第4話
長い長い坂を胸を弾ませながら自転車で登っていく。松永は自転車の籠に乗るスケッチ帳にちらりと目線をやる。それには今までに体験したことのないような胸の高鳴りと不安や喜びなど様々な感情が封ぜられていた。スケッチ帳は今までは作品の参考だけの意味を持つものであった。しかし、今は違う。それは過去の記録だけではなく、鏡子との思い出を閉じ込めた大切なものへと、彼の中で昇華されたのだ。やがて上町の自宅につくと織田が眠そうな顔をして待っていた。
「鏡子さんには会えたのか」
「会えたんだ。スケッチもとらせてもらえた。でも、俺の筆じゃあ、あの女性の美しさやこの感情をまだ表現できないと思う。」
「たいそうな入れこみようだ」
「なぁ……これが俺の初恋だと思うんだ」
織田は目を丸くした。いきなりこの男は何を言い出すのかと思ったのだ。松永は頭を掻いている。
「お前は軟派で女性と見ればすぐ声をかける、そんな男が「初恋」だと」
「ああ、初恋。女性に対してこんなに真剣に好きになったことって無かったと思うんだ。それにこんな胸があったかくって……切なくって…すぐに鏡子さんのことを考えてしまう……初めての気持ちなんだ……」
そういい、松永は大事そうに胸に手を当てる。その様子を見た織田は若干の後悔の念を覚えていた。彼は鏡子に対する親切心と友達に対して多少の優越感の感情から松永に鏡子を紹介したのだ。このままであると、友は確実に傷ついてしまう。しかし、気持ちが盛り上がっているところに水をさすような無粋な真似は出来なかった。彼は丸首のシャツのボタンを外し、首元を掻く。
「そうか、よかったな」
「ああ。明日も鏡子さんに会うんだ」
そういう松永のはにかんだ笑顔は、どことなく奥ゆかしさをたたえていた。彼はたまらずスケッチ帳のページをめくる。鏡子の描かれたページを見れば、微笑んだ鏡子がすぐそこにいる。そんな錯覚すら彼は覚えた。
松永は自転車を押しながら待ち合わせの港まで歩く。柔らかい日差しの中、彼はゆっくりと鏡子のことを考えながら歩きたくなったのだ。鏡子は美しい。それだけではなく動作の一つ一つが自分を虜にしているのだとはたと気づく。新しい自分の感情の元の発見がだんだんと嬉しくなる。今すぐにでも鏡子に想いを伝えたいが今回は嫌われぬよう、紳士になろうと決めたのだ。鏡子が自分にもっと興味を持ってから想いを伝えようと彼は誓った。
「先生、ご機嫌よう。今朝は日差しが気持ち良かったですわね」
そう、鏡子は微笑む。今日は袴を履きまるで、女学生のような格好をしている。そういえば、鏡子の年齢を松永は知らない。女性に年齢を聞くのは甚だ失礼な話であると松永は思っているが今日の格好はあまりにも若々しく見える。初めて、鏡子に出会ったときはワンピースを着こなしていて20代前半に見えたが、昨日はまるで若妻のような清楚さをたたえており、今日は女学生にも見える。名前の通り鏡のようだと松永は思う。
「今日は先生に教えていただきたいこととお願いごとがあるの」
鏡子は自転車に目線を向けて滑らかなその人差し指を自転車につきつける。
「私、あれの乗り方を存じないの。宜しかったら教えていただけるかしら。昔から一度乗ってみたかったの」
「え…ええ構いませんよ。さぁ、ここに跨って下さい」
松永は自転車のストッパーを止めて鏡子を誘導する。鏡子が恐る恐るサドルに跨る。
「今は安定していますが、このストッパーを取ると、不安定になります。転ばぬようお気をつけてください」
ストッパーを鏡子が外すととたんぐらつく。両足は地面についてるにもかかわらずだ。そのまま鏡子が乗った自転車は左にぐらつき、鏡子は転倒してしまった。
「鏡子さん大丈夫ですか……。お怪我は」
「私たら情けないことに運動が苦手なのですわ。膝が少し痛いですわ」
「ちょっと失礼」と松永は心音を上げながら袴の裾を片方だけ捲ると、血こそ出ていないが彼女の絹のような肌に青く、痣が出来ている。完全な美女である鏡子に怪我をさせてしまった、という後悔と彼女はこの世の人間であるという思いが彼の中で交差した。
「青痣になってますね。どこも擦りむいたりとかはしていないようです。お怪我をしていなくてよかった」
「ええ。私の好奇心のせいで先生にご迷惑をおかけして申し訳ないですわ」
「大丈夫です。今度はしっかりと後ろから支えます」
鏡子はつやつやとした唇を三日月のように弧を描かせた。
「よろしくお願いしますわ、先生」
鏡子をサドルに乗せると後ろからしっかりと松永は荷台を持った。鏡子がペダルを漕ぎ始める。それは最初はかなりゆっくりとであったが、徐々にテンポ良く車輪は回りだす。松永がそっと手を離すと、鏡子の乗った自転車はゆっくりとではあるがバランスよく走り始めた。
「先生、私上手く乗れてますわ」
そういう鏡子の声はひどく嬉しそうなものであった。松永もつられて嬉しくなった。それは乳児の成長を親が見ている気持ちと似ているかもしれないがそのときは確かに鏡子のことを愛おしいと思ったのだ。
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