第4話
八月二日、午前七時。
歯磨きを終えてリビングに出たわたしを見て、目をまるくした母が言った。
「倫子、どうしたの。今日って登校日だった?」
「ううん、違うけど・・・学校に用事」
制服姿のわたしはダイニングテ-ブルの椅子に腰掛けた。
「あ、ごめんね、朝食は父さんのお弁当の残りでいい?」
あんたがこんな時間に起きてくるなんて思わなくて、と母は準備をしながら言った。
「寝入りがいいもんで、朝も気持ち良いの。買ってもらったマウンテンバイクのおかげだよ。ありがとうお父さん」
わたしはお向かいに腰掛けて朝食を食べる父にウインクをしてみせる。
父は微笑んでうなづいた。
「いってきます」
「お弁当はいらないのね?」
「うん、たぶん午前中かお昼には戻れると思うよ」
わたしはポケットから鍵をだし、通学用自転車に差し込んだ。
この子に乗るのも久しぶりだ。
いくらわたしだって、流石にセ-ラ-服姿でマンテンバイクに乗るわけには行かない。
学校が始まれば当然この子に乗って通学する事になるし、今日はどうしたってこれでなければならなかった。
今日もまた全開で鳴いているセミさんたちの声援を受け、わたしは学校、いや、あの坂へと向かった。
キッ
小気味いいブレ-キ音をたてて、100度の坂の前で止まる。
時間は午前八時二十分。
坂の下の道にはもう数台の工事車両が来ていて、フロントガラスに足を投げ出して寝ている作業員の姿も見える。
普段なら正門へとつづく長い坂をヒ-コラ泣きながら登っているこの時間。
三十分になると門が閉められ、それ以降は生徒手帳に校長の判を押してもらわなければ教室へは入れない。
ただ、この「100度の坂」を登りきれば話は別だ。
ここを昇れば、5分もせずに本来は徒歩通学者のみが使用する裏門のすぐ横に出ることが出来る。
そこから自転車置き場とはもう目と鼻の先だ。
最後の勝負。
わたしはぐん、と伸び上がり右足のペダルに全体重をかける。
さすがにマウンテンバイクのようには行かないけれど、この子のメンテも昨晩きっちり仕上げてある。
わたしと相棒は静かにすべりだし、並んだたて看板のすき間をすり抜けた。
トラックの横で打ち合わせをしていた人がわたしにむかって何か怒鳴ったが、当然止まるわけにはいかない。
坂にかかったとたん、ペダルに一気に負荷が掛かってきた。
わたしは全身を油圧式の起重機にでもしたつもりで、ひとこぎひとこぎペダルに力を込める。
コンクリ-トのはがされた地面はゴツゴツしていてとても走りにくかった。
だけど、おかげであの「緑の城壁」がなくなっていて、そこだけはありがたい。
坂の途中に停めてあるミニショベルの横をすり抜け、一つ目のカ-ブを曲がれば自己ベストの犬小屋が見えてくる。
あいかわらず速度は上がらなかったが、マウンテンバイクに乗っていたおかげで平衡感覚が鍛えられたのか、なんとか地面に足をつかずに昇っていける。
最初のカ-ブを曲がりきると、すぐふたつ目のカ-ブが見えた。
この第2カ-ブ、Rがキツイこともさる事ながら曲がっていく途中で坂の角度自体がさらに上がっているのだ。
いつものわたしなら、この光景に絶望したあげく犬にほえられて着地、というのがパタ-ンだった。
ふと見ると犬小屋は無かった。
工事の間は別の場所に移されているのかな。
わたしはちょっぴり寂しく思いながら、早くも汗だくになってきた全身を引き絞って坂に挑みつづけた。
そんなわたしの姿が面白いのか、坂の上にいた作業員達が上から見下ろして、お-がんばってる、などと言っているのが聞こえる。
わたしは歯を食いしばりながらふたつ目のカ-ブに挑んだ。
急な角度で曲がりながら、さらにこう配があがっていくなんて、もう、まったく信じられない。
いちばんキツイところに差し掛かったとき、ズリリッ、と後輪が砂を巻いて空回りした。
やばい。
一瞬、自転車がその場に止まった。
倒れそうになるのを必死でこらえ、バランスをとる。
大ピンチのさなか、わたしはギチギチと坂を昇っていくアイツの事をおもった。
遠ざかる背中。
お、今日の限界はそのへんか?
なんて口をききながら。
冗談じゃない。
まってなさい、今とっつかまえてやるんだから。
アンタには言いたい事が山ほどあんのよ。
止まった自転車の上でぴたりとバランスをとる。
落ち着いて体重をペダルに乗せなおし、ゆっくりとわたしはまた動き始めた。
坂の上のほうでは、お~、とか、やるねえ、なんていう言葉が聞こえてくる。
さらにひどかった三つ目のカ-ブを曲がれば、あとは直線十五メ-トル。
わたしはガンガンと痛む頭を振って、ゴ-ルへの道を見上げた。
十五メ-トル、こんなに遠いなんて。
百里を行くものは九十里を半ばとする、とは言うけれど・・・。
坂の上では、三人ほどの作業員が、あと少しだ、がんばれ、なんて声援を送ってくれる。
わたしはうつむき、上を見ないようにした。
自分の足もとだけを見つめ、ひとこぎひとこぎ。
どれだけ進んだかわからないけど、たぶんもうすぐゴ-ルだ、と言うときに目の前が急にチカチカとしはじめた。
ああ、やばい、貧血だ!
紫色の無数の点が視界をおおいはじめ、しびれるように力がぬけていく。
そのとき
「よ~しよしお嬢ちゃんがんばったな!のぼりきったよ」
すぐそばでそんな声が聞こえた。
わたしはぼんやりと、そっか、のぼりきったかあ、なんて考える。
それでも、と最後の力を左足にかけたとき、前輪がなにか大きな段差にぶつかった。
な、なに。
一瞬だけもどった意識で見たものは、むき出しの地面と、まだはがされていないコンクリ-トとの絶望的な高さの境目だった。
そこが限界。
わたしはガッチャ~ンと派手な音をたてて自転車ごと横倒しになった。
・・・・・・?
意識の戻ったわたしが最初に見たものは、白い天井。
どうやらベッドに寝かされているらしい。
ベッドの周りは白いカ-テンで覆われていて、外の様子はわからない。
少し離れたところで、誰かが電話をしているのが聞こえる。
ええ、いえ、たぶん貧血だとおもいます。
熱は無いようなので、熱射病の心配は。
はい、迎えにこられますか。
いえ、まだ横になって・・・・
あの声は、学校の保険の先生の声だ。
どうやら母に連絡をとっているらしい。
するとここは学校の保健室で。
坂の上で倒れたわたしは、ここに担ぎ込まれたらしい。
わたしはなんだかすごく情けない気分になってきた。
結局、最後の最後で倒れてしまって・・・工事の人たちにも迷惑かけちゃったな。
立ち入り禁止のとこに勝手に入っていって、勝手に倒れたんだもの。
ぜんぶ私の責任なのだけれど、それで済まないのが世の中のコワイところだ。
・・・・アイツにあわせる顔がないわ。
わたしはゆっくりと体をおこし、額に手を当てる。
まだだるいかんじが残っていたけれど、歩けないほどじゃない。
カサリ、と音がした。
枕もとを見ると、なにやらコンビニ袋が置いてあった。
貧血だっていうので、起きたら何か食べられるように気を使ってくれたのだろうか。
手にとって中を覗いた。
あっ、とおもった。
中には、木津商店のカルチャ~焼きが入っていたのだ。
チ-ズクリ-ム、チョコ、野沢菜の三つに、ミネラルウォーター。
わたしの脳裏に、ある日の会話が思い出される。
(そっか、んじゃあそれプラス木津のカルチャ~焼きふたつ。どうだ)
(乗った。ただし三つね。ドリンク付きで)
(・・・ま、いいか)
アイツだ。
アイツがきたんだ。
でも、わたしが今日あの坂を登るって、いつ、どこで知ったんだろう?
約束の日にはこなかったくせに、こんなのズルイよ。
・・・だいたい、名前はどうしたのよ。
教えてくれるって、言ったじゃない。
わたしは、ベッドを覆うカ-テンを勢い良くひらいた。
保健室の中には、受話器を持ってびっくり顔でこっちを見ている保険の先生以外、誰も居ない。
ク-ラ-の効いた部屋の中、遠くにセミの声だけが聞こえていた。
「一年三組、羽根田倫子さん。気分はどう?」
先生は受話器を置き、机の上に置いてあった生徒手帳を手渡してくれた。
「あ、あの先生、これって誰が」
袋を差し出し、中身を説明する。
でも先生は首を傾げて
「さあ・・・。私は知らないわ。今日は登校日じゃないし、一般の生徒は居ないはずだもの」
と言った。
「やめておいたほうがいいんじゃない。得体が知れないし、何か入っていたらどうするの」
と先生は袋を受け取ると、机の上に置いた。
でも、でも。
それをもってきたのはきっとアイツで・・・そうだ、先生しらないかな。
「先生、校舎の裏に坂がありますよね」
その坂を、毎日登っている酔狂な生徒がいるはずだ。
「もちろん知ってるわ。あなた、そこで倒れて運ばれてきたのよ。なんの用があって学校に来たのかは知らないけど、工事中の坂を無理矢理登ってくるなんて」
「その・・・。あそこが階段になる、って聞いたもので」
先生は、すこしうつむいた。
「・・・そうよ。去年の新入生で、いくら言っても毎日あの坂を登ってくる生徒がいてね」
どきん
「ある日、とうとう取り返しのつかない事になってしまった。坂の頂上付近で自転車から落ちたその生徒は、打ち所が悪かったみたいで」
「え」
「それ以来、校則であの坂を登るのは禁止されていたの。入学後のオリエンテ-ションで、あなただって聞いたはずよ、まったく。それで工事が決まったのだけれど、伸び伸びになってこの夏休み中にやっと、というわけ。・・・そういえば、その事故が起こったのも、あなたが倒れたあのあたりだったっけね」
先生は深く溜息をついた。
彼もここに運ばれてきたのだろうか。
その最後を、先生は見てしまったのだろうか。
「先生、そのひとって・・・・」
「なに?」
片目だけあけてわたしを見る眼差しは、憂いに濡れていた。
「青い、スポルディングの肩掛けスポ-ツバッグを、持っていましたか」
先生の両目が開く。
「黒い、ロボットハンドルの、三段切り替えの自転車に乗っていませんでしたか」
「ちょっと、倫子さん」
「スポ-ツ刈りで・・・・背はわたしより10センチほど高くって、あとは、あと・・・」
後半は涙声になった。
先生は驚きの表情を浮かべていたが、目は答えを物語っていた。
「倫子さん、あなた・・・・。和人君を知っているの」
わたしはうつむいて口元を抑えた。
ぼろぼろと涙が落ちる。
「会ったのね、和人に」
そう言って、肩を抱いてくれた。
先生は、こんな馬鹿な話を信じてくれるのだろうか。
「そう・・・。彼、何かあなたに?」
「いっしょ・・に、白山、に登ろう、って・・・。でも、こなくて。わたし、あの坂が無くなるって知って、それで、そうしたら、もうあえなくなるきがして、かなしくて・・」
「そう。それで今日あなたは、あんなに一生懸命坂を登ったのね」
わたしはうなづいた。
「ありがとう、倫子さん。ごめんね」
どうして先生が謝るのだろう。
「和人はね、私の弟だから」
わたしは、先生にすがりつくようにして泣いた。
母が迎えにくるまでの時間、わたしはずっとずっとそうしていた。
角度100度の発射台 かぼちゅう @axhigh
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