第1-1話 今日のレッスンメニューは小籠包(1/4)

 風が心地よく感じられるようになった3月下旬の火曜日、有給休暇を取った原田早都さとは、いつもの出勤時間よりも10分早く家を出て、横浜の端っこから電車を乗り継ぎ、東京メトロ副都心線沿線までやってきた。

 今日の目的は、「点心教室 ICHIPAOBAいーちーぱおば」のレッスン受講。初レッスンにして第一希望の「小籠包」が受講できるとあって、早い出発時間や長時間の電車移動もなんのその。早都は、昨晩から心を踊らせっぱなし。何を着ていこうか、バッグはどんな大きさのものがいいか等々、それはまるで遠足前夜の小学生のようだった。

 迷った挙句に選んだのは、白いTシャツに薄手のチェックのシャツを重ね着し、インディゴのガウチョパンツを合わせたスタイル。外はまだ肌寒かったので、アウターにベージュ色のコートを羽織った。お持ち帰りの小籠包対策(自分で作った小籠包は持ち帰ることになっている)として、バッグはキャンパス地の大きめのトートバッグにした。

 目的地の氷川台駅でおよそ1時間半乗った電車を降り、地下鉄の改札を抜けたところで、もう一度、コートのポケットからスマートフォンを取り出し、お教室までのルートを確認した早都は、駅の階段を駆け上がった。


 早都が「点心教室 ICHIPAOBA」を知ったのは、「お菓子教室 プラスシフォン」のレッスンで、偶然、佐和さわ先生に会ったことがきっかけである。「お菓子教室 +シフォン」で点心教室の話を聞いた時には、小籠包が家庭でも作れるなんて、すぐには信じられなかったし、「シフォンケーキ」もまだ習い始めたばかりの頃だったから、

(点心のレッスンを受けるのは、ちょっと無理だな)

と、点心教室の話をスルーしていた早都だったが、転機は、ある日やってきた。

 早都が、横浜中華街で食事をした時のことだった。珍しく家族全員が揃っての食事、目の前で美味しそうに炒飯や酢豚、エビチリなどを頬張る姿を見て、早都はふと佐和先生の点心教室のことを思い出した。そして、

(中華が大好きなこの人たちに、手作りの点心を振る舞ったら、最高の笑顔が返ってきそうだ)

と想像してしまい、その瞬間から、無性に点心が習いたくなってしまったのだった。

(もしかしたら、冷凍餃子で刺さったトゲの傷も癒えるかもしれないし……)


 「佐和先生の点心教室は人気だから、どのレッスンも予約開始日にほぼ満席よ。2ケ月ごとにある予約開始日を狙わないとレッスンの予約は難しいと思うわ」

 「お菓子教室 +シフォン」の下川しもかわ先生は、そう言っていた。一刻も早く点心を習いたくなっていた早都は、

(次の予約開始は、いつだろう?)

 佐和先生に教えてもらったHPを、ほぼ毎日欠かさずにチェックした。レッスンの申し込み状況を確認し続けること3週間、偶然「小籠包レッスン」にキャンセルによる空きを見つけ、申し込んだのが今月の初め。そして、今日が待ちに待ったレッスン当日。そういう訳で、早都の心も大いに弾んでいるのだった。


 「お菓子教室 +シフォン」では、佐和先生も受講生の一人のとして、レッスンを受けていた。

 「お菓子教室 +シフォン」のレッスンは、いつも緊張感にあふれている。シフォンケーキのおいしさには製作時間の長さも関わってくるから、製作中はひと時も気が抜けないというのが理由の1つ。そこに、下川先生の「美味しいシフォンケーキ作りを伝えたい」という真剣な思いが加わり、張りつめた空気感を生んでいるのだと思う。

 「私の手の動きをよく見て」「発言は一言も聞き漏らさないでよ」「目や耳、鼻、五感を働かせて」と言う下川先生の心の声が聞こえてくるような、ピリリッとしたレッスンが繰り広げられている「お菓子教室 +シフォン」。受講生はみんな、硬い表情でレッスンを受けている。そんな中にあって、佐和先生だけは始終和やかな雰囲気を醸し出していた。

(佐和先生のおかげで、あの日のレッスンは、お教室の空気がいつもよりほんの少しだけど和らいだ感じがしたんだよね…… 小籠包の作り方はもちろんだけど、佐和先生がどんなレッスンをするのかも楽しみの一つなのよね。わくわくするな)


 歩きながらも頭の中で喜びを反芻していた早都は、歩く速度がだんだん遅くなっていたようだ。

(いけないっ。急がないと。結構ぎりぎりの時間になってしまっている)

 早都はスマートフォンでお教室までのルートを再確認し、道を急いだ。

 すぐ先の角を右に曲がって、駆け足で直進すること5分、お教室に着いた早都は、張り切ってインターホンを押した。

「どうぞ」

 佐和先生がドアを開けながら、丸みのある柔らかい声で早都を招き入れてくれた。化粧っけのない笑顔は「お菓子教室 +シフォン」で会った時と同じだ。「ブランド物には興味が無い」というアラフォー世代の佐和先生、今日は、白いトレーナーにチノパン、浅黄色のエプロンというスタイルだ。長い髪を後ろでキュッと結んでいる。

 「おはようございます。原田です。よろしくお願いします」

「さあ、入って」

 上がり框の先には、色とりどりのビーズが縫い付けられたアジアンスリッパが、1足だけ用意されていた。壁にはたくさんのミニチュア飲茶が、飾られている。直径2cmほどの蒸籠の中に、リアルな小籠包や蝦餃子、焼売、肉まんなどが入っているインテリア。すごくかわいくて、そしておしゃれだ。佐和先生の趣味の良さが感じられて、早都は嬉しくなった。

「こちらの部屋が控え室になっています。荷物を置いてエプロンを着けたら、手を洗って、奥のレッスンルームへお願いしますね」

 そう言って、佐和先生は奥の部屋へ消えていった。

 

 控え室には、先客が一人いた。屈んでエプロンの紐を結んでいる後ろ姿を見て、早都は

(子どもたちが通っていた保育園の、夏木先生みたいな人だな)

 と、思った。


 早都は、初対面の人に会った時、まず、その第一印象が知り合いの誰に似ているかでタイプ分けしてしまうクセがある。タイプ分けの基準は、服装だったり、装飾品だったり、髪型だったり、体型だったり、ちょっとしたしぐさや話し方だったり、様々だが、やはり全体の雰囲気が、決め手となっている。タイプは、早都が親しくなった人の数だけある。最初は〇〇さんタイプの△△さんというように他の人のタイプに属していた人も、親しくなると独立して△△さんとなるので、そのタイプは、早都の年齢とともに、どんどん細分化されてきている。


 第一印象 夏木先生タイプさんと目が合った早都は、

「今日は、よろしくお願いします。この籠を使ってもいいですか?」

 と話しかけ、一呼吸おいてから、籠に荷物を入れた。早都が、コートを脱いでいると、

「初めてのレッスン受講ですか?」

 準備が終わって立ち上がった夏木先生タイプさんが、早都に問いかけた。早都は、夏木先生タイプさんの方を向いて頷いた。

「コートはハンガーにかけるといいですよ。ここは、動画の撮影もOKなので、スマホも忘れずにレッスンルームに持って行ってくださいね」

 夏木先生タイプさんが、色々と教えてくれた。屈んでいる時はわからなかったけれど、今日の夏木先生タイプさんはミモレ丈のフレアスカートを穿いていた。

(今日はスカートだけど、ジャージ姿も似合いそう。元気な声で子どもたちを先導する姿が、目に浮かぶ。第一印象どおりだ)

 早都は夏木先生タイプさんにお礼を言って、そのアドバイスどおり、コートをハンガーに掛け、エプロンのポケットにスマートフォンを入れ、その後を追うように洗面所へ向かった。


 早都が手を洗ってレッスンルームへ行くと、佐和先生と3人の受講生が、既に着席していた。佐和先生の右前の席が空いている。

「原田さん、ここへどうぞ」

 佐和先生が、その席に座るように促してくれた。

 レッスンルームにある大きなテーブルの上には、6人分のクッキングマットが敷かれ、それぞれのクッキングマットの中央には「小籠包」のレシピ、その右側に麺棒とスケール、スケールの向こう側に水の入った計量カップが置かれていた。スケールの上には、カードが載っている。テーブルの中央には、調味料の入った小さなボウル、ネギが入ったボウル、手袋、ゴムべらが、3つずつ用意されていた。他にも材料の入ったボウルが、いくつかある。

「失礼します」

 まわりの受講生に軽く会釈をし、椅子に座ろうとした早都に、佐和先生が言葉を続けた。

「飲み物は、セルフでお好きなものを入れてくださいね」

 佐和先生の視線の先には、ウォーターサーバーのコーナーがあり、夏木先生タイプさんが、飲み物を準備していた。早都が、ドリンクコーナーへ近寄っていくと

「あっ、どうぞ、どうぞ」

 夏木先生タイプさんは、早都からドリンクコーナーが見えやすいように、身体をずらしてくれた。用意されていたのはコーヒー、紅茶、緑茶、ジャスミン茶、とうもろこし茶。早都は、色々ある中からとうもろこし茶のティーバックを選んで、お湯を注いでから、席に着いた。

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