5、世田谷の賢人(サヴァン)
優人はファウストとの会話を反芻しながらの一階の会議室へと向かった。今
度はエレベーターを使ったが、「カンデル神経科学」が重い。物理的にも心理
的にもだ。
この会社で優人が担当するのはデカルト・システムのオペレーターと、この
秋開局するケーブルテレビ局「豪徳寺TV」の制作スタッフとのことだった。
どちらも知識ゼロからのスタートで、覚えることは山積みである。
スタジオで耳にした音楽については、開発中のブレインシンセサイザー「エ
ピクロス」だと説明された。デカルト・システムと接続して脳の動きで音楽を
再生する装置だという。浜松の楽器メーカー、
を演奏できるのは由梨だけらしい。
優人の心を最も重くしたのは守秘義務についての話だった。デカルト・シス
テムの存在は大げさでなく国家機密に相当するらしい。スタジオ・カルテジア
ンのスタッフは皆、家族構成から交友関係、経済的な事情、思想まで調査され、
更に「黄色いリボン占い」で犯罪者気質の有無まで判定されるそうだ。
「倫理的には表立って言えないが、大抵のことは分かってしまうんだ」と、フ
ァウストは少し悲しい顔をした。「安心していいよ。君はとても抑制の効いた、
あるいは感情を抑えすぎるくらいの検査結果が出ている。スタジオ・カルテジ
アンにとって適性の高い、とても有能な人材だ」
思ったより大変な状況に巻き込まれた気がするな、と優人は新入社員ならで
はの高揚感を失い、替わって胃の辺りが収縮する感覚を得た。
午後になり、一階の会議室でスタジオ・カルテジアンの週一回のミーティン
グが始まった。ファウストこと青山徹。青山由梨と小春の姉妹。システムエン
ジニアの荒木弘明。オペレーターの浅野将司と鮎川里美。新人の優人を含めた
七名と、忘れちゃいけないホムンクルスである。非常勤で経理担当の税理士、
足利茂生を除き、スタジオカルテジアンのスタッフ全員が顔を合わせた。
「今日からお世話になります、相原です」優人が簡単な自己紹介をすませ、皆
の拍手が収まるとファウストが口を開いた。
「優人にはこれからデカルト・システムについて覚えてもらうことになる。ま
ずはさっそく将司から操作方法を教わってくれ」
「分かりました。浅野さん、よろしくお願いします」
「了解。まあいっぺんには難しいからボチボチやろうな」
優人と浅野、そして荒木が立ち上がり、地下のスタジオに向かった。残った
メンバーは今後の日程や、スタッフの割り振りについて話し合いを持つらしい。
優人は三人が乗り合わせたエレベーターで、恰幅の良い荒木に話しかけた。
「荒木さんは入社してどれくらいなんですか」
荒木は床に落とした視線を少し動かしてから「十二年と五十一日、四時間三
分」と答えた。
「荒木さんはすごいんだぞ。なんでも覚えてるんだ」
荒木は浅野にほめられて表情を崩したように見えた。
実は荒木は日常生活ではパジャマを着替えることすらできない。しかし数学
に特異な才能を発揮し、五歳ですでに三次関数の解の公式を理解していた。ま
た森羅万象を数学的にシステム化する能力に長け、デカルト・システムにおい
ては膨大な人数のサンプルの組み合わせから有意のデータを抽出するアルゴリ
ズムを開発している。
「荒木さんが実用化のメドをたてたようなものだね」浅野が自分の手柄のよう
に自慢する。
地下のスタジオに到着すると、浅野は「俺も難しいことは分からないんだが」
と前置きし、デカルト・システムについて知っていることを話し始めた。
いわく、九十年代、工学博士・青山昭が生み出したセンサー類は次々と特許
を取得した。特に磁気を関するセンサーで他の追随を許さなかったそうだ。デ
カルト・システムの第一のポイントは脳内で起こる電磁場の変化を測定するこ
と。昭の高性能センサーによって脳内の電気的活動を脳磁図(MEG)と呼ば
れるマップに変換し、立体的にデータ化する。
そして第二のポイントが荒木の生み出す「心のアルゴリズム」だ。脳磁図だ
けではなく脳電図、神経線維画像、あるいは機能的核磁気共鳴画像法 (fM
RI)とそのデータをつき合わせながら脳の電気的活動の意味合いを探り出し
ていく。
「簡単に言うとだな、赤い色を見た人の脳内の変化をデータ化しておけば、同
じ反応を観測したときに『ああこの人は赤い色を見たんだ』と推測できるだろ」
浅野の言葉を待っていたかのように、荒木がコンソールを操作した。すると
球体ディスプレイに脳の3D画像が浮かび、脳の中央下部にある器官が不気味
に光った。積極的に会話をしない荒木の代わりに浅野が全てを解説する。
「あれは視床下部のあたりだ。大脳辺縁系とか扁桃体が反応している様子だな」
続いて巨大分割ディスプレイの一部が、紫や黒味がかった赤といった色彩を
繰り返し映す。この色調は感情の種類によって変化する。例えば黄色が喜びを、
緑が安心を示す。一方で紫に葛藤を、茶色に抑圧を割り当ててあるそうだ。
「ストレス反応だ。ちょっと嫌なものでも見たのかね」
浅野の言葉を聞くと、荒木は口角を上げ、再びコンソールを操作した。画面
上に大きなトカゲの動画。チロチロと舌を出しながら、今にもこちらへ襲い掛
かってきそうだ。併せて優人の不安げな表情が表示された。
「あれはテストの時に見たコモドドラゴンじゃないですか」
「はは、怖がっていたのか」
「黄色いリボンのセンサーで、こうやって脳の中が見えるってことですね」
「荒木さん、この時の言語情報ってありますか」
浅野に聞かれて荒木がぐいっと顔を曲げ、待ってたと言わんばかりにスイッ
チを押す。すると例の機械音声が冷静な口調でしゃべりだした。
『あっちへ、行って欲しいです』
三人は顔を見合わせて笑った。この言語アルゴリズムも荒木の作品らしい。
脳の電気的活動から視覚、聴覚などの五感、更に感情や概念といった高次領
域まで再現できるデカルト・システム。ようやくその姿がおぼろげながら優
人にも見えてきた。
「まだサンプルデータが全然足りていないんだ」浅野は精度の問題を挙げた。
黄色いリボン占いや臨床心理学の実験といったあの手この手で数を稼いでは
いるが、年齢や性別、生まれた地域別などによる有効なデータの収集には相
当な手間と時間が必要らしい。それだけに実際の運用は荒木のアルゴリズム
に依存している状況なのだという。
「まあ俺たちはファウストや荒木さんのアシストが大事な任務だ。優人君に
期待する役割も大きいんだぜ」
「そういえば浅野さんはまだ学生なんですよね」
「ああ情報処理の専門家を目指している。ただここでの仕事にはあまり関係
ないかも。まあもう腐れ縁みたいなものでね」
「訳ありだとも言ってましたよね」
「その件は、またな」浅野は横を向き、話を打ち切ってデカルト・システム
運用マニュアルを取り出した。作成者、鮎川里美と書いてある。ファウスト
と荒木にしか扱えなかったシステムを浅野や小春に説明するために作られた
らしい。機械やパソコンに慣れていない優人には難しい内容だったが、この
マニュアルを読みこなさないと仕事にならないだろう。
「里美さんもまもなくここへ降りてくると思うよ。相当すご腕のオペレータ
ーでさ。俺とは同い年だけど、おっかないから里美さんって呼んでる」
「誰がおっかないって」ややハスキーな声が響き、長いワンレンの髪をかき
上げながら里美が現れた。
「おっと里美さん、ミーティングは終わったのかな」
「うん、リボン占いの日程確認と、あとは優人君の役割分担くらいだったわ。
優人君には当分システムの研修をしてもらおうって…って、アツツ」
里美がメガネを外して頭を押さえると、浅野が両手を上げ、おどけて言っ
た。
「また飲み過ぎましたね」
「ほっといて」里美は手をひらひら動かして浅野を制した。
荒木はいつの間にかデータの解析に熱中していた。こうなると他人の動向
などお構いなしに何時間でも作業が続くそうだ。小田急で四駅先にある自宅
から、毎日母親が迎えに来るのだが、時にはそれを追い返して徹夜になるこ
ともあるらしい。
「グラフや波形の線が全部数字に見えているらしいよ」
「へえ、そういえば数学の達人って数式を眺めながら『美しい』って言うら
しいですね」
「荒木さんの場合は人が怒っているのを見て数字化しているかもな」
「荒木さんの脳内、いや思考回路こそ見てみたいですね」
「フッ」浅野は返事の代わりに笑いかけ、分厚いマニュアルを開いて優人の
レッスンを始めた。
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