第一章 神の血
第一話 光の先
「はぁーーはぁーーはぁーーはぁーー……」
もの音ひとつしない森。
薄暗く、光が足元まで届かない深い森だ。
何十メートルもある大木がいたるところに立っている。その幹の太さは、俺が二人、手を伸ばしても届かないだろう。
濃厚な緑と土の香りが漂う。
人の手がまったく入っていない原生林。
男の呼吸する音は……森のなかで、お前は部外者だと言わんばかり浮いていた。
——無音は人を不安にさせる。森は男の音以外、失ったように無かった。
男は焦り、混乱し、走り、逃げていた……。
薄暗く、道もない森は、前に進むだけでも困難だ。
男は必死に汗だくで走る最中、思い出そうとしていた、何故ここにいるのかを。
「こ、こはどこなんだ……アレは……な、なんなんだ……」
昨日は何をしていた……? ダメだ……くそっ。
泥を蹴り上げ、よろけながらも走る。
死にたくない、その一心で。
「はぁーーはぁーー……」
大木の間を体をぶつけながらも走る。手をついた黒い大木には、男の赤い血が点々と跡になって染みつく。
白色の丈の短い服は、木の棘や枝で傷つき破けてボロボロだ。
むき出しの手も足も切れて血が出ている。
「はぁーーはぁーー」
胸が焼ける。
このままじゃ……。
もつれそうになる足を動かし、邪魔な枝を痛む腕で払いのけ走る。
追いつかれる……。
男は後ろが気になるが、振り向く事をやめる。
もう一度、見てしまったら終わりだ。
純粋な恐怖。
誰しもが、日常を生きていて死を感じる事はないだろう。
だが、男には死が迫っていた。
泥にまみれようが手足が傷ついて辛くても走るしかない。
まだ、死にたくない。
男の約三十メートル後ろに、化け物がいた。
見た目はトラに似ているが、大きい。全長は八メートル以上はある。
「ガァーーーーーーーーーーッ!!!!」
——凄まじい叫び声が化け物から発せられる。
耳の奥をつん裂く獣の声。
——なんなんだこれは……、夢なら今すぐ覚めてくれっ!
木にぶつかりながら、足がもつれながら男は——なんとか必死に走る。
……化け物は余裕だった。いつでもこの獲物を殺せるから。
最初、見つけた時は時々、喰らう猿かと思った。
が、違う。
毛のない猿だ。
初めて見る猿。
化け物のは面白いと思った。
だから、逃した。
殺すのはいつでも出来る。
あの毛のない生き物が逃げる様を嗤う。
吠えれば、面白いぐらいあの生き物は恐怖する。それが楽しくて堪らない。
男は勘違いしていた。
木々が化け物の邪魔になって、まだ喰われずにすんでいるのではない。化け物の気まぐれで生きているだけだった。
運良く男は助かっていた。
悪意ある生存レース。
男の死は時間の問題だった。
「はぁーーはぁーーはぁーーはぁーー」
藪をかき分け土を蹴り走る。
満身創痍でも走る。
徐々に、目に光が入ってくる。
薄暗い森の葉の隙間から刺す光。
闇なかに射す白い帯。それが、段々増えてきている。
男も気づく、体に時折、順々にあたる光の筋に。
これは……。
「はぁーーはぁーー……——あ!」
——突然、光の中に男は飛び込んでいた。白い、眩しい光が目を刺す。
見えたのは……。
青い空。
風の音に揺らぐ草原。
広がる緑と黄緑と青い色。
森は唐突に終わった。
その先には膝丈ほどの草が風に揺れる、草原が広がっていた。
「はぁーーはぁーー、はぁーー……、ふうーー……」
自分でも驚く程かいている汗を手で拭い、身体を落ち着かせようと、呼吸のリズムを変える。
——だが、休まずに再びすぐに走り出す。
早く、早く逃げないと。
……が、しかし……男は、すぐに立ちどまった。
「……な、なんだあれは?」
見上げる空には……。
「三つ?」
白い月が三つ空に浮かんでいた。
「なんなんだよ………ここは………」
男は立ち止まり、黙って三つの月を見上げる。
——立ち止まる男の体に風が当たり、通り過ぎていく。
きらめく緑の草原の中に立ち、風に吹かれ、ぼんやりとしている。
その瞬間、男の時はゆっくりと止まった。
ただ突っ立っている男に強い風が吹き抜ける。
風に揺れる草原のなかに、——男は走る事を忘れて立ち尽くしついた。
死がそのすぐ近くに迫っている事も忘れ、立ち尽くしていた。
その時。
——ガサガサガサガサッ! バキッ!!
木をへし折り、草原の草が激しく揺れ、地を乱暴に蹴り、現れる。
化け物が。
「ガァーーーーッ!!」
男は音に気づき、慌てて後ろを振り向く。
飛びかかってくる影。
どこか、笑っているように見える化け物の顔。
振り下ろされる化け物の腕の一撃。
男はなんとか、それを咄嗟に腕をくの字にして防御をするが。
——ドギャッ!!
まともに受けて吹き飛ぶ。
十メートル以上、宙を飛び地面を派手にゴロゴロと転がる。
「か、かはあっ……ごほっごほっ」
口から吐き出る血が地面を赤く染める。
男に向かってゆっくり歩いてくる化け物、もうレースは終わりなのか、悠々と歩いてくる。
男は、手でグシャグシャっと乱暴に口から出ている血を拭い、立ち上がる。
「ふざけんなよ……こんなわけのわからんまま」
男の体が薄ぼんやりと光り出す。
「……わけのわからんまま死んでたまるか」
握りしめる右手に光が集まり出す。
男は気づいていないようだ。
「黙って喰われてたまるか!」
男は理解していなかった。化け物の一撃を受けて何故まだ生きているのか。
化け物は知らなかった。目の前の俺は自分の手に余るものということに。
両者、互いを殺そうと地を蹴り衝突する、その瞬間。
『バキャッ!!』
——突然、化け物の、頭が爆ぜた。
一瞬の静寂。
化け物は頭を失い、情けなく地に落ちる。
だくだくと首から流れる大量の血が草を真っ赤に塗り変えていく。
「はぁ?」
男は見る。
これを起こした人間を。
それは女だった。
「おいおい、こんな所に私以外の人間がいるとは……大丈夫かい? ん? 君は……?」
女は少し驚いた顔をして。
「ああ、悪い。神血の玩具……トイイコルの少年よ。邪魔をしたかな?」
女は美しかった。
真っ赤な髪は肩の下まで真っ直ぐ伸び。
雪のように白い肌。
意思が強そうな上がった眉。
スッと形の良い鼻に可愛らしい柔らかそうな唇。
まだ幼さが残る、大きな青い目でキョロキョロと好奇心旺盛にこっちを見ている。
「君は……、黒髪……。そうか、ここではないところからか……」
なんの話だ……?
「私はリリー、君の名前は?」
なまえ……名前……俺は……誰だ?
体の中心、魂から浮かんでくる感覚……俺は……。
「……セイ……」
「セイか……、ようこそセイ、神々が暇つぶしに創った世界、スレイトラッドへ」
にっこり笑ったリリーは、セイに手を差し伸べる。
「君、汗と泥と……血でボロボロだよ? 大丈夫?」
リリーはセイの手を掴む。
力のこもる手に生きている実感が、ジワリと湧いてくる。
俺は、助かったことに嬉しくて笑おうとするが……。
そこで意識をうしなった。
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