第3話

 数日間、松永は心が躍るような思いで原稿を書いていた。あの藤堂鏡子嬢が手紙を寄越してくれると約束してくれたからである。あの日のことを思い出すと、彼は宙にも浮かべるような思いであった。なぜなら、心に引っかかっていた女性がまるで女優のような美女であり、かつ自分に関心を持っていてくれていたからである。当然のように彼の想像力は逞しくなり、筆もかなり進んでいた。扉を叩く音が聞こえ、一言もなくドアノブが回る。新聞記者の友人、織田だ。織田は頭をかきながら意味ありげな薄笑いを浮かべていた。いつもなら、松永は友人のその様子をみて、何かを察するのであるが、いまは鏡子のことで頭がいっぱいでエネルギーをそちらに割くことができなかった。

 「いよう。今日はお前に大量にファンレターを持ってきたぜ」

 そういい織田は封筒の山を鞄からだして松永の机に置いた。通常ならば松永はその封筒を1枚ずつ開封する。彼の小説の読者はおおよそ男性層が多い。そのため普通の白封筒が多いのであるが、今日はひとつだけ、水色の可愛らしい封筒が混ざっていた。松永はそれをいぶかしみ、真っ先に手に取る。裏返すと差出人には達筆に『鏡子』と書かれている。彼はその字を見ると大急ぎでかつ封筒をなるべく綺麗に開封をした。藍色をした便箋と押し花が一つ入っている。松永はその手紙を一度胸に軽く抱いてから読み始めた。文字を一つ一つ指でなぞる。鏡子の線の細い達筆なインク字が、彼女がこの世に存在することを感じられるたった一つの要素であった。内容は作品の感想と先日の会談の礼であったが、最後に『しばらくは昼間港にいるので時間があったら来て欲しい』という旨が書かれていた。この文言は彼の心を射抜く文言であった。彼は織田に留守を頼み、すぐに自転車に乗って港へ向かった。自転車で坂を下る。彼の鼓動が速度を速めているのは、運動しているからだけではない。そのことを彼はよくよく理解していた。


 日が傾き始める頃、彼は港に到着した。彼は弾む胸をおさえつつ、自転車を降りて見知った人影を探す。港のベンチには、藤のような色味を着こなした鏡子がいた。

 「あら、先生。こんにちは」

 「お手紙ありがとうございました。受け取ってすぐにここに来てしまいました」

 「まぁ、嬉しいわ。先生、ちょっとお散歩をなさりませんこと」

 「構いませんよ」

 二人は柔らかい日差しの中港を散策し始める。鏡子は歩く所作もどことなく品があり、松永にはどこかのお金持ちのお嬢様に思えた。松永は鏡子の歩く速度に合わせ、自転車を押しながら歩く。その速度はひどくゆっくりで、こんなにゆっくり歩いたことは久々だと彼は思った。彼らの会話は主に松永の作品についてだ。鏡子がふっくらとした頬を朱に染めながら作品の疑問点を挙げると、松永がそれに答える。彼女は松永の小説の熱心な読者であるということが十分に松永に伝わってきた。

 「ところで先生、先生はスケッチをなさるとおっしゃっていましたわね」

 「ええ。作品に出す人々のモデルにしたり、情景を思い出すヒントにするためにとっていたりしますね。この間、港で海を眺めていたあなたも、申し訳ないのですが、スケッチをとらせていただきました」

 「見せていただけないかしら」

 そうおねだりされると松永は弱い。松永は自転車の籠に乗せていたスケッチ帳を無造作にとり、鏡子に見易いように渡した。鏡子は物珍し気にそれを眺めていたが、突如として朱色の頬をさらに紅くし、「まぁ」と一言呟いた。

 「これが私かしら」

 「ええ。あの日はお顔が拝見できなかったので、後ろ姿だけですが描かせていただきました。あの縹色のワンピースとてもお似合いでした」

 松永はしまった。いらないことを言ったと内心反省した。今回は軽薄ないつもの対応をせず、真心から鏡子に向き合おうと考えていたのだ。しかし、あのワンピースが似合っていたことも、事実であった。その様子を見た鏡子が軽やかに笑う。

 「ふふっ。ありがとうございます、先生。しかもこんなに美人に描いてくださって。ねぇ、もう一枚今度は正面から描いてくださらない。先生の次回作のお助けができれば嬉しいわ」

 松永は彼女の大胆な申し出に驚いた。しかし、鏡子の姿を切り取っておきたいと思ったのも事実である。彼はうなづき、鉛筆を筆入れから取り出した。いつも彼は長いタイトルを絵につけるのであるが、ページをめくった瞬間にシンプルに『鏡子』と名付けようと決めた。彼は時間をかけ、鏡子の姿を観察する。高い身長、なだらかな身体の曲線、そして美しい顔。全てが鏡子を構成する要素であり、どれか一つが欠けても鏡子ではなくなると松永は思った。鏡子は松永の視線をくすぐったそうにしていたが、やがて慣れてきたようで笑顔の強張りがだんだんととれてきた。無言の時間が流れ、日が落ちる頃ようやくスケッチは完成した。

 「ありがとうございます。今後の作品の参加にさせていただきます」

 「先生のお役に立てれば私も嬉しいですわ」

 そういい二人は笑い合った。

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