第5-3話 はじまりはバニラシフォン(3/4)
早都は、初めてのレッスン時に、下川先生を見て、思わず緊張が走ったことを思い出した。背が高く、スリムな体型、結んだ長い髪、黒いシャツにピタッとしたスリムパンツ、キュッと締めたカフェエプロン。長袖のシャツの袖を折り返し、颯爽と現れた下川先生には、「上下関係が厳しい世界で、生きてきました」という臭いを感じた。
(ガレージセールの時は、もう少し柔らかい雰囲気があったように感じていたのに、な)
(まずは、参加してみてからだよね~)
そうのんびり構えていた早都は、たじろいだ。
(しまった)
と、思った。そして、その予感は的中した。
その日のレッスンは、「+シフォン」初参加者向けのもの。それでも、下川先生の著書を持参している星さん、既に本のレシピで何度もシフォンケーキを作ってみたというルコ、お母さんが習っているという高校生のミニレモンちゃん、他のお教室では上達しなかったから来たというマッサン、それぞれに何らかの志を持って参加しているようだった。早都を入れて計6人の参加者のうち、唯一、ヤマちゃんだけが、早都に近い感覚で参加している感じだった。自己紹介を兼ねた挨拶の段階で、はっきりとそれに気が付き、何の準備も考えもせず、のこのこと参加したことを、早都は後悔した。
「ガレージセールの先生のシフォンケーキを食べて、感動しました。私も、あのシフォンが焼けるようになりたいです」
自己紹介でそう言った早都に対し、下川先生は、こう返した。
「私の作るシフォンと同じものは、作れないよ」
(えっ、そう来る?)
早都は、固まった。
(どう反応すればいい?)
早都が、逡巡していると、
「でも、練習すれば、家族においしいと言ってもらえるくらいのものは、作れるようになると思う。ここは、「シフォン道場」って言われているからさ。まあ、頑張れ」
下川先生が、言葉を繋いでくれた。
(「シフォン道場」???)
早都の表情は、ますます暗くなった。
受講生の自己紹介が一巡すると、
「今日作るバニラシフォンのレシピ」
そう言って、下川先生は、A4サイズの紙3枚に印刷されたレシピを配った。写真が豊富に使われているレシピが、全員の手元に渡るや否や、下川先生の説明が始まった。
「時間がないから、サクサク行くよ。まず、一通り説明する。それが済んだら、各自材料を量ってもらう。その後、デモンストレーション。で、各自、製作。いいね?」
下川先生が、受講生の顔をぐるっと見渡した。
「材料から説明するよ。まず、卵黄と卵白。何個分じゃなくて、グラムで書いてあるでしょ。卵1個分の卵黄は、大体20グラム、卵白は、およそ30グラム。でも、卵の大きさによって、多少グラム数は変わってくる。だから、ここでは、何個じゃなくて、正確にグラムで量って、作っていくよ。計量した卵白は、使う直前まで、冷蔵庫へ入れておく」
「薄力粉は、銘柄によってクセというか、特徴がある。教室で用意しているのは、「ファリーヌ」。家で作るときには、「ドルチェ」でも「スーパーバイオレット」でも、何でもいいよ。好みのものを使って、やってみて」
「それから、牛乳は、成分無調整のものを使うよ。あとは、サラダ油、グラニュー糖、バニラオイル。レモン汁を入れるのは、メレンゲの泡を安定させるため」
「材料は、こんなところ。質問は、ある?」
「先生、卵黄は冷蔵庫に入れなくていいんですか?」
ルコが、質問した。
「卵黄は、ラップをして、室温でOK」
「卵は、何を使っていらっしゃるんですか?」
星さんが、それに続く。
「コンビニで買ったプライベートブランドの卵。バス停のそばにコンビニがあったでしょ?サラダ油も、そこで買ったもの。そこまで、素材にこだわってない」
(以上だけど、何か?)的な口調で言い放つ下川先生に、質問した星さんが、ドギマギしている。下川先生が続ける。
「卵は、気に入ったブランド卵があれば、それを使ってもいい。油分も、サラダ油の代わりに、ごま油やなたね油でもいいと思うし、家で作るときは自由。好きな材料を使ってやってみたらいい」
「他に質問は?」
一瞬間を取って、下川先生は、また、話はじめた。
「なければ、作り方、行くよ」
ここからは、製作手順の説明が始まった。卵黄生地を作り、メレンゲを作り、卵黄生地とメレンゲを混ぜ合わせていく。生地が混ざったら、型に入れ、オーブンで熟成。焼きあがったら、瓶に刺して、しっかり冷ます。
一通りの説明が、終わった。
「自分の家でも、ちゃんと作れるように、ここでは、計量も一人ひとりやってもらう。それは、さっきも言ったか。ハンドミキサーを持ってきてもらったのも、その為。ハンドミキサーは、機種によって特徴があるからね」
「早速、計量。はい、これ卵、牛乳、粉、レモン」
下川先生は、業務用冷蔵庫から、次々と材料を取り出した。
「グラニュー糖はここ。あとは、サラダ油」
テーブルの中央に、材料が揃った。
「ボウルと型は、そこ。今日は、17センチの型ね。ゴムべらとホイッパーも同じ棚に入っているから、人数分取り出して」
「計量カップは引き出しの中。レモン汁を量るときは、50mlのを使って」
「キッチンスケールは、そっちの棚にあるでしょ。近くにいる人、人数分取って」
「ポリ袋も置いておくよ。粉とグラニュー糖は、ポリ袋を使って量ること」
「さあ、時間ないよ。手が空いた人から、量り始める」
そう言う下川先生は、すでに卵を手に、卵黄と卵白を分け始めていた。早都は、つい、下川先生の作業に見入ってしまう。ボウルをキッチンスケールに載せる。風袋引き機能を使ってメモリを0にする。卵の殻を半分に割って、片方の殻の中に卵黄を残すようにし、溢れた卵白をキッチンスケールに載せたボウルへ落とす。その後、卵黄を、入っている方の殻からもう片方の殻へ移しながら、卵黄のまわりについている卵白を、ボウルの中へ落としていく。これを、2〜3回静かに繰り返すと作業完了。分けた卵黄は、別の計量カップに入れておく。
(遅れをとってはいけない雰囲気だよね……卵黄と卵白を分けるなんて、めっちゃ久しぶりだけど、やるしかないか……)
慎重に卵にひびを入れ、殻を割る。ちょうど、半分くらいに割れた。
(セーフ。殻を割るのが、一番緊張する。ボウルに卵白を落としながら、卵黄をキャッチボールして、OK。次、次)
「計量が終わって、半端に余った卵黄、卵白は、それぞれこのカップに入れて」
卵黄・卵白を量り終えた下川先生が、卵白と卵黄の残りが入った計量カップを、テーブルの中央に置いた。
丁寧にやっていたら、時間がかかってしまっていた。早都が分離できたのは、やっと、1個分。
「そこ、遅い、遅い」
下川先生のチェックが入る。2個め、3個めを何とか分けたところで、キッチンスケールを見ると、卵白の重さは、レシピの重さに、あと5グラム足りなかった。
(次の卵を割っていると、ますます時間がかかる。余った分をもらおう)
「余った卵白は、ありませんか」
早都は、勇気を出して声にする。ヤマちゃんが、卵白の入った計量カップを手渡ししてくれた。そこから足りない分をもらって、ようやく、卵白の計量が完了。
(よし。次は、卵黄)
卵白のボウルをキッチンスケールから下ろし、空のボウルをキッチンスケールに載せた。選り分けた卵黄を、ボウルに移して重さを測っていると、またしても、下川先生のチェックが入った。
「卵白は、冷蔵庫」
「あっ、はい」
「はい」
返事をしたのは、早都だけではなかった。すぐに、ボウルを持って、冷蔵庫の方へ向かう。
「自分がどの位置へ入れたか、ちゃんと覚えておいて」
下川先生は、ポイントごとに的確な指示を出してくれる。同じタイミングで卵白を持ってきたヤマちゃんと、ボウルを入れる場所を確認する。
「私、右手前へ入れますね」
「私は、左奥」
急いで自席へ戻り、計量作業を再開。
(卵黄の続き。急がなくっちゃ)
これは、すぐに、量り終わった。
(ラップをして、次は、そうだな。今誰も量っていない、グラニュー糖を量ろう)
「そこそこ。そんな量り方じゃダメ」
キッチンスケールの上に、直接ポリ袋を載せて、グラニュー糖を量ろうとしていた早都に、下川先生が助言する。
「粉類を量るときは、まずボウルの中にポリ袋を入れ、0にしてから量る」
「あっ、すみません。ありがとうございます」
「そっちは、計量カップの目盛りを確認する位置が違う。ちゃんと目の高さで量る」
「わかりました」
ルコが、牛乳を量りなおす。
「ミニレモンちゃん、自分の分の計量が終わったら、みんなの分のレモン汁も量ってあげて」
下川先生が、ミニレモンちゃんに、レモン汁の計量をお願いしてくれた。
(ミニレモンちゃんは、もう終わってるんだ)
まだ、小麦粉と牛乳・サラダ油の計量が残っている早都は、焦った。
(やばいところに来ちゃったなぁ)
あくせくしながらも、早都が何とか計量を終えると、待ち構えていたように、下川先生が動き出した。
「じゃあ、デモンストレーションするよ。よく見ておいて」
「まずは、卵黄。ホイッパーでほぐす」
カシャ、カシャ、カシャ。
「水分。牛乳を加える」
「そして、油分」
「ここで、バニラオイル」
「最後に、粉。ふるって入れる」
材料を加えるごとに、ホイッパーで混ぜる音が、教室に響く。カシャ、カシャ、カシャ。シャカ、シャカ、シャカ。
「卵黄生地、完成」
「次は、メレンゲ」
卵黄生地の入ったボウルを傍らへよけ、冷蔵庫から取り出した卵白のボウルを、テーブルに置いた。ハンドミキサーを手にし、スイッチを入れる。
「初めは、低速で、ほぐすよ」
ハンドミキサーが、小さな音を立てる。
「小さい泡が全体に広がって、白っぽくなったら、高速に」
そう言うや否や、下川先生はハンドミキサーの速度を変え、本体を小刻みに動かし始めた。ハンドミキサーから出る音と、羽根がボウルに当たる音とが、教室に響き渡る。
「ボウルのふちに水っぽい卵白がついてしまいがちだから、羽根をボウルに当てながら、しっかり泡立てて」
早都は、下川先生の腕の動きとハンドミキサーの大音量に、圧倒された。
(なんか、激しい……)
目の前で繰り広げられる俊敏な動きと音の迫力に、早都が戸惑っている間に、すっかりメレンゲが出来上がってしまったらしい。教室には、静けさが戻っていた。
「こんな風に、しっかりと艶やかで延びのあるメレンゲ、ボウルを逆さにしても落ちない固さのメレンゲを作る」
ハンドミキサーの羽根で、下川先生が持ち上げてくれたメレンゲは、真珠のようにつやつやだった。
「この質感も、覚えておいて」
「そして、ここからは卵黄生地とメレンゲの混ぜ。混ぜ合わせは、リズミカルに。メレンゲと混ぜが、シフォンの出来を決めるからね。同じ材料を使っても、三者三様、十人十色のシフォンができあがる」
「じゃあ、混ぜに行くよ。まずは、3分の1、このくらいのメレンゲを混ぜる」
下川先生が、ゴムべらでメレンゲをすくい取り、すくい取った後のボウルの中を、受講生に見せてくれた。どこまでも均一なメレンゲの跡も、本当に美しかった。
すくったメレンゲを卵黄生地のボウルに入れ、混ぜ合わせる。シューッ、シューッ、シューッ、シューッ。ボウルの中を、ゴムべらが、なめらかに滑る。反対の手で、ボウルを操る。スッ、スッ、スッ、スッ。
「ゴムべらで混ぜると同時に、ボウルも少しずつ手前へ回転させる」
シューッ、スッ、シューッ、スッ、シューッ、スッ、シューッ、スッ。
「このくらい混ざったら、次の3分の1」
シューッ、スッ、シューッ、スッ、シューッ、スッ、シューッ、スッ。
「最後のメレンゲ」
シューッ、スッ、シューッ、スッ、シューッ、スッ、シューッ、スッ、シューッ、スッ、シューッ、スッ、シューッ、スッ、シューッ、スッ。
「混ぜ終わったら、最後に、ちゃんと混ざっているか、均一になっているか、確認する」
ボウルの中を、ゆっくりとゴムべらが走っていく。下川先生の目が、より真剣に、生地を見つめる。ここでも、下川先生は、生地を一すくいして、受講生に見せてくれた。プルンとした、美味しそうな生地。メレンゲとはまた違う、美しい表情を見せていた。
「よし」
うなずいた後、下川先生は生地をシフォン型へ流し込んだ。そして、ゴムべらを使って表面に模様をつける。出来上がりは、大輪のマーガレットの様だ。
「焼きに入るよ。170度のオーブンで25分。焼きムラが出ないように、途中で前後を入れ替えるからね。この入れ替え作業も、自分でやってもらう。忘れないように」
下川先生は、オーブンのタイマーをセットして、スタートボタンを押した。
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