4、魂の正体


 

 ファウストは「スタジオ・カルテジアン入社記念だ」と一冊の本を取り出し

た。分厚く重い装丁の本には「カンデル神経科学」とある。エリック・R・カ

ンデルを始めとする人類の脳に関する知見が集約された「脳と意識の事典」の

和訳版であり、スタッフ全員の教科書となっているそうだ。千六百ページ以上

に及ぶ膨大な情報。翻訳も大変な作業だったであろう。ずっしりとした感触、

重さは二キロ以上はあるだろう。良く読みこむようにと、優人はファウストに

就職して最初の命を受けた。


 そしてファウストは「デカルトの劇場」について説明を始める。「哲学者ル

ネ・デカルトは心身二元論を唱えた。古い考えだが、文字通り心と身体は別々

だというんだ。脳内には小人、ホムンクルスがいて、感覚器からの情報をシア

タールームのようなリビングで観ているというイメージだな。この場合、小人

は肉体と分離した『精神』に置き換えられる」


「まるで、このスタジオのようですね」


「そう、だから正にデカルトの劇場。視覚や聴覚といった五感に始まり、外部

からの刺激で起こる脳内の変化をリアルタイムに演算し、表示できる。名づけ

てデカルト・システムだ」


「演算すると何が分かるんですか?」


 ファウストはふむ、と手元に目を落とした。「これは、先日の君の面接の様

子だ」ファウストがキーボードを操作すると、優人の名前に番号が組み合わさ

れたコードが表示され、続いて優人の顔がディスプレイの中央に表示された。

新宿の家電量販店。あの黄色いリボン占いの映像である。


「それはパソコンのカメラが撮影したものだ」さらに分割された他の画面は色

彩変化を繰り返し、また別の画面には古い映画のような総天然色で由梨の顔が

浮かび上がる。実物より少々色っぽい表情になっているようだ。優人はドキっ

とする。その映像に妙な既視感があったからである。


「そっちは君の脳の視覚情報からデカルト・システムが描き出した由梨の姿だ

よ。君にはこう見えていた。人はそれぞれ少し違う映像を見ているんだよ」


 優人は背中越しの由梨の視線が気になった。しかし目が合うのが怖くて振り

向けない。もっともそのときの由梨は気だるい様子で壁際のソファに座り、ホ

ムンクルスと戯れていたのだが。


「言語情報はこう出力された。聞くかい?」


「それは、僕の言葉という意味ですか」


「君が想起した観念を言語化して、十八歳男性のサンプリングモデルで音声化

してある」スピーカーからやや機械的な声が流れ、同時に文字が表示された。


『いい匂いです。この魅力的な女性の前だと、気持ちが落ち着きません』


「ふえっ」変な声が出た。あの時の優人の感情の意訳である。しかも概ね正し

い。もちろん憶測でも当てられる内容だが、優人は恥ずかしさで全身が熱くな

るのを感じた。


「匂いというのは、直接、意識下に強い影響を与えるんだよなぁ」ファウスト

はこともなげに言うが、思春期の男性にとってこの状況は拷問だ。優人は真っ

赤な顔を悟られまいと身を硬くした。するとようやくその様子に気付いたファ

ウストが謝り始める。


「すまん、すまん、このシステムについてなるべく簡単に説明しようと思った

んだ。君に恥をかかせようとしたわけじゃない」 ファウストは一息ついて話

を続ける。


「脳に関する研究は世界各国で進んでいるんだ。遺伝子ゲノムの解析と同じで

競争と言ってもいい。アメリカでは『ブレイン・イニシャチブ』と呼ばれる

国家プロジェクトになっている。すでに戦場の兵士の脳波情報を管理するとか、

失った記憶を復元するだとかといったプロジェクトが発表されていてな。他に

も視覚障害者の脳に直接電極を刺して、任意の映像を知覚させる実験も進んで

いたりするんだ。何しろとにかく扱う情報量が多すぎてなあ。この競争は体力

勝負になっていくだろう」


「でも、こちらのシステムはすでに人の感情を言語化できるところまで来てい

るんですよね。すごいレベルじゃないですか」


「これはな、このデカルト・システムは青山昭、私の兄が開発した高性能三

次元磁気センサーと、ある特殊なアルゴリズムのおかげで他よりかなり先行

している。ただし……」


「ただし?」


「学術的にいうエビデンス。まあ裏づけの絶対量が足りないんだ。その数を稼

ぐために『占い』などをやっているんだがね」ファウストはにやりと笑って優

人を見やった。


 黄色いリボンはやはり単なる占いなどではなかった。あのリボンが一番簡易

型の脳磁図センサーだとファウストは説明する。


「基本的に脳の働きはニューロンという神経細胞がお互いに情報をやり取りす

ることで成り立っている。ニューロンの数は約一千億個だ」壁のモニター群と

天井から吊るされた球体ディスプレイが、ファウストの話に合わせるよう画像

を表示していく。


「ニューロンは視覚や聴覚、嗅覚、触覚、味覚、それに平衡感覚などを担当す

る各器官からの情報を受けて『発火』するんだが、その情報は電気信号に置き

換えられる」


 モニターでは科学ドキュメンタリーのようにその様子が再現されていた。


「ニューロンとニューロンの間隙をつなぐシナプスはその情報を化学物質に変

えて伝達するんだが、脳内で何が起きているかを観測するときには、結局電気

や電磁場を使う方法が便利だな」ファウストは左の方のモニターを見るよう優

人に促した。そこには病院で検査に使う、円筒の機械にベッドがついた装置が

映し出されていた。


「これは……、MRIですよね」優人の問いに対し、ファウストは自慢げに答

える。


「そう、うちではfMRI、機能的核磁気共鳴画像法が使えるようにしてある。

血流の変化を測定し、外部からの刺激に対して脳のどの部分が反応しているか

を調べる。また神経線維画像といって、神経細胞同士のつながりを映像化する

ことだって…」モニターにはサンプル画像が表示された。


「こちらに、こんなすごい装置が揃っているんですか?」


「八億円以上かかったそうだ……。まあ、金額は問題じゃない。基礎研究に必

要だからな」


「八億円……」優人には金額の多寡は今一つ掴めないが、大学の研究室や大企

業の開発部門のような大掛かりなスケールを感じて驚いた。


「集めたデータはこのデカルト・コンピューターで解析する」ファウストが手

を向けたのはモニターに向かって左側の壁に並ぶサーバー群。作業用の机が分

厚いボードに囲まれて寄り添っていた。


「そしてその結果がどうなったかは、君自身が誰よりも実感できるのではない

か?」


 優人はゴクッと喉を鳴らした。


「つまりこの『デカルト』は、高性能センサーによって集めた脳内の磁気変化

をサーバーに溜め込み、それを感情や概念のパターンとして再生することが出

来る、世界でも最先端のシステムということだ」


 現在とても恐ろしいことが進んでいるのかもしれない。個人の感情などとい

うものは全て単なる情報の一部になっていくのだろう。仮にそれらが国家単位

で管理されれば、昔読んだSF小説を地でいく世界が現れる。個人が自由意志

で生きているという自覚の終焉だ。他人に生かされる家畜のような人類……。


 優人はそんなことを考えた後、ファウストに根本的なことを問うた。「こ

システムの開発の目的、あるいは最終的な目標とはなんですか?」


 ファウストは、やはり芝居っ気たっぷりに「うむ」と腕組みをして目を閉じ、

それから顔を上げて再び両手を広げ、見得を切るように答えた。「人間の魂と

は何か。その正体を探ることだ」


 今度は「なんちゃって!」とは言わなかった。

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