第3話 1歳

 仕事をしないで一日中ゴロゴロと寝ていてよい。三食昼寝、夜泣き付き。料理をしなくても、ご飯を食べさせてくれる。

 おねしょをしても怒られない……いや、それは良いことなのか? とも思うけど、何もしなくても良い。


 最高の環境!


 どうやら、私は記憶を持ったまま、人生をやり直しているらしい。


 まず、私の名前は、エステルらしい。外人っぽい名前だった。


 お母さんの名前がルツで、お父さんの名前がパウロ。

 この家は、大きな家で多くの人が住んでいる。祖父母、曾祖父母、高祖父母も一緒に住んでいる。もっと言うと、どうやら、お父さんのお父さんのお父さんのお父さんのお父さんのお父さんも住んでいる。周りからは、長老と呼ばれている。

 私の感覚だと、そんな人は遠いご先祖様で、江戸時代とかもっと昔の人であろう。生きている筈がない。だけど、普通に元気だ。いちばん年を取っている人でも、80歳くらいの外見だ。お父さんやお母さんが長い銀髪であるのに対して、長老は白髪の長い髪。顔には生きた年月の経過を思わせるほど皺がある。


 つまり、どういうことか?


 私の知識で思い当たるのは、この人達はきっと、エルフと呼ばれる人たちだということ。

 耳が長い。

 みんな美男美女。

 みんな家に帰ってきたときは、背中に弓矢を背負っている。

 そして、お父さんのお父さんのお父さんのお父さんのお父さんのお父さんも普通に生きているという長寿。


 エルフで間違いないと思う。


 一体どういうことなのか。何が起こったのかは良く分からない。だけど、目の前の現実を受け入れるしかない。


 そういうわけで、もう一年くらい赤ちゃんやっています。人間は、慣れる生き物だと言うけれど、三日くらい赤ちゃんやっていたら普通に慣れた。


 一年間も赤ちゃんをやっている私は既に赤ちゃんのベテランだ。二度目のあかちゃん。人間であったときのあかちゃんの記憶はないのだけど二度目の赤ちゃんライフ。

 誰もが一度しか経験できないことを二度経験している。経験値も人より二倍だ。

 私くらいのベテランになると、お漏らしした時と、お腹が空いたときの泣き声を使い分けるくらい、朝飯前だ。


『おぅぎゃー』が、お漏らしした時で、『おっぎゃー』は、お腹が空いた時。

 どやっ! 


 そして、私のお母さんであるルツさんは、ちゃんと私の泣き声を聞き分けてくれる。どうも、パウロさんには分からないらしい。パウロさんや……違いが分かる男になってくれよ。そして、父になる。


 ・

 

 1歳になった私の行動範囲はかなり広がった。つかまり立ちが出来るようになって、一人歩きもできるようになった。ハイハイしか出来ないときは、いつもお母さんの目が届くところにいて、何処かに行こうとすると直ぐに連れ戻されてしまった。だけど、お母さんも私が無茶をしない賢い子どもだと分かってきたらしく、『おとなしくしていてね』と言って、私のご飯を造りに台所に行ったりする。


᾿Εσθὴρエステル。もうすぐご飯ですからね〜』という趣旨のことをたぶん私に言った。まだ、私もみんなが話している言葉を全部理解できるわけじゃない。 

 だけど、だいたい雰囲気で分かる。毎日、このあとご飯が出てくるしね。


 母が私から目を離した。


 かねてから計画していたことを実行する時がきた。今日の私の大冒険は、家の外に出るということ。箱入り娘として可愛がっているせいか、実は私の記憶にある限り、この家から出たことがない。

 木造の家。木製で統一されたインテリア。すべてが木製の家。簞笥には細かい文様などが彫られていて、年代物のアンティークとして価値が高いだろう。

 だけど、一年同じ部屋に閉じ篭もっていたら飽きるよね。

 私は母親が目を離した隙に、家の外に出てみる。もちろん、危なそうだったら、引き返して家に戻るつもりだ。


 扉を押す。幸いなことに鍵は掛かっていない。私が上半身の体重をかけると、扉は動き出した。扉が開いた。


 家の外は通路になっていた。まるで吊り橋みたいな通路だ。木の蔓で作られた手すり。地面があるのだろうと思っていたが、家の外を出たら吊り橋の上のような場所に出てしまった。

 景色? 碧い空しか見えない。ここは何処なのだろう? 吊り橋のような場所には手すりはあるのだけど、落下防止の柵とかはない。私の体の大きさだと、隙間から簡単に落ちてしまう。手すりも私には高くて、手を伸ばしても手すりには届かない。

 私は、ハイハイをして慎重に縁へと移動する。


 高っ……。


 吊り橋の下は、まるで絶壁の崖。スカイツリーの展望台から下を見たときよりも高いような気がする。地面が霞んでいる。そして、眼下には碧色の森が広がっている。


 どうやら私の家は、スカイツリーの展望台くらいの高所にある家らしい。夢の高層階! 夏に窓を開けっ放しにしても、蚊とか虫とかが入って来ない! やったね!


 って、恐い。高所恐怖症だったら、外出できないような場所に家がある。


᾿Εσθὴρエステル


 私を呼ぶ慌てた声が聞こえ、私は抱き抱えられた。どうやら母は、私が脱走したことに気付いたらしい。

 そしてぎゅっと私を力強く抱きしめる。ちょっと痛い。いつもの優しく抱き抱えるのとは違う。


 もしかして、脱走して怒らしてしまったのか……と思って母の顔を見上げたらそうじゃないようだ。涙ぐみながらも安心しているような顔だ。

 私のことを心配してくれている。私が落ちてしまわなくてよかったと思っていてくれているのだろう。私は母に愛されている。

 私も軽率な行動をした。これは反省しなきゃならない。猛省だ。

 

 そう反省しながら母親の顔を見上げていたら、私と母の遙か頭上に葉が生い茂っていた。空を覆い尽くすような勢いで枝が伸び、葉が生い茂っている。


 もしかして、ここは大きな木の幹の途中なのか? いま私がいる場所は、スカイツリーの展望台並に高い場所であるのは間違い無い。だけど、さらにその上がある。雲を突き抜けて、幹が伸びている。富士山よりも高い? いや、もっと高い。


 そんなことありえるの? 樹木は高くなりすぎると、落雷が落ちやすく、木の高さというのは一定以上大きくなれないと聞いたことがある。いや……すでに雲よりも高いから、雷雲とか関係がないのだろうか?


 開いた口が塞がらないというのが相応しい光景だ。我が家は、とてつもなくでかい木の幹に建てられているらしい。


 母が、私が大木を見上げているのに気付いたのだろう。私を大事に片手で抱き抱え、


「Δάφνη.  Δάφνη.  Δάφνη.」と言って、左手の指で大木を指差している。


 初めて聴く単語で正確な意味は分からない。

 でも、この大木に相応しい言葉を私は知っている。きっとこの樹木は、ユグドラシルとか、世界樹だとか、そんな風に呼ばれる木であるのだろう。


 どうやら、私の家の住所は、『世界樹の幹』なようです。

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