第5-1話 はじまりはバニラシフォン(1/4)

  今日は「おうちカルチャー」無間地獄始まりの地、「プラスシフォン」でのレッスン受講日だ。目的地は高円寺。昨晩のうちに乗り換え案内アプリで検索しておいたルートを頼りに移動する。電車の乗り換えは2回、高円寺からはバスも利用する。順調に行けば、「+シフォン」の最寄りのバス停にレッスン開始20分前に到着する予定だ。余裕があまりない設定なので、電車に乗り遅れるのはもちろん、電車が少しでも遅延していれば開始時刻には間に合わない。改札口で電光掲示板と時計を確認し、改札を通り抜ける。

(よし、間に合った。後は時間どおり運行していますように…)

 早都さとはホーム行きのエスカレーターに乗りながら、掲示板に遅延情報が流れているんじゃないかとドキドキしていた。

「危ないですから、黄色い線までお下がりください」

 ホームには男性の声のアナウンスが響いていた。これは2番線のアナウンスだ。

「まもなく○番線に△△行きの電車が参ります」

 この部分が聞き取れなくても、声が男性のものか女性のものかが判れば、入ってくる電車を判別できる。

(このアナウンスが聞こえるってことは、乗る電車が入ってくるっていうことね。順調、順調)

 ホームに着いた早都は、横浜駅での乗り換えがしやすい乗車位置で電車を待つことにした。そこには、既に男性が2人並んでいた。右側の男性は、黒いナイロン生地とナチュラルレザーとを組み合わせたブリーフケースを手にしたスーツ姿のサラリーマン、左側に立っているのは、白のパーカーにデニムパンツ、マンハッタンポーテージのボディバッグをたすき掛けにした大学生と思しき男性だった。早都は息子と同じような服装をした左側の男性の後ろに並んだ。

 程なくしてホームに電車が止まった。開いたドアから、小さな女の子を抱っこした女性が降りてきた。それと同時に、待っていた男性2人が乗り込む。早都も続いて乗車した。車内を見回すと、ロングシートの端っこの席はすべて埋まっていた。スタンションポール横の座席が空いていたので、早都はそこに座った。

(よしよし、予定どおり)

 早都は大きめのトートバッグを膝に載せなおし、安堵のため息を一つついた。

(それにしても、今日は荷物が重いな~。ハンドミキサーが入っているから仕方ないか……)


 受講生が持参する物は、お教室やレッスン内容によってさまざまだ。「+シフォン」では、普段使用しているハンドミキサーを持っていくことになっている。


 「2番線のドアが閉まります。ご注意下さい」

 静かに電車が動き出した。見慣れた窓の外の風景を眺めながら、早都は、ふと昨日の出来事を思い出した。

千紗ちさちゃんの質問で感じた胸の奥が疼くように感じ、あれは何だったんだろう)

 早都は電車に揺られながら、記憶を呼び起こした。


 「ところで、早都さんは何がきっかけでお教室に通い始めたんだっけ?」

 千紗ちゃんとの何気ない会話の中で投げかけられた問い、

(初めに通い始めたお教室は「+シフォン」なんだよね。そう言えば「+シフォン」のレッスン、初日には先生のおうちを見すごし通り過ぎてしまって遅刻しそうになったっけ。胸が痛むように感じた理由って、まさかそれではないよね)

 早都は一人でクスッと笑ってしまった。 

(あれから、彼此5年も経つんだ……早いなあ)


 5年半前、早都は陰で言われる噂話の気配に耐えきれなくなり、10年勤めていた会社を退職した。その空気を作ったきっかけは、早都が起こした仕事上のミスだ。事件後、毎日のように耳に届く噂話の内容はミスした仕事のことだけに留まらず、早都自身のこと、ひいては早都の子どもに関することなど際限がなかった。いくつものトゲが早都の心を突き刺した。その会社に入社してから徐々に増え続けていたトゲの数、いたたまれなくなった早都は心にいくつかのトゲが刺さったまま、その会社を退職した。


 退職後、時間に余裕ができた早都は深く刺さった太いトゲの1つを思い出した。それは、子育てを含む家事に関すること、炊事についてのトゲだった。


 「2日続けて、夕ごはんがカレーなんてありえない」

 10歳年下の専業主婦の奥さまと暮らしているという50代の部長が言い放った。

「子どもは喜ぶかもしれないけど、あり得ないね」

 部長以外のメンバーは全員女性だったが、早都を擁護してくれる人はいなかった。

「せめて、アレンジしてカレーうどんにしたりしないの?」

「カレーシチューにするとか…」

 早都と同世代、中学生の娘がいるチーフと、親と同居している後輩の女性が部長に同調する。

「手を加えずに、そのままカレーですが」

「それは、ないな」

「ちょっと可哀そう」


 「お子さんたちは、ママが焼いたケーキを食べたことがないの?」

「子どもが生まれてからはケーキを焼いたことはないです。スポンジケーキを買って、生クリームと苺でデコレーションしたことはありますが……」

「えっ、もしかして、お子さんたちはママの手作りクッキーも食べたことがない?」


 「冷凍餃子を買う人が本当にいるんだ。冷凍ものの餃子、私は食べたことがないし、子どもにも食べさせたことない」

「うちも、冷凍食品は使わないようにしてる。子どももお弁当に入れて欲しくない、って言っているし」


 カレーはたっぷり作って2日続けて夕食のメニューにする。手作りおやつはほとんど作らない。餃子や揚げ物は冷凍ものを調理するかお惣菜を購入、という早都に対するダメ出しの嵐。入社して数年経った頃のお酒の席での出来事だったが、テーブルに同席した全員から扱き下ろされたのは辛かった。(あの頃から違和感が膨らみ始めたんだよね)


 その頃の早都には、余裕がなかった。特に下の子が生まれてからは、食事の準備は時短を優先してしまっていた。常勤の仕事をしながら、手作りの食事を、しかも毎食違うメニューで用意するのは早都の能力では無理だった。メニューは簡単に作れる炒め物が多かったし、冷凍の総菜も活用していた。宅配サービスで購入している「秋田牧場」の「チキンナゲット」や「ニッコウ」の「豆腐入り鶏肉団子」は子どもたちが保育園へ通っている頃からヘビーローテーションしている冷凍食品だ。美味しくて飽きないので今でもお弁当のおかずとして重宝している。

(「素材に気を使うことで良し」としている部分もあったことは否定しないけど……)


 「カレーが2日連続なんて当たり前よ。3日目に突入ってことも稀にある」

「今どきは、子どもたちが好きなおいしい冷凍食品もたくさんあるよ。お弁当の日には、ちくわの磯辺揚げとか、占いグラタンのリクエスト率が高いもん」

「お惣菜買ったり、外食したり、全然問題ないよ」

「うちの母は、食事はもちろん、誕生日のケーキも全部手作りだった。私も子どもの頃から一緒に作っていたからある程度のことはできるけど、今はとにかく時間がない。娘と一緒に何かを作る時間なんて、全く持ててないし、料理も一から完璧には作ってないよ。もちろん、バースデーケーキも」

 保育園のママ会では、早都に同情する声が溢れたが、刺さったトゲは微かに細くなっただけだった。ママ友と過ごす時間よりも会社で過ごす時間の方が圧倒的に長かったからだ。


 「週末に副菜を作り置きしておけばいいんじゃない」

「作ったものを冷凍しておけば、一汁三菜もクリアできるでしょ」

「コロッケも時間のある週末なら作れるよ」

 親切心で教えてくれる炊事の手ほどきも、早都には受け入れがたいアイデアが多かった。平日もそれなりに頑張っているのに、

「休日には時間があるんだから、平日以上に家事を頑張れ」

 と言われているようで、気持ちが萎えた。子どもたちが小さかったあの頃は、

(せっかくの休日なんだから、家族と一緒に時間を過ごしたい)

 という思いの方が強かった。夫と子どもたちが遊んでいる中、一人で長時間キッチンに立って料理を作る気持ちには到底なれなかった。

(「週末作り置き生活」って、何?)

 それは、何度提案されても反発心が芽生えるだけのハウツーだった。


 (何だか、嫌なことを思い出しちゃったな)

 無意識に顔をしかめてしまった早都の耳に、電車内のアナウンスが聞こえてきた。

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