3、デカルトの劇場
その夜、自室のベッドで、真新しいシーツにくるまれた優人は夢を見た。も
のごごろがついたころから何度となく繰り返して見た、母の夢である。
七夕やクリスマス。幼い優人はいつも短冊やカードに「おかあさんにあいた
い」と書いた。いつか母が迎えに来る。ごめんね、と言って抱きしめてくれる。
そんな儚い願いだ。
だがこの夢はいつも、顔がはっきりと見えない母が何事か理由を述べて優人
の前から去っていくところで終わる。眼前を遮る壁。不安をかきたてるような
無機質なコンクリートの壁から、かぼそい声が聞こえてくるのだ。
「まさと、ごめんね……。まさと、さようなら」赤子の悲痛な泣き声のような、
そんな感情に揺さぶられて優人は目を覚ます。いつものパターンである。
「久しぶりだったな。こんなところであの夢を……」新しい環境や、昨夜の食
卓の様子が優人の心の奥から何かを呼び覚ましたのかもしれない。
その夕食は小春が用意した。メニューは一般的な家庭料理だが、きちんと和
風の出汁をとった本格派である。家事は小春がひとりで担当しているようだ。
いつも気ぜわしく動き回っている。二階のダイニングキッチンは広々としてい
て、青山家の本来の家族団らんにも十分以上のスペースがある。壁のあちこち
に由梨と小春の幼少期の写真が貼ってあり、中でも優人の目を惹いたのが由梨
が新体操の衣装で、まるで空中を舞っているかのような瞬間を捉えた一枚だ。
「お姉ちゃんは五年前まで新体操の選手だったの。結構才能があって、注目さ
れてたんですよ」
「そうなんだ。じゃあこっちの集合写真は合宿とか?」
「ジュニアの強化合宿の時ですね。横でピースしているのが美和子ちゃん。一
緒にオリンピックに出ようっていつも言ってて。お姉ちゃんの親友でライバル
なんです。そう今度、東京オリンピックの代表を懸けた大会があるって」
「へえ、そういえばもう来年だもんね」
小春がインターフォンで食事の用意ができたことを伝えると、いずこからか
由梨が現れた。やや疲れた様子だが、背筋はピンと伸びている。動きはゆった
りと滑らかで、まるで踊っているようにも見える。シルクサテンの薄紫のシャ
ツが光沢を放つ。由梨は優人に気づいたのか、焦点の合わない視線を向けなが
ら席に着いた。改めて美しいなと思う。優人は、じろじろ見ていると思われぬ
よう注意を払った。
「優人さんは食べ物の好き嫌いとかありますか?」食事が始まると小春があ
れこれと優人に質問をした。
「幸い、特に嫌いなものはないです」
「そう、良かった。食事のリクエストは大歓迎ですので、なんでも言って下さ
いね」
一方、由梨は黙々と食べている。優人は女性二人との食事に緊張したが、小
春の料理が美味しかったことで自然と会話が弾み、この家での生活が無事にス
タートした。
「ところで、こちらの代表の、あの……」優人が訊ねると、小春は苦笑を浮か
べながら答えた。「ファウスト、あ、おじはね、研究に没頭すると地下にこも
って出てこないんです」
「まだ挨拶もしてなくて」
「そんなことを気にするタイプじゃないですよ。明日は午後から全員でのミー
ティングがありますから、そこで紹介しますね」
翌朝、高校の登校日のため小春はあわただしく準備をした。長い髪をさっと
まとめて後ろで留め、制服のブレザーを羽織りながら靴を履く。「お昼までに
は帰ってきますから、ゆっくりしていてくださいね」
朝食後、由梨はホムンクルスと地下へ降りていった。相変わらず無言だが、
表情の微妙な変化は見てとれる。浅野将司や他のスタッフは午後の出社予定だ
そうで、優人は一人きりになった。
小春はゆっくりしてと言い残したが、優人は暇をもてあます。やがて無性に
地下の様子が気になり始めた。優人は逡巡したあげく、地下を見学しようと決
める。
「昨日からいるのに、まだ挨拶もしていないしな」
エレベーターの前で少し気後れして階段を選ぶ。踊り場の壁には一枚の絵画
が掛けられていた。シャボン玉で遊ぶキューピッドがこちらを見てはっとした
表情をしている。暗い部屋で禁断の遊びに耽っていたら、急に扉を開けられ驚
いたといった様子だ。静から動への変化を際立たせる光と闇のコントラストが
ダイナミックである。このレンブラントの複製画に、優人は自分の行動を見透
かされているような、そんな落ち着かない気分にさせられた。
「なんだか、怖いな」踊り場を折り返すと一階からの光がさえぎられて前が見
づらくなった。地下一階の扉には英字でプライベートオンリーとあり、緑のL
EDで地下二階を示す矢印と「Studio」の案内表記がされていた。
次の踊り場には宮廷で小さなお姫様を世話する女官と、それを描く画家自身
が映り込んだ不思議な絵画があった。ベラスケスの傑作ラス・メニーナス。そ
の構図には現実と虚構が織り交ぜられている。
「マルガリータ王女、だったっけ」久志の講釈を思い出した。
地下二階の重厚な扉。冷たい金属面をノックする。反応はない。もう一度。
「どなたかいらっしゃいませんか」小声でつぶやいてから、思い切ってドアノ
ブらしきレバーに手を掛ける。ずっしりとした感触と共に向こう側へ動くドア。
暗い空間に吸い込まれるような感覚を覚える。
「うわ、これは」
目の前に現れた宇宙船のコクピットのような光景に、優人は息をのんだ。扉
から向かって左手正面の壁一面には、いくつにも区切られた巨大なディスプレ
イ。その中央にはビデオカメラのモニターらしき映像。周囲に分割された画面
には何らかの波形や色彩が経時変化を繰り返す様子が表示されている。天井か
ら吊り下げられた直径1メートルほどの球体もディスプレイになっていて、そ
こには人間の脳の3D画像が浮かび上がっている。脳のあちらこちらが部分的
に色を変えながら光っていた。
「すごい」ドアの側から動かずに、無人の仄暗い室内をじっくり観察してみる。
テレビ局の調整室、あるいは音楽録音スタジオのような構造だが、それらと比
べても表示される情報量が圧倒的に多い。
コンソールにはパソコンが並び、それぞれに革製の瀟洒な椅子が備えられて
いる。冷却ファンが低いうなりをあげるコンピューターのサーバー群、あるい
は各種の計測機器らしき装置が納められた背の高いラックケースも存在を主張
していた。
映像と光と色の饗宴を見つめていると、今度は音が聞こえてきた。バイオリ
ンだろうか。最初は戸惑いがちに小さく、やがて力強く幾何学的な音階のカノ
ンになった。映像装置群はその演奏に合わせて点滅の様子を変えていく。「何
かの練習……、かな」
続いて大人数の合唱が不協和音を響かせた。バイオリンはそれらを統合する
かのようにメロディーを奏でた。最初は突き放すような、それから包み込むよ
うな旋律に変化して哀しみを歌い始める。そう、まるで人が叫んでいるような
響きだ。合唱は呼応し、人数を増やしてクライマックスへ向かう。ディスプレ
イ達は競うように群青やワインレッドを表示し、波打つようにリズムを合わせ
た。優人はまるで多数の人々から感情の渦を浴びせかけられたような感覚と、
途方もない寂寞を味わった。
静寂を挟んで天井の照明が点き、明るくなったスタジオの奥の扉から由梨が
現れた。ホムンクルス、そして白衣の男性が続く。その男性こそがファウスト
こと青山徹であろう。ファウストがこちらを見ている様子に優人は気まずくな
り、口を開いた。
「すみません、勝手に入ってしまって」
そんな優人の言葉には反応せず、ファウストは「君が優人君だね」と芝居が
かった独特の口調で話しかける。「あの面接以来だな。待っていたよ」気難し
そうな表情に無精ヒゲ。昭和の演劇青年がそのまま年齢を重ねたような風貌。
一歩二歩と前に進み、両手を頭上へ広げ、大げさなまでの発声で歓迎の辞を述
べた。
「ようこそ、闇を切り裂き、魂の真実を光の下に明かす、デカルトの劇場へ」
優人がなにも言えず戸惑っていると、やや時間をおいてファウストの両手は
下がり、そのまま腰にあてられた。少しはにかんだように笑い、こう続ける。
「なんちゃって!」
優人は一気に脱力した。
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