2、豪徳寺へ
翌朝、いつものように久志が仕事の準備を始め、優人は予定より早く目が覚
めた。昨夜は一日の出来事を遅くまで久志に報告していて、寝不足気味である。
「ファウストね」その名を聞いた久志は嬉しそうに口にした。「学生時代の懐
かしき思い出だな」本棚から持ち出してきた古いムック本には『新訳ファウス
トの分析』なるタイトルが付いている。
「ゲーテのファウストをアングラ演劇っぽく変えてやってみたら、ちょっとし
た評判になってなあ。主役を演じたのは後輩の青山だったんだ。それ以来あい
つのあだ名はファウスト。俺は脚本とか演出をやった。それが縁で在学中から
広告代理店の企画に参加するようになって、ずるずると就職までしてしまった
んだよ」
「どうして会社を辞めたの」
「まあそうだな、うん、向いてなかったんだろうな」久志は少し間を取って続
ける。「ちょうどバブル景気で大きなプロジェクトが多くてな。楽しかったん
だが、まあなんだ、いいことばかりじゃないな」巨額が動く大規模なプロジェ
クトに関わる高揚感。世の中を動かしているという痺れるような感覚。それら
の喜びはある時全て空虚となったという。
「部下を一人助けられなくてな……」北鎌倉で作陶に没頭していると、当時の
憑き物が落ちていくそうだ。
「青山は双子の兄弟で兄貴が工学博士の昭。産業用の磁気センサの開発で特許
を取って大学の研究室から独立した。弟の徹がファウストで、こっちは文系。
人文地理専攻で卒業後はヨーロッパにいたんだが、五年前に昭がいなくなった
んだ」
「いなくなった?」優人は五年前という言葉に既視感を感じた。
「行方不明なんだ。謎の失踪事件とも言われている。それで徹が帰国してスタ
ジオ・カルテジアンの代表となった」
「でもファウストは文系の人なんでしょ」
「そうだな、センサについてはちんぷんかんぷんだろうな。ただ特許収入だけ
でも大した額だから管理が大変だ。娘二人の保護者も必要だしな」
「ああ、あの二人」優人はあまり興味がなさそうに返事をする。
「会ったのか。優人とは年が近いだろ」
「うん、占いのブースにいた」
「そう、その占いだけどな」久志は少し考えてから推測を口にした。「何らか
のサンプルでも集めているんじゃないかと思うんだ」
「なんだか胡散臭い感じだったよ。宣伝用ののぼりに範子さんの写真があって、
推薦人みたいになってた」
「はは、今じゃ有名な女優さんだ。あいつも後輩で『新訳ファウスト』の女性
版メフィストフェレスを演じてもらったんだ。それであいつもそのまま芸能界
入り」
「みんな結構ノリで生きてる感じだね。あれっ、まさかメフィストフェレスで
メーちゃん?」
「そうそう」
優人は、十分とは言えないまでも、ようやく一定の情報を得られて落ち着い
た。怪しい就職先であることに違いはないが、久志の知り合いばかりなら心配
することはないだろう。
「それで、合格ってことなら青山の所に就職するのか」
「うん、そうする」久志の問いに優人はあっさり答えた。もとより常識的な就
職でないし、選べる立場にもない。黄色いリボン占いの裏側も覗いてみたいし
な。そう自分に言い聞かせつつ、優人の心は珍しく浮き立っていた。青山姉妹、
特に由梨に感じた異質な雰囲気の正体を知りたいとも思う。それはいかにも思
春期の男子らしい衝動だろう。
スタジオ・カルテジアンからの合否通知は今日中の予定だ。優人は携帯電話
を持っていないので、久志あてに伝えられることになっている。
「優人、合格祈願に鶴岡八幡宮へ行こうか」
「じゃあクルマ出してさ、江ノ島とかまで行ってみようよ」
「お前ひょっとして運転する気か」
「よく分かったね」
久しぶりに赤いロードスターを引っ張り出して、昔よくドライブした海岸線
などを走ってみる。運転席と助手席では景色が違うのだと知った。久志はこの
車のキャッチフレーズだという人馬一体という言葉を度々口にした。意思のま
まに操れる感覚が自由を体現しているという。最初はおぼつかないが、慣れて
くると確かに運転すること自体が楽しくなってきた。
「コーナーの手前でな、そうアクセルを少し戻すんだ」久志は手のひらを上下
させてアクセルの動作を示した。「車の前がちょっと沈むだろう。そうすると
タイヤが路面をつかみやすくなる」
「あ、すごく曲がりやすいね」車のスムーズな挙動に爽快感を覚える。
「なかなか筋がいいじゃないか。そういうのは荷重移動っていうんだ。それが
分かれば上手くなる」
青空広がる由比ヶ浜。懐かしい風景のはずが、とても新鮮だ。海沿いをドラ
イブして鶴岡八幡宮に戻ってくると久志は「お祝い用に」と、小町通りの酒店
で鎌倉ビールを買い込んだ。
合格を伝える電話はその日の夕食前だった。
「いよいよお前、ここを出て行くんだな」ビールを注ぎながら久志は唐突に言
った。あまり見せたことのない表情だ。
「まだ居てやってもいいよ」
「そんな軽口叩けるまでには成長したってことだな」
「色々、ありがとう」
「まあそんなに改まるな」
いつもよりは饒舌な食卓。成り行き家族の、最後まで不器用な会話。久志は
すっかり酔っ払い、優人は珍しくはしゃいだ。
数日の後、出発の時が来た。ほとんどの荷物は先に送ってしまったので、優
人は軽装で旅立つ。三月の最後の大安吉日。北鎌倉駅の風景に桜の花が加わっ
ていた。新宿からは小田急に乗り換えて二十分あまり、目的の駅は豪徳寺。幕
府の大老、井伊直弼の菩提寺や世田谷城址、源義家ゆかりの世田谷八幡宮など
が密集し、歴史の薫りを色濃く漂わす東京の古都である。
駅の改札前には猫がいた。ただの猫ではなく、片方の前脚を挙げた招き猫の
像だ。当地が発祥ともされる招き猫は、駅前の通りにかけてあちこちで愛嬌を
振りまいている。南に向かって弓なりにカーブした道沿いに懐かしい風情を残
した商店街が伸びていて、その雰囲気は小町通りに似る。
懐かしい風情とあちこちの桜に目を奪われながらつらつらと歩いていると、
いつの間にか踏み切りを越え世田谷八幡宮の前にまで来てしまった。
「あれ、踏み切りは越えないんだっけな」完全に迷った。「お金ができたら、
スマホ買わなきゃ」
そこへ日傘を差した女性が通りかかる。思い切って声を掛け、住所のメモを
見せた。
「ああ、これは反対の方ね。この道をまっすぐいらして」身振りを交え、丁寧
に教えてくれる。言葉遣いがとても上品で驚いた。
「ご親切にありがとうございます」
「お気をつけて」
優人から見れば祖母にあたるような年配の婦人であるが、なぜか不思議に別
れ難くなり、互いに振り返りながら何度か会釈をした。
東急・宮の坂駅を東へ進み、世田谷城址の交差点に差し掛かる。閑静な住宅
街の一角にその建物はあった。一見普通の住宅だが、コンクリート打ちっぱな
しの外観と、更に周囲を囲う背の高い壁の存在が奇異に映る。いくつか見え隠
れする監視カメラがものものしい。三階建てで敷地の面積は百五十坪ほどある
だろうか。てっぺんには見慣れぬ形のアンテナがそびえ立ち、ちょっとした城
を思わせる威容である。
正面に立つと英字で書かれた社名の表札が見え、インターフォンには数字の
入力盤が付いているのが分かる。もちろんロック番号など知らないから来客と
して呼び鈴を押す。
「いらっしゃい相原さん。ちょっと待ってて下さいね」
小春の声だ。犬の吠えるような音も小さく聞こえた。ほどなく金属製の扉が
すーっと動いて小春が顔を見せ、優人を玄関へと案内した。足元にちょろちょ
ろと着いてきたのはウェルシュ・コーギー・ペンブロークの子犬。来客をファ
イル化するかのように丹念に匂いを確認している。踏んづけないようにと身動
きできなくなった優人に、小春がこの可愛い存在の名前を告げる。
「ホムンクルスっていうんですよ。生後半年の男の子です」
「ホムンクルスってあのファウストに出てくる……」
「私はホムちゃんって呼んでますけどね。良かった、相原さんのことは好きみ
たいです」ホムンクルスはいらっしゃいとでもいうかのように、優人の足に両
前を掛けて見上げている。どうやら第一関門を突破したらしい。
青山家の自宅を兼ねたスタジオ・カルテジアンは地上三階、地下二階の建物
にエレベーターを完備。他にガレージと庭がある。玄関を入るとすぐに広い会
議室兼リビング。事務室と簡単なダイニング・キッチンまでが一階にあった。
優人の荷物が入っていたのは二階の洋室。つまり青山家と同居することになる
ようだ。元々二世帯住宅として建てられており、一階と地下が業務用。二階と
三階がそれぞれ住居設備を備えた造りとなっている。
「一人暮らしの方が良かったですか」小春に上目遣いで聞かれた。おじである
徹、つまりファウストは研究室のある地下に住んでおり、由梨と小春は三階に
それぞれ部屋がある。他のスタッフは通いなので、余っている二階の部屋を優
人にあてがったらしい。
「私たちのボディーガードもお願いしますね」小春の言葉に優人は「ボディー
ガードなんて」と軽口を返そうとしたが、小春が真面目な顔だったのでやめた。
彼女の父が五年前に失踪している、という久志の言葉を思い出したのだ。聞き
たいことはいくらでもあったが、慌てないことにしよう。ここでの身の振り方
は慎重に、ゆっくり進めるべきなのだ。
優人は荷物を片付けて、新生活の準備を整えることにした。
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