだった。そんなこともあったなぁ)
口の中で呟きながら、早都は、ハッとして辺りを見回した。早都の左前の座席にいた人が、席を立った。早都の後ろを通っていく人もドアの方へ動き始める。
(ここは?)
早都は、急いでドアの上を見る。
(あっ、大崎か。新宿まで、もうちょっとある)
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