第5-4話 はじまりはバニラシフォン(4/4)
「さて」
受講生の方に向き直った下川先生が問いかける。
「質問はある?」
誰も何も言わなかった。
「無ければ、早速、製作に入ってもらうよ」
みんなが、ざあざわし始める。
(この後の実習で「お菓子作りの才能がない」ってことを、改めて自覚したんだよね)
早都は遠い目をして一人苦笑いをした。
たくさんの人が電車から降りる気配を見せ始める。
(うん?今、どこ?)
すっかり5年前へ意識を飛ばしていた早都は焦った。「新宿」の文字がドアの上に見える。
(私も降りなきゃ)
早都は急いでドアに向かった。ここで、中央線へ乗り換える。人波をよけながら、階段を上って、下りて、中央線のホームまで早足で歩く。そして、すぐに入ってきた中央線の電車に乗った。この電車は、比較的空いていて、ゆったり座れる。
(実習も怒涛のようだったんだよなあ)
早都は振り返る。
「それぞれ、作り始めて」
下川先生の言葉に、実習生の製作が始まった。
(初めに、卵黄生地。卵黄をホイッパーで解した後、材料を加えていく。入れる順番は、水分、油分、バニラオイル、粉だったな)
手を動かす前に、早都は手順を思い出していた。
(大丈夫そう。さあ、ラップをはずして、卵黄から)
早都は卵黄をホイッパーでほぐしながら、チラッと周りを見る。ミニレモンちゃんは、もう粉をふるっていた。
(慌てない、慌てない。まずは、水分)
「もっとしっかりまぜて!」
下川先生の声がする。
(うん?私?)
少し力を入れてホイッパーを動かす。次に油分、そして粉。
(あれ?粉ふるいは、どこに置いて、使うんだっけ?)
粉をふるう時は、いつもペーパーを用意して粉をふるっている早都は戸惑った。あたりを見回すと、ヤマちゃんが、ちょうど粉を入れるところだった。
「次、粉!」
下川先生の言葉は、手が止まってしまっている早都に向かって、発せられたように聞こえた。
(粉というのは、わかってるんです。でも、粉ふるいの仕方がわからなくて……)
口に出せるはずもなく、粉が入った袋を手に左右に揺する。ヤマちゃんは、ボウルの内側とボウルの中に入れたホイッパーの針金部分を支えに粉ふるいをセットし、そこに粉を入れた。
(なるほど。そういうことか)
早都もチャレンジしてみる。
「バニラオイル、入れた?」
早都の頭上で、下川先生の声がした。
「あっ、忘れてた……」
思わず声に出して、バニラオイルの瓶を探す。
(先生が、さっき「粉」と声をかけたのは、私じゃなかったんだな。ちゃんと確認しなきゃ)
バニラオイルを混ぜた後、早都は、再度粉ふるいに挑戦する。ホイッパーとボウルを支えに粉ふるいをセットしようとするが、なかなか中点が見つからない。粉ふるいは、なんとなく不安定なままだったが、もたもたしていると、ますます遅れをとってしまう。思い切って粉を入れる。
(うまくいった!)
ホッとしたのもつかの間、ホイッパーで混ぜようとした瞬間に、粉が舞い上がり、テーブルに巻き散った。
「あっ、すみません」
慌ててタオルで粉をふき取り、今度は慎重にホイッパーを動かす。粉気が無くなったと判断した早都は、「粘りがでるまで混ぜすぎない」という下川先生の言葉を思い出した。
(混ぜすぎも、よくないんだよね)
早都はホイッパーを動かしていた手を止めた。と、すぐ、下川先生から指摘が入る。
「ほら、そこ、ボウルの縁に卵黄が残っている。混ぜ方が弱すぎる。しっかりと、ちゃんと混ぜる」
「はい」
早都が心地よく感じたのは、面と向かってアドバイスをくれる、下川先生の姿勢だ。
「仕事が溢れていたから焦ってミスしまったって、新人じゃあるまいし」
「混乱したって、何年この仕事やっているのよ」
ミーティングエリアで、上司2人が会話している。退職した部長に代わって昇進した女性部長とチーフだ。はっきりとは聞き取れないが、その内容は、おそらくそういうことだ。直接は言ってくれない。聞こえよがしに会話する。
その打ち合わせが、毎日の日課となり、徐々に内容も変化。
「最近また太ったんじゃないの?」
「今日の服装は、何?相変わらずセンスないよね」
やがては、家族のことにまで言及するように。
「お子さん、背が低いって言っていなかった?栄養が足りていないんじゃないの」
「料理も手抜きしてるっぽいし、何だか、ご家族がかわいそう」
(今日は、どんな会話が交わされているんだろう?)
2人の会話にビクビクし、自分をすり減らす毎日に疲れ切った早都は、退職を決意した。
その点、下川先生は明解だ。直球すぎて、グサッとくることもあるけど、どうすればよいかを直接言ってくれる。久しぶりに叱責を受けて、早都は、何故だか清々しい気分になった。
(そうだよね。陰でこそこそ噂されるより、面と向かって、言ってくれた方が断然いいよね)
卵黄生地ができたら、次は、メレンゲだ。冷蔵庫から卵白を取り出す。持参したハンドミキサーに羽根をセットし、低速で回転させる。
(そろそろ、高速にしても、いいかな?)
「まだ動かさない」
下川先生が、早都のハンドミキサーを掴み、動かそうとしていた手の動きを止める。
「そこも、まだ動かさない」
マッサンにも、声をかける。
「ミニレモンちゃんは、いい感じだね。最後、低速できめを整えて」
(ミニレモンちゃん、やっぱり、すごい。お母さんと、どれだけ作っているのかなあ?)
早都が、思いを巡らしていると、下川先生の声が響いた。
「卵白が羽根に絡んできたら、高速にして、手を動かす。ぼーっとしない」
「遅い!遅い!」
「力、入れすぎ。もっと軽く」
6人分のハンドミキサーの音に負けない大きさで、下川先生が叫ぶ。
「このタイミングで1回目の砂糖入れて」
「はい、大きく回す」
「底からしっかり」
「そこも、砂糖1回目入れていいよ」
「次、2回めのお砂糖」
「そっちは、ここから低速ね」
「あなたは、まだ2回め入れていないの?すぐ入れて」
「縁に水分が溜まっている」
「そろそろ3回めのお砂糖」
「低速で、きめを整える」
絶え間なく、それぞれの受講生に向かって、下川先生の指導が続く。正しく、「シフォン道場」だ。
「メレンゲができたら、混ぜ。3分の1から」
「もたもたしないよ」
「ほら、そこ。手首をかえさない」
「ゴムべらの入りが、あまい」
「空気を抱き込まないように」
ハンドミキサーの音がしなくなっても、下川先生のアドバイスはやまない。
「ちょっと、貸して」
下川先生は、ヤマちゃんのボウルを自分の前へ引き寄せ、何度か生地を混ぜ合わせた。
「これで、OK。型に入れて」
ボウルを渡されたヤマちゃんは、生地を型に入れ始める。
(私のはどうですか?)
の思いを込めて、早都は、下川先生の方を見た。
「まだだね。もうちょっと混ぜてみ」
身を乗り出して、早都のボウルの中を見た下川先生は、そう言った後、マッサンの生地を確認し、最後まで混ぜ続けている早都の隣に来てくれた。
「仕上げていい?」
「お願いします」
シューッ、スッ、シューッ、スッ、シューッ、スッ。
「これ以上混ぜると、生地が壊れる。はい、型に入れて」
「ありがとうございます」
下川先生の手にかかった生地は、わずかの作業でふっくら感が増したように見えた。
(神がかってる!)
早都は、感動しながら、慎重に生地を型に流し入れ、表面を整え、オーブンに入れる。
(ふうっ、終わった……)
早都は、オーブンの前で佇んだ。
「ほらほら、ぼんやりしない。洗い物、変わってあげて」
「はいっ」
「洗い物してくれている人も、時間を見て、前後を入れ替えるよ」
「はいっ」
オーブンに生地を入れても、「シフォン道場」は終わっていなかった。特訓は、まだまだ続いた。
(下川先生のセリフ、本当に、熱量があったなあ。まるで、岡ひろみを特訓する宗方コーチのように、パワフルでエネルギッシュ)
実習中は、そんなことを考えている余裕はなかったけれど、家に帰ってから下川先生の教えは「エースをねらえ!」の宗方コーチ張りに情熱的だと思ったんだ、と早都は思い起こした。
「サイドがあまい!」
「遅い!」
「もっと走れ!」
最後の仕上げは、シフォンケーキを型からはずしてのラッピング作業だった。ここでも、ミニレモンちゃんは抜群の手際の良さを見せつけてくれた。
(ミニレモンちゃんは、本当にいい教育を受けているな~)
「もう少しきれいにできないの?」
そう言うと、下川先生は見かねたように、早都のシフォンケーキを一切れ手にした。そして、それをシートの上に載せ、
「ここに置くでしょ。で、くるっと回転。右と左、しっかり筋をつけて折って、くるくる。最後は折り返してシールで止める」
いつの間にか、みんなも下川先生の作業に注目していた。
「わぁ、お店の商品みたいです」
「ラッピングすると、より美味しそうに見えます」
次々に、感嘆の声が上がる。
「上手にラッピングすると、見栄えも違うでしょ」
「そうですね」
早都は、自分が包んだシフォンケーキと下川先生が包んでくれたそれとを見比べて、ため息をついた。
(全然、違うなぁ)
また、トゲが刺さってしまった。今日習うことで、上手にシフォンケーキが焼けるようになって、挽回しようと思ってきたのに、更に厳しい現実を思い知らされただけだった。早都は途方にくれた。
(私って、こんなに手際が悪かったんだ。それに何もわかっていなかった……)
「下川先生は厳しいけど、誰でも絶対うまくなれるって、紹介してもらったんです」
帰り道、マッサンがそう話してくれた。
「そんな気はします。でも、全然上手にできなかったし、ついていけるか心配で……」
弱気な早都にマッサンとヤマちゃんが続ける。
「一回では無理ですよ」
「そうですよ。習い続ければ、きっと大丈夫です」
「今日は受講生も初対面同志だったから、余計に緊張した部分もあると思いますよ」
「一緒に頑張りましょうよ」
意欲的な二人に、早都も自然と前向きになれた。
「お二人が頑張るのなら、私も頑張ろうかな。また、ご一緒できたらいいですね」
(そんなおしゃべりをしながら、このバス停まで歩いて帰ってきたんだった。懐かしいなあ)
早都にとって、前の会社に勤務していた時代は、ちょっとした黒歴史。封印してしまいたい過去だ。千沙ちゃんに質問されて、キュッとなったのは、「+シフォン」に通い始めたきっかけがそこにあること、そこで刺さったトゲによる傷がまだ癒えきっていないこと、そこで働いていたことすら未だにあまり思い出したくないことだからだ、と納得した。
(もちろん、他にも塗り潰したい時代はあるけど、ね)
最寄りのバス停に降り立った早都は、軽く深呼吸をしてバッグを肩にかけ直した。「+シフォン」は、すぐそこだ。
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